幼少期と出自
フィリップ6世は、1293年にフランス王国の名門ヴァロワ家に生まれました。父はヴァロワ伯シャルル、母はナバラ王女マルグリットであり、フィリップは高貴な血筋を持つ人物として誕生しました。当時のフランス王国はカペー朝の全盛期であり、フィリップの血縁関係もまたフランス王家と深く結びついていました。ヴァロワ伯家は、王家の支流でありながらも政治的に大きな影響力を持ち、フランス王国の統治機構の中枢に位置していました。フィリップは幼少の頃から王族としての教育を受け、宮廷での政治や軍事の訓練を積む機会に恵まれました。
幼いフィリップは、父のヴァロワ伯シャルルから騎士道精神を叩き込まれ、王族にふさわしい教育を受けました。幼少期から宮廷で育った彼は、ラテン語やフランス語の読み書きに通じ、さらに政治学や法律、宗教についても学びました。当時のフランス王国において、貴族の子弟は騎士としての訓練を受けることが必須とされており、フィリップも例外ではありませんでした。少年時代には馬術や剣術、槍試合などの軍事訓練を受け、将来的な戦争や政治的駆け引きに備えていました。加えて、宮廷内での人間関係を学び、貴族同士の争いや同盟形成の重要性を理解するようになります。
フィリップの成長期には、フランス国内の政治情勢は比較的安定していましたが、一方で周辺諸国との関係は決して穏やかではありませんでした。イングランド王国との緊張関係は続いており、さらには神聖ローマ帝国やフランドル地方との衝突も繰り返されていました。こうした中で、フィリップはフランス王国の未来を担う者として、戦略的思考や外交交渉の技術を磨いていきました。
フィリップの台頭と王位継承の経緯
フィリップ6世が王位に就くまでの経緯は、単純ではありませんでした。1328年、フランス王シャルル4世が子を残さずに崩御したことで、フランス王位の継承問題が発生しました。カペー朝の直系が途絶えたこの時、最も有力な王位継承者と見なされたのが、シャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップでした。彼の母マルグリットはカペー家の血を引いており、さらに父シャルル・ド・ヴァロワもフランス王フィリップ3世の息子であったことから、血統的にも王位にふさわしいと考えられていました。
しかし、フランス王位を巡る争いは、この時点で決して単純なものではありませんでした。シャルル4世の甥にあたるイングランド王エドワード3世もまた、王位継承権を主張していたのです。エドワード3世の母イザベラはシャルル4世の姉であり、エドワードはカペー家の直系の血を受け継いでいました。この主張が認められれば、フランス王位はイングランド王の手に渡ることになり、フランス貴族たちはこれを強く警戒しました。
ここで重要な役割を果たしたのが、「サリカ法」に基づくフランスの伝統的な王位継承原則でした。サリカ法では、王位は「男系男子によってのみ継承される」とされており、女性を通じた王位継承は認められませんでした。この解釈に従えば、エドワード3世の王位継承権は否定されることになります。その結果、1328年にフランスの貴族会議(パリ高等法院)は、フィリップ・ド・ヴァロワをフランス王として承認しました。こうしてフィリップ6世が即位し、新たな王朝であるヴァロワ朝が始まったのです。
即位と初期の統治
フィリップ6世は1328年にフランス王として正式に即位しましたが、彼の治世は当初から多くの課題に直面しました。即位直後、まず対処しなければならなかったのは、フランドル地方の反乱でした。フランドルは経済的に重要な地域であり、特に毛織物産業が栄えていました。しかし、フランドルの都市はフランス王の直接統治を嫌い、独立を目指していました。フィリップ6世は1328年にカッセルの戦いでフランドル軍を破り、フランス王の権威を示しましたが、この地域の反抗はその後も続きました。
さらに、フィリップ6世はフランス王国の経済改革にも取り組みました。当時のフランスは貨幣の価値が不安定であり、経済的混乱が続いていました。フィリップ6世は貨幣の安定化を目指し、税制の改革を試みましたが、これが後に民衆の反発を招く要因となります。また、貴族層との関係を維持するために、特定の貴族に対して土地や権利を与える政策を進めましたが、これにより王国の財政が圧迫されることとなりました。
百年戦争の勃発
フィリップ6世の治世で最も重要な出来事の一つが、1337年に始まる「百年戦争」です。この戦争の原因は、フランス王位継承問題とフランスとイングランドの長年の対立にありました。イングランド王エドワード3世は、自らのフランス王位継承権が否定されたことを不満に思い、フランスへの攻撃を開始しました。これにより、フランスとイングランドの間で長期にわたる戦争が勃発することになります。
百年戦争の最初の段階では、フランス軍は海戦において大きな敗北を喫しました。1340年のスロイスの海戦で、イングランド海軍がフランス艦隊を壊滅させたことにより、制海権はイングランド側に渡りました。これにより、イングランド軍はフランス本土への侵攻を容易にし、フランス各地で戦闘が激化していきます。
この頃、フィリップ6世は国内の貴族たちをまとめ上げ、軍事力の強化を図りました。しかし、フランス軍の編成はまだ十分に整っておらず、組織的な戦闘を行うには時間が必要でした。そんな中、1346年のクレシーの戦いでフランス軍はイングランド軍に大敗を喫しました。エドワード3世率いるイングランド軍は、長弓兵を巧みに活用し、フランス騎士軍を圧倒しました。この敗北により、フランス王国の軍事戦略は大きく見直されることになります。
クレシーの敗北と戦争の長期化
1346年のクレシーの戦いにおける大敗は、フィリップ6世の治世における重大な転換点となりました。この戦いでイングランド軍は、組織的な長弓兵の運用によってフランス軍の騎士たちを圧倒し、戦場を支配しました。フランス軍は数的には優勢でしたが、騎士中心の戦術が時代遅れとなりつつあることを露呈しました。フィリップ6世は混乱の中で撤退を余儀なくされ、この敗北によってフランス国内の士気は大きく低下しました。
この戦いの結果、イングランド軍はフランス北部への進撃を続け、ついにカレーを包囲します。フィリップ6世はカレー奪還のために軍を集結させましたが、イングランド軍の強固な防御を突破することができませんでした。最終的に1347年、カレーはイングランドの手に落ち、フランスにとって屈辱的な出来事となりました。この都市の喪失は経済的にも大きな痛手となり、フランス王国の威信が揺らぐこととなりました。
黒死病の流行と国内の混乱
フィリップ6世の治世におけるさらなる悲劇は、1347年からフランス国内に広がった黒死病(ペスト)の流行でした。この疫病はヨーロッパ全土に壊滅的な影響を及ぼし、フランス王国も例外ではありませんでした。フランスの人口は急激に減少し、農村では労働力が不足し、経済活動が停滞しました。都市部では疫病の拡大により社会秩序が崩壊し、人々は恐慌状態に陥りました。
ペストの影響により、フィリップ6世の統治はさらに困難になりました。税収は激減し、貴族や地方の領主たちは独自の権限を強化しようとしました。これにより中央政府の統制力が弱まり、フランス王国は政治的にも不安定な状態に陥ります。また、疫病に対する迷信や不安から、ユダヤ人や異端者に対する迫害が激化し、社会不安が広がりました。フィリップ6世は秩序回復のために努力しましたが、状況は容易には改善しませんでした。
晩年の統治と財政危機
戦争と疫病の影響により、フランス王国の財政は逼迫していきました。フィリップ6世は軍事費を捻出するために新たな税を導入しましたが、これが民衆の反発を招きました。特に1340年代後半には、各地で農民反乱が頻発し、王権の弱体化が顕著になりました。さらに、貴族たちの間でも王の指導力に対する不満が高まり、フィリップ6世の権威は徐々に揺らいでいきます。
この時期、フィリップ6世は王国の安定を図るために息子ジャン(後のジャン2世)を積極的に政治の前線に立たせるようになりました。ジャンは軍事的な指導者としての経験を積み、次代の王としての準備を進めました。しかし、フランスの財政的苦境や戦争の継続により、状況が劇的に好転することはありませんでした。
フィリップ6世の死
1350年8月22日、フィリップ6世はフランス北部のノジャン=ル=ロトルーで病に倒れ、そのまま崩御しました。享年57歳でした。彼の死因は明確には記録されていませんが、当時の流行病や疲弊した統治状況を考慮すると、長年のストレスと健康悪化が要因と考えられます。フィリップ6世の死後、息子のジャン2世がフランス王として即位しましたが、百年戦争はさらに激化し、フランス王国はさらなる試練を迎えることとなります。
フィリップ6世は、ヴァロワ朝最初の国王としての役割を果たしましたが、その治世は戦争と疫病によって多くの困難に見舞われました。彼の政策は一部成功を収めましたが、戦略的な誤算や財政問題によってフランス王国を安定させることはできませんでした。それでも、彼の統治は後のフランス王たちにとっての基盤となり、ヴァロワ朝は百年戦争を乗り越えて存続していくことになります。