戸部 – 世界史用語集

戸部(こぶ/フーブ、Ministry of Revenue・Households)は、中国の伝統的な中央官制である〈六部〉の一つとして、主として戸口(人口・身分登録)と田土・賦税・財政収支・倉儲を所管した官庁です。人びとの登録(戸籍)と土地・税負担の把握、そして国家収入の予算・決算をつなぐ要であり、古代から近世に至る王朝国家の基礎体力を支える役所でした。歴代王朝ごとに名称や所掌の細部は変わりましたが、戸籍編成・田土台帳の管理・地租や人頭税・徭役の賦課、倉庫・貨幣・度量衡・財政の統括といった枢要機能を担ったことに変わりはありません。ここでは、成立から各王朝での変遷、組織と職掌、文書・税制との関係、周辺地域(朝鮮・ベトナム)との比較まで、わかりやすく整理して解説します。

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位置づけと歴史的成立――六部制の中の〈財政・戸口〉担当

中国の中央官制は、隋・唐以来、〈三省六部〉に整理されました。すなわち、中書・門下・尚書の三省のうち、実務官庁である尚書省の下に六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)が置かれ、戸部はその第二にあたります。吏部が人事、礼部が祭祀・儀礼・科挙、兵部が軍政、刑部が司法、工部が土木・営繕を所管したのに対し、戸部は財政・戸口・田土・倉儲という国家の「台所」を一手に担いました。戸は本来〈家〉を意味し、転じて課税単位・人口登録を表します。戸部は王朝の「誰が・どこに・どれだけいるか」を把握し、そこから「どのくらい徴収し・どう配分するか」を計画する要に位置づけられました。

唐代には、租庸調制を基礎に〈均田〉と連動する戸籍・口分田の配分、租(穀)・庸(布)・調(絹・布)の賦課を監督しました。安史の乱以降、均田制の崩壊とともに〈両税法〉(780年)が導入され、土地と財産に応じて夏・秋二期に貨幣納を中心に徴収する枠組みが整います。戸部はこの転換にともない、貨幣収入の計数・度支(出納)監督の比重を増し、州県の徴収を年次ごとに点検する仕組みを強めました。

宋代は例外的に財政の中枢が〈三司〉(度支司・戸部司・塩鉄司)へ分立し、三司使が統括しました。ここでは戸部司が戸籍と田賦の基礎台帳を所管し、度支司が予算・決算・財政運営、塩鉄司が専売・関市を担当する分業体制がとられます。元代は中書省を頂点とする官制の下で、財政・兵糧・屯田がモンゴル的軍政と結合し、戸部は各行省に対応して財政・戸口を統括しました。明代は再び六部制を強化して戸部を財政・戸口の中枢とし、清代もこれを継承して〈大清戸部〉が国家歳入・歳出の調整、銀庫(戸部庫)・各省財政の取りまとめを担いました。

機能と職掌――戸籍・田土・賦税・度支・倉儲の総合管理

戸部の機能は大きく五つに整理できます。第一は〈戸口(戸籍)〉の整備です。戸部は里甲・保甲などの地域組織と連動して、出生・死亡・婚姻・移住を反映させた戸籍台帳を作成・修正しました。古くは丁(成年男子)数を賦課単位とし、のちには戸単位・財産単位へ比重が移ります。戸籍は徴税・徴役・軍役・科挙や治安の基礎台帳でもあり、偽籍や逃散への対策は戸部の重要課題でした。

第二は〈田土〉の把握です。田畑・宅地・山林・湖沼などの地利を図籍に記し、地味・灌漑状況・畝数を反映した地丁制度を運用しました。明代には〈魚鱗図冊〉と呼ばれる精密な地図帳、〈賦役黄冊〉と呼ばれる賦課台帳が整えられ、清代には田賦の銀納化が進みます。これらの基礎資料をもとに、各戸の負担量や免除を調整し、租税の公平と安定を図りました。

第三は〈賦税〉の賦課と収納です。唐の租庸調から両税法、宋の市易・交子、元の鈔、明清の地丁一体化・丁銀地銀の統合に至るまで、税制の変化に応じて戸部は各種の税目(地租・人頭税・商税・塩課・関税・釐金など)を監督しました。担当は中央の戸部が標準率・割当・免租規定を定め、諸省の布政使司や道・州県が実際の徴収を行い、その数字を年次に取りまとめて戸部に報告します。貨幣と穀物の併用、輸送コスト、銀両と銅銭の相場差など、技術的課題への対処も重要でした。

第四は〈度支〉、すなわち国家の歳入・歳出の出納管理です。軍糧・官俸・土木・賑恤・科挙・外交儀礼・宗廟祭祀にかかる支出を予算化し、財源配分を決めます。唐では度支使が強権をもって財政を統括した時期もあり、宋の三司体制では度支司が中心的役割を担いました。明清の戸部は、都城の銀庫(戸部庫)と各省の公庫を連結し、常平倉・義倉などの備蓄制度と連動させて、凶年の賑貸や物価安定策を実施しました。

第五は〈倉儲・漕運〉の監督です。穀物の公的備蓄は、常平倉(価格安定策)、社倉・義倉(地域の救荒)、太倉(中央備蓄)など多層に配置され、戸部は勘合と点検(清査)を通じて数量・品質の維持に努めました。江南から都へ穀物を運ぶ漕運は国家の生命線であり、河道の修復・水位管理・倉庫の整備などは戸部と工部の協働領域でした。

組織・官職と文書体系――尚書・侍郎から清吏司、黄冊・図冊まで

戸部の長官は〈尚書〉で、その下に〈侍郎〉(左右各一)が置かれ、さらに〈郎中〉〈員外郎〉〈主事〉などの階層が続きます。明清期の戸部には、職能別に複数の〈清吏司〉(審査・出納・戸口・田賦・倉場・度支など)が設けられ、各司が専門業務を担当しました。たとえば戸口清吏司は戸籍・里甲の管理、田賦清吏司は地租・丈量の基準、度支清吏司は予算・決算・財源調整、倉場清吏司は倉庫・漕運の監督、といった具合です。地方では、明の〈布政使司〉の下に〈按察使〉〈都指揮使〉と並ぶ三司が置かれ、戸部の指令を受けて財政・税務の実務を執行しました。清代には省級の〈巡撫〉〈総督〉が財政・軍政を統括し、戸部はこれら長官からの年報・季報・折片を集約して全体の出納を統一しました。

文書体系では、戸籍の〈黄冊〉、土地台帳の〈図冊〉(魚鱗図冊など)、賦役の配当を記す〈賦役黄冊〉、倉庫台帳の〈倉簿〉、歳入歳出の〈会計帳〉などが要です。黄冊は数年ごとに更定され、戸の増減・身分・丁数・免役の事由が記録されました。図冊は地塊の形状・面積・隣接関係を「鱗」のように細かく描写し、登記と課税の基礎とされます。これらの台帳は偽造・欠落を防ぐために複写・保管の重層化が図られ、中央・省・県の三重保管が原則化しました。

戸部はまた、貨幣・度量衡の標準化にも関与しました。銅銭・銀両・紙幣(交子・会子・宝鈔)などの通用制度に関する布告、度量衡器の検定、銭貨の鋳造・発行計画(実務は工部・宝源局などと分担)を調整し、税収の換算基準(折色)を通達しました。市場の相場変動は財政に直結するため、釐金(地方通行税)や関税(海関)との連動も監督領域に含まれました。

税制と政策の変遷――両税法から地丁銀、銀納化・釐金・租界財政まで

唐の〈両税法〉は、土地・財産に応じて夏秋二期に税を賦課する制度で、戸部の貨幣会計の役割を強化しました。宋では商業の発達に合わせて市易法・交子の流通が進み、三司が財政を担いました。元の紙幣〈中統鈔・至元鈔〉は財政運営を左右し、戸部は鈔と実物徴収の配合に苦心します。明の太祖洪武期は、軍戸・民戸を分け、〈里甲〉・〈魚鱗図冊〉・〈賦役黄冊〉で賦課を細密化しましたが、やがて貨幣経済の進展の中で銀納化が進み、万暦期には張居正の〈一条鞭法〉が定着して、徭役を地租へ統合し銀納一本化の傾向が強まりました。清代には〈地丁銀〉と呼ばれる地租と丁銀の一体化が進み、戸部は省別・県別の額出(定額)と実収の乖離を調整し、漕運米の銀替え(折徴)を広げました。

19世紀には、海関(関税)の近代化(税務司制度)や、地方の臨時税である〈釐金〉が洋務・軍費の財源となり、中央歳入の比重は変動しました。戸部は対外賠償・借款・通貨改革の調整役となり、上海などの租界財政・関税収入の管理で列強との交渉に臨みました。ここで〈戸部銀〉〈戸部庫〉といった語が頻出し、中央金庫の残高や借入は政治・外交の安定と直結しました。こうした近代の財政転換は、最終的に民国の〈財政部〉へと制度移行していきます。

周辺地域との比較――朝鮮の〈戸曹〉、ベトナムの〈戸部〉、日本の太政官制

東アジアの官制は相互参照の関係にあり、朝鮮王朝は六曹制(吏・戸・礼・兵・刑・工)を採用して〈戸曹〉が財政・戸籍・田土・賦税を統括しました。ここでも〈黄冊〉や〈量田〉に基づく地税・徭役の管理が行われ、粟米・布帛の納入や後の常平法・均役法などの改革が試みられます。ベトナム諸王朝も中国に倣い六部制を採り、〈戸部〉が戸籍・賦税・倉儲を担いました。日本では律令制下の〈民部省〉が最も近似し、戸籍・計帳・田租・庸調・貢調の管理を所管しました。中世以降は武家政権の下で年貢・検地など別の仕組みが発達したため、名称は異なりますが、「人口・土地・税」の三点セットを一体で扱う財政中枢という構図は共通します。

評価と意義――「人・地・財」を束ねる国家の基盤として

戸部の存在意義は、個々の税目の徴収にとどまらず、「人・地・財」を統一的に把握し、国家の統治コストと社会の負担能力を擦り合わせる点にあります。戸籍・図冊と税制の整合性、貨幣と実物の換算、中央と地方の役割分担、凶作・疫病・戦乱への備え――これらの調整がうまく働くとき、国家は安定し、逆にほころぶと、偽籍・逃散・苛斂誅求・財政危機が連鎖しました。戸部の歴史は、制度設計と社会実態のズレを埋める不断の努力の歴史でもあります。

また、戸部の文書群は、歴史研究の宝庫です。黄冊や魚鱗図冊・倉簿・会計帳は、人口動態・土地保有・市場の動き・地域格差を読み解く一次資料であり、今日の歴史人口学・経済史・法制史の研究を支えています。戸部という官庁を理解することは、王朝国家の統治技術を具体的・数量的に捉えることにつながります。名称や細部の違いを超えて、東アジアの国家は、この〈戸〉の論理――家と土地と税の結節点――を共有していたと言えるのです。