クロンプトン – 世界史用語集

クロンプトン(Samuel Crompton, 1753–1827)は、18世紀後半のイギリスで紡績機「ミュール(spinning mule)」を考案した発明家です。ミュールはジェニー紡績機の多錘・引き伸ばし機構と、アークライトの水力紡績機(ウォーターフレーム)の撚りの強さ・均一性を統合した装置で、細くて丈夫な糸を大量かつ安定して生産することを可能にしました。これにより、高級綿布(モスリンなど)から一般的な機械織りの経糸まで、綿工業の製品範囲と品質が飛躍的に拡大し、産業革命の主舞台であるランカシャー綿業地帯の生産体系を決定づけました。他方、クロンプトン本人は資金難と特許取得の失敗から大きな利益を得られず、晩年に至るまで経済的に恵まれませんでした。人物像としては、工場経営者というよりも「職工・発明家」に近く、技術革新が必ずしも発明者個人の富に直結しない18世紀工業化の現実を象徴する存在だと理解すると全体像がつかみやすいです。

以下では、当時の紡績技術の系譜、クロンプトンの生涯とミュールの発明、ミュールの技術的特徴と生産組織への影響、世界経済との連関、そして評価と記憶について整理します。教科書では「ミュールの発明者」という一語で済まされがちな項目ですが、技術・社会・経済の諸相をつないでおくと理解が深まります。

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前史:紡績革命の連鎖—ジェニーとウォーターフレームの間で

18世紀中葉までのヨーロッパ綿業は、家内工業的な手紡ぎ・手織りが中心でした。需要拡大に対して供給が追いつかず、「紡ぎのボトルネック」は構造的な問題でした。ここに、(1)カトライトの飛び杼(1733)に始まる織機側の能率向上、(2)植民地・奴隷制に支えられた原綿供給の拡大、(3)市場の拡大と価格競争、という圧力が重なり、紡績の機械化は急務となっていました。

1760年代、ジェニー紡績機(ジェームズ・ハーグリーヴズ)は、多数の錘(スピンドル)を並列に動かし、手操作で繊維束を引き伸ばして撚りをかける装置として登場します。細番手の緯糸づくりには向きましたが、撚りの強さや均一性に限界があり、経糸としては不足でした。一方、リチャード・アークライトの水力紡績機(1769特許)は、ローラーで一定速度差を与えて繊維束を段階的に延伸し、安定した撚りを供給する装置で、強い糸を得やすい反面、番手の細さと柔軟な操作性では制約がありました。

この二つの長短を「合体」させ、細く・強く・均質な糸を量産できる装置が求められていたところに、クロンプトンのミュールが出現します。「ミュール(ラバ)」の名は、ロバとウマの雑種にちなみ、二方式の特性を合わせ持つ比喩からきています。

生涯と発明:ボルトンの職工が生んだミュール

クロンプトンはランカシャーのボルトン近郊で生まれ、幼少期から紡績・織布に携わりました。青年期、彼はホール・イン・ザ・ウッド(Hall i’ th’ Wood)と呼ばれる古い館の一角で、家族の生計を助けるためにジェニーを改良しては糸を紡ぐ生活を送りつつ、試行錯誤を重ねます。原綿の質や湿度、撚りのかけ方に対する現場の感覚が、彼の機械設計の土台でした。

1770年代、彼はジェニーのキャリッジ(可動台車)にローラー延伸の考え方を組み込み、引き出し(ドラフティング)・撚糸・巻き取りの三工程を一連の往復運動で自動的にこなす仕組みを整えました。1779年頃に実用レベルに達したこの装置が、のちに「スピニング・ミュール」と呼ばれるものです。発明直後、地域の機械破壊(当時は新機械への反発が根強く、雇用と賃金への不安が背景にありました)に巻き込まれ、装置が破壊される被害も受けました。資金と法務の後ろ盾を欠いた彼は、アークライトのように強固な特許と工場経営で利益を確保することができませんでした。

クロンプトンは特許取得を断念し、地域の紡績業者に対して「設計を公開する代わりに出資を募る」方式をとりましたが、約束通りの拠出が集まらず、経済的報いは乏しいものでした。のちに議会へ請願した結果、1812年に補償金(年金ではなく一時金)が与えられますが、技術の社会的便益に比して十分とは言えませんでした。彼自身は小規模な紡績・織布を続け、地域の音楽活動などにも関わりながら、1827年に没します。

ミュールの技術:動作の原理と改良の道筋

ミュールの核心は、キャリッジ(台車)の往復運動で、固定された撚り軸(スピンドル列)と移動するローラー/ガイドの相対運動を利用して、①ドラフティング(繊維束を所定の比率で引き伸ばす)、②撚糸(スピンドル回転で撚りを与える)、③巻き取り(得られた糸をコップに整然と巻く)を、一本一本の糸についてほぼ同時並行で達成する点にあります。操作員(ミュール・スピナー)は、往復のタイミング、湿度、張力を調整し、切断(エンド切れ)に対して子どもや若年の補助者(ピ―サー)が素早く結び直す体制をとりました。

初期のミュールは手動で、熟練と身体技法に大きく依存していました。19世紀に入ると、リチャード・ロバーツら機械工によりセルフアクティング・ミュール(自動ミュール)が実現し、往復・張力・巻き取りが機械的に同期され、一層の大量生産が可能になります。動力源も水力から蒸気へ転換し、ランカシャーの都心部・港湾近くに巨大工場が林立しました。ミュールは、ジェニーの柔軟さとウォーターフレームの強撚性を兼ね、極細番手(100番手を超える高級糸)から中細番手までの幅広いレンジで高品質の糸を供給できたため、綿業の標準機となりました。のちにリング精紡機がアメリカで発展すると、高速・連続運転の利点が評価され、粗~中番手ではリングが、極細・高級ではミュールが、といったすみ分けが進みます。

技術的ディテールとしては、(1)ドラフト比の最適化(前後ローラーの周速比、繊維長とのマッチング)、(2)撚係数(撚りの強さと番手の関係)の管理、(3)コップ形成のトラバース機構(糸層の整列と崩れ防止)、(4)湿潤制御(蒸気や湿度で繊維をしなやかに保ち毛羽を抑える)、(5)糸切れ検出と再結の作法、などが、品質と歩留まりの鍵でした。これらは装置の設計だけでなく、職場の労務編成や技能伝承と表裏一体でした。

産業・社会への影響:工場制度、労働、地域社会

ミュールは生産性の段違いの向上をもたらし、ランカシャーのボルトン、マンチェスター、オールダム、ロッチデールなどに巨大紡績工場群を出現させました。これに伴い、家内手工の紡ぎは急速に競争力を失い、農村から都市への人口移動が加速します。工場では、ミュール・スピナーが高賃金の熟練職として位置づけられ、その補助としてピ―サーなど多数の少年労働が動員されました。糸切れを結び直す細かな作業は小さな手に向くと信じられ、長時間労働と安全衛生問題が深刻化します。やがて工場法による労働時間・年少者保護の規制が導入され、機械の自動化も進んで、熟練依存度は徐々に低下しました。

ミュールによる高品質細番手糸の供給は、モスリンやキャラコといった薄手の綿布市場を拡大し、インド綿布に対する競争力を高めました。さらに、強い経糸が安く安定して供給されることで、機械織機(後のパワールーム)が本格的に普及し、織布の機械化・大量化が一体で進みます。紡績と織布の両輪がそろうと、価格の低下と品質の均一が実現し、欧州内外の衣料消費が拡大、衣服の大衆化が現実のものとなりました。

ただし、この繁栄は帝国的な繋がりに強く依存しました。原綿は18世紀末から19世紀半ばにかけて、アメリカ南部の綿花プランテーション(奴隷制)に大きく依存し、リヴァプール港を経てランカシャーへ運び込まれました。ミュールが生み出した需要の爆発は、奴隷労働と機械工業の接続という、産業革命の暗部を拡大する側面も持っていました。南北戦争期の「綿花飢饉」は、ランカシャーの失業と救済運動を引き起こし、グローバルな供給網の脆弱性を可視化しました。

地域社会においては、ミュール・スピナーは高賃金の熟練労働者として自立的な文化を形成し、互助組合、友愛団体、読書クラブ、労働運動の核となりました。他方、景気循環や価格競争が激化するたびに賃金交渉が先鋭化し、ストライキやロックアウトが頻発しました。機械の自動化が進む19世紀後半には、熟練の地位は揺らぎ、リング精紡への移行や新世界・植民地への技術拡散とともに、職能の構図は変化します。

世界経済への波及:アジア・大西洋・帝国の中のミュール

ミュールの誕生は、イギリスの綿業を世界市場の覇者へと押し上げ、19世紀の貿易構造を塗り替えました。インドでは、伝統的な手紡ぎ・手織り産業が打撃を受け、都市部では機械工場が台頭します。イギリス本国からのミュールと蒸気機関の移植は、工場制の労働・資本関係とともに社会構造を変えました。日本でも、明治期に官営・民営の紡績所が設立され、輸入機械としてミュールとリングが併用されました。湿度管理・電力供給・熟練育成など、工場運営のノウハウは、技術輸入の核心でした。

綿糸・綿布の国際価格は、ミュールとリングの増設によって長期低下傾向を示し、衣料の大衆化と衛生の改善に寄与しました。同時に、綿花の単一作物化は各地で土地利用の偏りを生み、価格暴落時には農民の困窮が深刻化します。ミュールは単なる機械ではなく、原綿の産地、港湾・海運、金融、商社、植民地行政、関税政策、技術者教育など、多層のネットワークのハブとして機能しました。

評価と記憶:発明者の報い、技術の継承、産業遺産

クロンプトンの評価は、発明の独創性と社会的便益の大きさに比して、個人の経済的報酬が小さかったことへの同情を伴います。彼が特許を取得できなかった背景には、法務・資金・後援者ネットワークの不足だけでなく、当時の特許制度の未整備や、地域社会の技術共有慣行もありました。のちの議会補償や銘板・銅像の建立は、地域が「忘れられた発明者」を記憶にとどめようとする営みの表現です。

技術史的には、ミュールは19世紀前半の綿業を牽引した「王者」であり、ロバーツの自動化や細部改良を経て成熟しました。20世紀に入ると、保守費用・熟練依存・速度の限界からリングに主役を譲りますが、極細・高級用途での地位は長く維持されました。今日、産業遺産として保存されるミュールは、工場建築・エンジン・ボイラー・配電盤と一体で展示され、都市のアイデンティティ形成にも関与しています。

教育上は、ミュールを「二方式の統合」として理解すると、技術進歩が直線的ではなく、異なる系統の強みの組み合わせによって飛躍が起きることが見えてきます。さらに、発明—資本—労働—帝国—消費という連鎖の中で、技術の効果がどこに現れ、どこに外部不経済をもたらしたのかを具体的に学ぶ手がかりにもなります。クロンプトンの物語は、創意と制度・資本の結びつき、知的財産と社会的受容、労働の尊厳と保護という、現代にも直結する論点を孕んでいます。

総じて、クロンプトンは、産業革命の中核産業である綿業を飛躍させた「装置の統合者」でした。ミュールが開いた生産性と品質の新地平は、工場制度と世界貿易の大規模な再編を促し、人びとの衣生活を根底から変えました。その陰で、発明者本人は十分な報いを得られず、供給網の背後には奴隷制や環境負荷が横たわっていたことも、産業革命の二面性として記憶すべきです。技術の光と影を合わせて捉えるとき、クロンプトンの名は、単なる「ミュールの父」を超えて、近代の始まりの複雑さを語るキーワードとして生きてきます。