「巡礼始祖(じゅんれいしそ)」または「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)」とは、17世紀初頭にイングランドから北アメリカへ渡り、現在のマサチューセッツ州プリマスに植民地を築いた、清教徒(ピューリタン)分離派の移住者たちを指す呼び名です。とくに、1620年にメイフラワー号で渡航した一団が有名で、アメリカ合衆国の歴史上では「信仰の自由を求めて新大陸に渡った先駆者」「感謝祭(サンクスギヴィング)の起源」といったイメージで語られることが多いです。日本語の教科書や用語集でも、「北アメリカ植民の出発点の一つ」として紹介されます。
ただし、「巡礼始祖」という呼び方は、彼ら自身が名乗った公式名称ではなく、のちに19世紀以降のアメリカで、「建国の父祖」を強調する文脈でつくられ、広まった言葉です。また、ピルグリム・ファーザーズと言うと「信仰の自由のための理想主義的な移民」というイメージが先行しがちですが、実際には宗教的動機とともに、経済的な理由やイングランド国内の政治・宗教対立、植民地経営を進める会社(ヴァージニア会社など)の利害も複雑にからみ合っていました。さらに、彼らの定住は、先住民社会との微妙でしばしば暴力的な関係をともなうヨーロッパ人による植民の一環でもありました。
この解説では、まず「巡礼始祖/ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人びとの正体と、その用語の意味を整理します。つぎに、彼らがイングランドで置かれていた宗教的状況や、いったんオランダへ逃れたのちに新大陸行きを決意するまでの経緯を説明し、メイフラワー号での航海とプリマス植民地の創設、そして先住民との関わりをたどります。最後に、のちのアメリカ史の中で巡礼始祖像がどのように神話化され、また批判的に見直されてきたのかを紹介します。概要だけでも、「巡礼始祖=メイフラワー号で渡った清教徒分離派を中心とする、初期ニューイングランド植民の象徴的な集団」というイメージを持てるようにしつつ、詳しい部分は各見出しで立体的に理解できるようにしていきます。
巡礼始祖とは誰か――用語の意味と歴史上の位置づけ
「巡礼始祖」という日本語は、「Pilgrim Fathers」を訳したものです。「Pilgrim」は本来、「巡礼者、聖地を目指して旅をする人」という意味で、宗教的な理由から故郷を離れ、異郷へ移動する人びとを連想させます。「Father」は「父、先祖」を意味し、「国の父祖」「建国の父」といったニュアンスもあります。したがって「Pilgrim Fathers」は、「信仰ゆえに旅立った先祖」「巡礼するように新大陸へ向かった建国の父たち」といったイメージを込めた呼称だといえます。
歴史的には、この語はとくに1620年にメイフラワー号でプリマスに到着した約100名の入植者のうち、イングランド国教会から分離して独自の教会をつくろうとした「分離派(セパラティスト)」を中心とするグループを指すことが多いです。ただし、実際の乗客の中には分離派以外の人びとも含まれており、「巡礼始祖=メイフラワー号の宗教移民全員」というわけではありません。また、1620年前後にはヴァージニアやニューイングランドの他地域にもさまざまな入植団が到着しており、巡礼始祖だけが「最初の植民者」というわけでもありません。
それでも、「巡礼始祖」が特別な象徴として扱われるのは、彼らの物語が後世のアメリカ人によって、「信仰の自由」と「自治の精神」を体現するエピソードとして語り継がれたからです。船上で結ばれたとされる「メイフラワー誓約(Mayflower Compact)」は、移民たちが互いに契約を結び、自分たちの自治的な政治共同体をつくるというイメージで理解され、「アメリカ民主主義の源流の一つ」として語られることもあります。こうした物語化の過程を意識すると、「巡礼始祖」という用語が持つ歴史的意味がよりはっきり見えてきます。
イングランドの宗教対立と新大陸行き決断まで
巡礼始祖として知られる清教徒分離派の人びとは、もともとイングランド国内の宗教対立の中から生まれました。16世紀のイギリスでは、ヘンリ8世以来、国王を首長とするイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)が成立しましたが、その儀式や組織にはなお「カトリック的」要素が色濃く残っていました。これに不満を抱き、教会をより「純粋(ピュア)」な形に改革しようとした人びとが「清教徒(ピューリタン)」です。
清教徒の中にも、考え方の違いがありました。国教会の枠内で改革を進めようとする穏健派と、「ローマ教会の影響が強すぎる国教会そのものから分離し、まったく新しい独立した教会をつくるべきだ」と主張する急進派(分離派)に分かれたのです。巡礼始祖の中心となったのは、この分離派でした。彼らは、自分たちが聖書の教えに忠実な「真の教会」であると信じ、国王や国教会からの弾圧にさらされることになりました。
イングランド王ジェームズ1世(在位1603〜1625年)は、王権と国教会の統一を重んじ、分離派に対して厳しい態度をとりました。その結果、一部の分離派は、1608年前後からより宗教的寛容があるとみなされたオランダ共和国へと移住します。たとえば、のちに巡礼始祖の指導者となるウィリアム・ブリュースターやウィリアム・ブラッドフォードらは、一時オランダのライデンに移り住み、そこで独自の教会生活を続けました。
しかし、オランダでの生活にも問題がありました。言語や習慣の違い、経済的困難、子どもたちがオランダ社会に同化してしまうことへの不安などがあったとされます。分離派の指導者たちは、「信仰の自由を守りつつ、自分たちの共同体を維持できる場所」を求めて、別の選択肢を模索するようになりました。その一つとして浮上したのが、「新大陸・北アメリカへの集団移住」です。
当時、イングランドはヴァージニア会社などの特許会社に植民地経営を委託し、北アメリカの大西洋岸への入植を進めていました。分離派の一部は、この枠組みを利用して、イングランド政府からの許可と会社からの支援を得ながら、自分たちの宗教共同体を新世界に築くことを構想します。こうして、ロンドンやオランダでの交渉と準備を経て、メイフラワー号での渡航計画が具体化していきました。
メイフラワー号の航海とプリマス植民地の成立
1620年、分離派を中心とする一団と、経済的な理由や冒険心から新大陸行きを選んだ他の移民たちを合わせて、およそ100名ほどがメイフラワー号に乗り込みます。当初の計画では、彼らはヴァージニア植民地の北部(現在のニューヨーク周辺)に入植する予定でしたが、悪天候や航路のずれにより、船はさらに北へ流され、現在のマサチューセッツ州ケープコッド近くにたどり着きました。
予定地から外れた場所に上陸せざるをえなくなったことで、移民団の間には「どのような権限にもとづいて共同体を運営するのか」という問題が生じます。そこで、彼らは船上で「メイフラワー誓約(コンパクト)」と呼ばれる短い文書を作成し、多数の成人男性が署名したと伝えられます。この誓約は、神の前で互いに契約を結び、「自己統治的な政治体制を築き、一般の善のために法律や規則を制定・遵守する」ことをうたったものとされます。後世、この出来事は、「新大陸における自治と契約に基づく政治の象徴」として高く評価されるようになりました。
メイフラワー号の乗客たちは、その後プリマスと名づけた場所に定住を開始します。しかし、初めての冬は非常に厳しく、多くの移民が寒さ・飢え・病気で命を落としました。約半数が1年目で死亡したとも言われます。こうした苦難の中で、彼らの生存に大きな役割を果たしたのが、周辺に住んでいた先住民の人びとでした。
プリマス植民地の周囲には、ワンパノアグ族などのアルゴンキン系先住民が暮らしていました。なかでも、英語を話すことができたスクワント(トゥスクァント)やサモセットといった人物が、巡礼始祖の一団と接触し、トウモロコシや魚の捕り方、土地の利用方法などを教えたと伝えられます。これにより、移民たちは次第に環境に適応し、共同体としての基盤を固めることができました。
1621年の秋、収穫を祝う宴が開かれ、一部の先住民も招かれてともに食事をしたという出来事が、のちに「最初の感謝祭」として語られます。今日アメリカで祝われるサンクスギヴィング・デーは、この物語を起源の一つとして位置づけています。ただし、当時の宴がどの程度まで「感謝祭」として意識されていたのか、どのような料理や儀礼があったのかについては、史料が限られており、後世の想像や演出が多分に含まれていると考えられます。
プリマス植民地は、その後も少人数ながら存続し、近隣のマサチューセッツ湾植民地など他のニューイングランド植民地とともに、北アメリカ東岸におけるイングランド系社会の一画を形成していきました。経済面では、農業や毛皮交易、徐々に発展する海上貿易などが中心でした。
先住民との関係と植民地社会のあゆみ
巡礼始祖の物語は、しばしば「先住民の助けによって冬を生き延び、平和的な共存を実現した」という明るいイメージで語られますが、現実の歴史はそれほど単純ではありません。長期的に見ると、ヨーロッパ人の到来は、病気の流入や土地の侵食、政治バランスの変化を通じて、先住民社会に大きな打撃を与えました。
プリマス植民地が成立する以前から、北アメリカ東岸の先住民は、ヨーロッパ人との接触によってもたらされた疫病に苦しんでいました。16世紀末から17世紀初頭にかけて、未知の病がコミュニティを襲い、多くの人びとが命を落としたとされています。そのため、巡礼始祖が到着した頃には、すでに人口減少や社会不安が広がっており、これが一部の部族にとっては「新たな同盟相手としてのイングランド人」を受け入れる要因にもなりました。
プリマス植民地とワンパノアグ族のあいだには、一時的な同盟関係が築かれ、互いに軍事的な支援や交易を行う場面もありました。しかし、イングランド系植民地が拡大し、土地の需要が高まるにつれて、先住民の土地への侵入や、文化・宗教的な摩擦が増えていきます。17世紀後半には、メタコメット(フィリップ王)を中心とする「フィリップ王戦争(King Philip’s War)」が勃発し、ニューイングランド一帯を巻き込む大規模な戦争となりました。
この戦争は、先住民側にとって壊滅的な結果をもたらし、多くのコミュニティが破壊され、生存者も土地を追われることになりました。巡礼始祖の子孫を含むヨーロッパ系植民者の側も、大きな被害を受けましたが、最終的には植民地側の勝利に終わり、ニューイングランドにおけるヨーロッパ人支配の決定的な転換点となります。こうした経緯を踏まえると、巡礼始祖の移住は、友好的共存の物語だけでなく、植民地拡大と先住民社会の衰退という長いプロセスの出発点でもあったことが分かります。
プリマス植民地そのものは、やがてマサチューセッツ湾植民地などと統合され、政治的な独立性を失っていきますが、宗教的に厳格で共同体意識の強い「ピューリタン社会」の一形態として、その文化はニューイングランド全域に影響を与えました。教育の重視(初期の学校や大学の設立)、礼拝や町会議を通じた自治の伝統などは、のちのアメリカ社会にもつながる要素としてしばしば取り上げられます。
アメリカ史におけるピルグリム像――神話化と再評価
19世紀以降、アメリカ合衆国が独立国家としてのアイデンティティを固めていく過程で、巡礼始祖の物語は「国民的な起源神話」の一部として再構成されました。メイフラワー号の航海、厳しい冬、先住民の助け、感謝祭、自治的な誓約――こうしたエピソードは、文学作品や記念演説、学校教育などを通じて繰り返し語られ、ピルグリム・ファーザーズは「自由と信仰のために困難に立ち向かった英雄的な先駆者」として理想化されていきます。
とくに、感謝祭の祝日化や、プリマスでの記念碑建立、メイフラワー号のレプリカ建造などを通じて、ピルグリム像は視覚的にも定着しました。黒い服に大きなバックルのついた帽子をかぶった男女が、インディアン風の装いをした先住民とともに七面鳥を囲んで食事をしている――という有名なイメージは、この神話化の過程でつくられたものです。
20世紀後半になると、このような一面的な英雄物語に対して、より批判的で多面的な視点からの見直しも進みました。先住民側から見たとき、巡礼始祖の到来は、病気の流入や土地の喪失の出発点として記憶されうること、女性や子ども、奴隷化された人びとなど、従来の物語に登場しなかった人々の経験も重ねて考える必要があることなどが指摘されるようになりました。
また、巡礼始祖の宗教観や共同体のあり方自体も、単純な「信仰の自由」の象徴としてではなく、内部に厳格な規律や異端に対する不寛容さを抱えた社会として描き直されています。彼らがイングランド国教会やイングランド王からの弾圧を逃れてきた一方で、自分たちの共同体内では違う考えを持つ人びとに厳しく対処した事例もあり、「自由」の内容は一枚岩ではなかったことが明らかにされています。
このように、巡礼始祖/ピルグリム・ファーザーズという用語の背景には、実際の歴史上の移民集団としての姿と、その後のアメリカ社会が自分たちの起源を語る際につくり上げた象徴的イメージの両方があります。用語に出会ったときには、1620年のメイフラワー号とプリマス植民地、その背後にあるイングランドの宗教対立と植民地政策、先住民との複雑な関係、そしてその後の神話化と再評価という、いくつもの層が重なっていることを意識しておくと、歴史の見え方がより豊かになります。

