スーダンは、アフリカ北東部に位置する国で、ナイル川流域とサハラ砂漠・サバンナ地帯が交わる「アフリカとアラブ世界の接点」として知られます。首都はハルツームで、青ナイルと白ナイルが合流する地点にあります。広い国土に多様な民族・言語・宗教が共存し、交易や巡礼、移住の通り道として長い歴史を重ねてきました。その一方で、植民地支配の遺産、地域格差、資源と権力をめぐる対立が積み重なり、独立後は内戦や政変が繰り返され、2011年には南部が分離独立して南スーダンが成立しました。さらに近年は、2023年4月に国軍と準軍事組織の武力衝突が全面戦争へ発展し、国内外に甚大な人道危機をもたらしています。
「スーダン」という言葉は、単なる国名にとどまりません。歴史の教科書では、ナイル世界の周縁としての古代・中世の交流、19世紀末のマフディー運動、英埃(イギリス=エジプト)による共同統治、独立後の北南対立と内戦、ダルフール紛争、そして南スーダン独立とその後の混乱、といった複数のテーマの結び目として登場します。スーダンを理解すると、自然環境が社会をどう形作るか、植民地の国境線が後世にどんな課題を残すか、多民族国家が統合と自治の間でどう揺れるかが、具体的に見えてきます。
ここでは、スーダンの地理と多様性、近代以降の歴史の流れ、2010年代以降の政治変動と戦争、そして資源・経済・国際関係の特徴を、できるだけ整理して説明します。
地理と社会の骨格:ナイル川・砂漠・サバンナが作る多様性
スーダンの自然環境は大きく分けると、北のサハラ砂漠地帯、中部のナイル川沿いの帯状の生活圏、南西部や南東部のサバンナ・山地の地域に分かれます。雨が少ない地域では、人々は川や井戸、季節的な水場に依存して暮らし、農耕と牧畜は気候と密接に結びつきます。とくにナイル川流域は、都市と行政の中心が形成されやすく、交通路としても重要でした。首都ハルツームが合流点にあるのは象徴的で、ここは政治・軍事・経済の中枢が集まりやすい場所でもあります。
社会の面では、アラブ系とされる集団、ヌビア系などナイル流域の古い文化圏、サヘル地帯の諸民族、ダルフール周辺の多民族社会などが重なり、言語や生活様式も多様です。宗教はイスラームが大きな位置を占めますが、地域や歴史によってキリスト教や伝統信仰の要素も絡み、同じ国の中に異なる文化世界が並びます。こうした多様性は本来、交易や文化交流の豊かさにつながり得ますが、国家が権力と資源をどう配分するかによって、対立の火種にもなり得ます。
さらに、スーダンは紅海(東側)への出口を持ち、内陸アフリカと中東・地中海世界をつなぐ位置にもあります。港湾都市や交易路は、国家経済の生命線になりやすく、国際政治の影響も受けやすいです。地理は「背景」ではなく、統治の中心がどこに置かれ、周辺地域がどう扱われるかを左右する要因として、スーダンの現代史に深く関わってきました。
近代史の流れ:植民地支配、独立、北南内戦と南スーダン分離
19世紀以降のスーダンは、外部勢力の介入と国内の宗教・政治運動が複雑に絡みます。19世紀後半には、宗教指導者を中心とする運動が広がり、1880年代のマフディー運動(マフディー国家)は、外部支配への抵抗と宗教的正統性を結びつけた大規模な政治変動として知られます。その後、19世紀末から20世紀前半にかけてスーダンは英埃共同統治(英埃スーダン)という形で支配され、植民地的な行政と経済の枠組みが作られていきます。
1956年にスーダンは独立しますが、国家統合の課題は独立直後から深刻でした。歴史的に北部のアラブ・イスラーム文化圏と、南部の多民族・多宗教の地域の間には、政治参加や教育、行政、経済投資の面で格差が生まれやすく、統一国家の設計をめぐって対立が拡大します。こうして独立後のスーダンは、長期の内戦に苦しむことになります。第一次内戦(1950年代半ば〜1970年代初頭)と、1980年代から2000年代にかけての第二次内戦は、国家の枠組みの中で「中心と周辺」「同化と自治」が衝突した典型例として語られます。
2005年には包括和平合意(CPA)が結ばれ、南部に高度な自治が認められたうえで、将来の住民投票で分離独立の是非を問う道が開かれます。そして2011年7月、南部は南スーダンとして独立しました。これによりスーダンは国土と人口、資源構造を大きく変える転換点を迎えます。分離は戦争の終結を意味する一方で、国境地帯の帰属や資源(とくに石油)とパイプライン、住民の国籍と移動など、新しい争点も生みました。また、北側のスーダン国内でも、周辺地域の不満や武装対立が残り、国家再建は簡単ではありませんでした。
さらに2000年代以降は、ダルフール地方の紛争が国際的な注目を集めました。武装勢力と政府側勢力の衝突、民兵の動員、住民の大量流出などは、周縁地域の政治的疎外と資源・土地利用をめぐる競合が結びついた問題として理解されます。スーダンの近代史は、独立という「出発点」の後に、国家統合の難題が長く続いた歴史でもあります。
2010年代以降:革命、クーデタ、そして2023年からの内戦
スーダンの現代政治を語るうえで、オマル・アル=バシール政権の長期支配は大きな柱です。1989年のクーデタで権力を握ったバシールは約30年にわたり統治を続けましたが、経済難や政治抑圧への不満が蓄積し、2018年末から抗議運動が拡大します。2019年4月、軍がバシールを排除し、移行期の政治が始まります。市民勢力は文民統治を求め、軍との交渉と緊張が続き、暫定的な統治枠組みのもとで移行を模索しました。
しかし移行は安定せず、2021年10月には軍がクーデタを起こして文民移行を停止させます。ここで重要なのは、スーダンの権力が単一の軍組織だけでなく、複数の武装組織や治安組織、経済利権と絡み合っていた点です。とくに準軍事組織として力を持ったRSF(迅速支援部隊)は、過去の民兵組織を背景に勢力を強め、国家の枠内にありながら独自の軍事力と経済基盤を持つ存在になっていきました。国家権力の中心に「複数の武力」が並び立つ状態は、政治の妥協が崩れたときに内戦へ転びやすい危険をはらみます。
そして2023年4月15日、国軍(スーダン国軍)とRSFの対立が全面衝突へ発展し、首都圏を含む広範囲で戦闘が激化します。戦闘は都市部の市街戦、地方の支配争い、補給路と港湾をめぐる競合など、多様な形で長期化し、民間人の犠牲と避難民の増大を招きました。国連機関や国際社会は、人道危機の深刻化、食料不足や医療崩壊、難民流出、性暴力や住民への攻撃などを繰り返し警告しています。スーダンはこの戦争によって、国家機能の麻痺と社会の分断がいっそう進む状況に置かれました。
この内戦は、単に「二つの武装勢力の争い」ではなく、長年の統治構造の矛盾が噴き出したものとして理解されます。中央に集中してきた権力と資源、周辺地域の疎外、武装勢力の政治経済化、そして国際的な支援や介入の複雑さが重なり、和平が難しくなりやすい条件があります。スーダンという国名が、近年は「人道危機」や「国家崩壊の危機」と結びついて語られるのは、こうした構造的問題が背景にあります。
経済・資源・国際関係:石油、農業、紅海の出口がもたらす影響
スーダンの経済を考えるとき、農業と資源、そして交通の要所としての地位が重要です。ナイル川沿いでは灌漑農業が行われ、綿花やゴマ、小麦などが歴史的に生産されてきました。一方、降雨に頼る地域では牧畜や雨季農業が中心になり、干ばつや気候変動の影響を受けやすい面があります。土地利用や水資源をめぐる競合は、地域社会の緊張にもつながり得ます。
資源面では、石油が国家財政に大きな影響を与えてきましたが、2011年の南スーダン独立によって、油田の多くが国境の向こう側になり、北側のスーダンは収入構造の再編を迫られました。その一方で、輸送インフラ(パイプラインや紅海への輸出経路)をどこが握るかという問題は、地域政治の駆け引きにも影響します。また金などの鉱物資源は、国家財政の柱として期待される一方、利権化すると武装勢力や政治勢力の資金源になりやすく、治安悪化と結びつく危険もあります。
国際関係では、スーダンはアラブ世界、アフリカ、紅海沿岸という複数の圏域にまたがり、周辺諸国や大国の利害が交差しやすい立場にあります。難民の流出入、国境地帯の安全保障、紅海の航路と港湾の重要性、国際援助や制裁の影響など、国内政治と外部環境が絡み合います。とくに近年の内戦は、周辺国への避難民増加や地域の不安定化を通じて国際問題化し、人道支援と外交交渉が同時に求められる状況を生んでいます。
スーダンは、古くから交易路の結節点として栄え、多様な文化が交わる場所でした。その多様性は大きな潜在力でもありますが、国家の統合が揺らぐと、同じ多様性が分断の軸にもなり得ます。スーダンという用語を世界史で押さえることは、地理と歴史、資源と政治、国内統治と国際環境が、互いに結びつきながら国の運命を形作っていくことを、具体的に理解することにつながります。

