ギエンヌ – 世界史用語集

ギエンヌ(Guyenne, 古形はGuienne)は、中世後期から近世フランスにかけて南西部に広がった歴史的地域の名称で、もともとは「アキテーヌ(Aquitaine)」の語形変化として現れ、のちに英仏抗争や行政再編を経て、ボルドーを中心とするガロンヌ・ドルドーニュ両河川流域(ジロンド河口を含む)とその周辺を指す用語として定着しました。12世紀にアキテーヌ女公アリエノール(エレアノール)がイングランド王家に嫁いだことを契機に、ギエンヌは約三世紀にわたってイングランド王の大陸領の中核となり、百年戦争の主戦場の一つとなります。とりわけボルドーの港市は、イングランド市場に向けたワイン(クラレット)輸出で繁栄し、商人・法制度・都市自治のネットワークを育みました。1453年のカスティヨンの戦いで英領アキテーヌが終焉すると、ギエンヌはフランス王権の下に再統合され、近世には「ギエンヌおよびガスコーニュ州(Guyenne et Gascogne)」という行政単位として運用されます。名称の揺れと領域の変動が大きい用語ですが、英仏関係・地中海/大西洋交易・ワイン文化・フランス国家形成史を読み解く鍵として重要です。以下では、地理と名称、英領期と百年戦争、経済社会とワイン交易、近世以降の統合と遺産の順に整理して解説します。

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地理と名称—アキテーヌから派生した呼称と南西フランスの結節地

「ギエンヌ」という呼称は、ラテン語のアクィタニア(Aquitania)が俗語化・フランス語化する過程で生じた形(Guienne→Guyenne)で、当初はアキテーヌ全体とほぼ同義に用いられました。やがて12〜13世紀の英仏抗争と条約の反復により、より狭い領域—ボルドレ(ボルドー周辺)・バザダ(バザス)・アジュネ(アジャン)・ペリゴール・ケルシー(ケルシー=カオール周辺)・ルエルグの一部など—を指す傾向が強まります。海と内陸をつなぐジロンド河口、ガロンヌ・ドルドーニュの大水系は、内陸穀倉・葡萄栽培地帯と大西洋航路を結び、塩・木材・穀物・羊毛・皮革・染料とともにワインを大量輸送する自然の動脈でした。

言語・文化面では、オック語(オクシタン語)系の方言、とくにガスコンが広く話され、北のサントンジュ方言、東のオーヴェルニュ方言などと接しています。法と慣習は都市ごとの「慣習法(coutume)」に基づき、ボルドー自治都市の「ジュラ(jurats)」と呼ばれる参事会、執行長にあたるマイユ(maire)などの都市制度が早くから発達しました。地理的に見ると、ピレネーへの前庭としてイベリア半島への通行路を押さえ、さらに英仏海峡・ブルターニュ・ノルマンディーと比肩する大西洋正面の出入口という性格を併せ持ちます。

中世の領域は、王領・諸侯領・司教領が入り組むパッチワークでしたが、ギエンヌはその中で「ワインと河川航行」によって相互接続を保ち、都市と荘園、港湾と内陸市場を束ねるハブとして機能しました。ボルドーのほか、バイヨンヌ、サン=タンドレ、ラ・レオル、カオール、ペリグー、アジャン、ベルジュラックなどが地域ネットワークの要点です。

英領期と百年戦争—エレアノールの婚姻、条約の往復、1453年カスティヨン

1152年、アキテーヌ女公アリエノールはアンジュー伯アンリ(のちのイングランド王ヘンリー2世)と結婚し、プランタジネット王家の大陸領の中核にアキテーヌ—のちに「ギエンヌ」と呼ばれる地域—が組み込まれました。1154年にヘンリー2世が即位すると、ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥー・アキテーヌという「アンジュー帝国」の南の支柱としてギエンヌは位置づけられます。英王はフランス王の封臣としてアキテーヌ公位を帯びるという二重身分を負い、主従関係の解釈をめぐって英仏間の緊張が常態化しました。

13世紀、フィリップ2世やルイ9世らフランス王は対プランタジネット攻勢を強め、バタイユやポワトゥーの諸戦を経て英王領は縮小します。1259年のパリ条約では、イングランド王ヘンリー3世がノルマンディーなどの旧領を放棄する代わりに、ギエンヌの一部領有をフランス王から封土として承認されました。しかし封臣としての臣従と司法権の境界は曖昧で、紛争は続きます。

百年戦争(1337–1453)の勃発に際し、フランス王フィリップ6世は英王エドワード3世のギエンヌ没収を宣言、以後ギエンヌは戦争の大舞台となります。1356年のポワティエの戦いでフランス王ジャン2世が黒太子(エドワード)に捕縛されると、1360年のブレティニー=カレー条約で、ギエンヌは英王に〈完全主権領〉として大幅に拡大して割譲され、黒太子はボルドーを拠点に「アキテーヌ公」として統治しました。ところが重税と貨幣政策が地元の反発を招き、フランス側の巻き返し(デュ・ゲクランら)により1370年代以降は英領が縮小に転じます。

15世紀前半、ランカスター朝の勝利(アジャンクール、1415)に乗じて英軍は再び勢力を伸ばしますが、ジャンヌ・ダルクの登場とシャルル7世の軍制改革(常備軍・砲兵)で情勢は逆転。1453年、カスティヨンの戦いでフランス砲兵がタルボット率いる英軍を破り、ボルドーは陥落、英領アキテーヌは最終的に崩壊しました。以後ギエンヌはフランス王領に恒久編入され、英仏の大陸領争奪は実質的な決着を見ます。

経済社会とワイン交易—ボルドーの自治、クラレット、河川と海の物流

英領期、ボルドーはイングランド市場に向けたワイン輸出で飛躍的に繁栄しました。英王権はボルドー市に関税上の優遇や自治特権を与え、港湾施設・河川の保守・治安維持に都市共同体の責任を課しました。ボルドーワインは「クラレット」と呼ばれ、軽やかな赤(当時は今日より明るい色調のことが多い)がロンドンの居酒屋や貴族の食卓を満たします。収穫期から翌春にかけて、ガロンヌ・ドルドーニュを木造船が下り、樽詰めのワインがジロンド河口から大西洋へ出帆、ブリストル・ロンドン・イプスウィッチ・ハルなどへ運ばれました。

この交易は、単に酒の移動ではなく、都市自治・法・金融・輸送技術の総合システムでした。ボルドーの参事会(ジュラ)は港湾税・通行税の設定と取り立て、倉庫・市場の規制、品質検査、量目(度量衡)の統一、治安維持を担い、商人ギルドと連携しました。英仏間の戦争期でも、敵対と依存が複雑に絡み、停戦や条約でワイン・塩・羊毛の例外扱いが交渉されることが少なくありませんでした。

内陸では、葡萄栽培とともに塩、木材、樽材、鉄、皮革、穀物、染料(パステル)などが河川ネットワークで動き、地方市鎮は季節市(foire)で外来商人と結びつきました。荘園や修道院は葡萄園の経営と租税徴収を通じて都市と結ばれ、聖堂建築・慈善・教育への寄進が地域文化を支えます。ボルドー大学(15世紀)とボルドー高等法院(parlement de Bordeaux, 1462創設)は、法学と司法の中心として近世ギエンヌの公共圏を形成しました。

社会的には、オック語話者の農民・職人・船員、英仏・フランドル・スペインからの商人、ユダヤ系やイタリア系金融業者など、多言語・多出自の人々が混在しました。ワインとともに法文書、会計、船舶保険、海事慣行(平均法・海商法)が洗練され、港市は学知と実務の交差点となります。疫病(14世紀のペスト)や戦争は人口と生産に打撃を与えましたが、河川・港湾が再稼働するたびに、交易は地域を再接続する役割を果たしました。

近世以降の統合と遺産—「ギエンヌ=ガスコーニュ州」、近代の行政区へ

百年戦争後、フランス王権はギエンヌの都市・貴族・教会に対し、特権の確認と監督機構の整備を並行して進めました。ボルドー高等法院は地方司法の要となり、財政・軍事・治安では王室監察官(アンバサドゥール、のちの総監)や徴税請負人、守備隊が配置されます。16世紀宗教戦争では、港市と内陸の諸勢力が宗派と利害で揺れ動き、17世紀半ばのフロンド(ボルドーの「オルメ党」)では地方エリートと王権の緊張が露わになりました。

行政上、旧来のギエンヌは近世フランスにおいて「ギエンヌおよびガスコーニュ州」としてまとめられ、総監区(généralité de Bordeaux)や徴税区、司教区といった複数の境界が重ね書きされました。啓蒙期にはワイン商いと植民地交易(サン=ドマングやアンティル諸島の砂糖・ラムとの連結)でボルドーは再び黄金期を迎え、海運・保険・銀行・港湾インフラが発達します。革命期に旧州制度は廃止され、今日のジロンド・ロット=エ=ガロンヌ・ドルドーニュ・ロット・タルヌ=エ=ガロンヌ等の県に再編されました。

文化的遺産として、ボルドーの都市景観(石造の河岸施設、交易を象徴する広場・倉庫群)、中世以降の聖堂・僧院、葡萄園景観、オック語の歌・諺・地名が挙げられます。法制度では、都市自治の経験と高等法院の判例法が、地方的「法の作法」を育てました。ワインのAOC制度(ボルドー、メドック、サン=テミリオン、グラーヴ等)の背後には、中世以来の地理・土壌・流通の記憶が折り重なっています。

総じて、ギエンヌは「名前の変容に歴史が刻まれた地域」です。アキテーヌから生まれた呼称は、英王の大陸領、百年戦争の戦場、港市ボルドーの自治、近世の州、革命後の県へと意味域を移しながら、生産と流通、都市と内陸を結ぶ南西フランスの結節としての役割を担い続けました。英仏の政治関係と地中海—大西洋経済の接点、ワイン文化と都市自治の実験場という二つの顔を通して、ギエンヌを理解することは、ヨーロッパ中世・近世の「海と河の文明」を読み解く近道となるのです。