コブデン(Richard Cobden, 1804–1865)は、19世紀イギリスを代表する自由貿易の政治家であり実業家です。彼はマンチェスター学派の旗手として、穀物の輸入に高関税を課す「穀物法」を廃止させ、物価の安定と労働者の生活向上、世界市場の拡大を結びつけて主張しました。さらに、フランスとの通商条約(コブデン=シェヴァリエ条約)を仲介し、関税を段階的に引き下げる国際的な枠組みを作るなど、国内改革と対外関係を一体で考える視野を示しました。強い海軍や植民地征服に依存する拡張主義ではなく、交易と相互依存が平和をもたらすという理念を掲げ、世論を動かす運動技術(署名運動・公開演説・印刷物・資金調達)でも新機軸を打ち出した点が大きな特色です。本稿では、(1)生涯と時代背景、(2)反穀物法同盟と自由貿易思想、(3)外交・平和主義とコブデン=シェヴァリエ条約、(4)評価・影響・日本への受容の四つから、専門に偏りすぎないよう整理して解説します。
生涯と時代背景――産業革命の只中に立った実務家政治家
コブデンはイングランド南部サセックスの農家に生まれ、青年期にロンドンの商社に勤めたのち、綿織物産業の中心マンチェスターでプリンティング(更紗捺染)事業に携わりました。産業革命が成熟段階に入り、工場制と都市化が急速に進む時代で、穀物や原料の安定調達、輸送コスト、関税・航海法など、企業の利潤に直結する制度設計が政治課題として前面化していました。1830年代、景気循環と失業、穀物価格の高騰は社会不安を生み、選挙法改正(1832年改革法)後の議会政治に新しい利害の代表を求める声が高まります。
当時の「穀物法」は、国内農業を保護するために小麦などの穀物輸入に可変的な高関税・輸入制限を課す制度でした。豊作・不作に応じて価格の下限を守る仕組みは地主階級の利益を守る一方で、パン価格を押し上げ、労働者の実質賃金を圧迫し、工業製品の国際競争力を削ぐと批判されました。工業資本家や都市中産階級、労働者の一部は、保護関税を撤廃して食料を安く輸入し、国内産業のコストを下げ、輸出市場を拡大することを望むようになります。コブデンは、この新しい利害の代弁者として登場し、後述する反穀物法同盟の中心となりました。
彼は議会人であると同時に、世論形成のプロでもありました。演説は平明でデータに基づき、農村と都市、労働者と資本家の利害の一致点(食料の廉価と市場の拡大)を説くスタイルでした。新聞・パンフレット・木版画ポスター・寄付者名簿の公開など、近代的なキャンペーン技法を駆使して「政策を公共の討議に乗せる」ことを重視した点は、19世紀の市民政治の新しさを体現しています。
反穀物法同盟と自由貿易思想――パンの値段と世界市場
1838年にマンチェスターで結成された反穀物法同盟(Anti–Corn Law League)は、コブデンとブライトの二人を主軸に、全国規模で署名集め、大衆集会、候補者支援、出版を組織しました。彼らは「パンを安く、給与の実力を高く(Cheap Bread, High Wages)」というスローガンで、穀物法がもたらす価格高騰と貧困の連鎖を可視化しました。安価な食料は労働者の実質賃金を引き上げ、企業の賃金負担を相対的に軽くし、国際市場での価格競争力を強める――この「二重の利益」の論法は、地主保護と対置され、演説と図表で繰り返し説明されました。
思想の背骨は、自由貿易と平和の結びつきにありました。コブデンは、国境の関税壁を低くし、各国が得意な商品の生産に特化すれば、交易は相互利益となり、戦争の誘因は弱まると考えました。彼にとって自由貿易は、単に工業資本の利潤を増やす技術ではなく、国民の生活費を下げ、国際関係を安定化させる倫理的選択でした。穀物法廃止は「国内の正義」と「対外の平和」を一石二鳥で実現する入口と位置づけられました。
同盟は、寄付によって常設事務局と講演隊を維持し、地方都市まで網の目のように拠点を作りました。選挙では、反対派候補の落選運動(キャンペーン)が展開され、世論は次第に農業保護から離れていきます。決定的だったのは1840年代半ばの凶作とアイルランド大飢饉(ポテト飢饉)で、食料供給の確保が喫緊の課題となる中、ロバート・ピール首相は党内の反対を押し切って1846年に穀物法の実質的廃止を断行しました。コブデンらの粘り強いキャンペーンは、世論と首相の判断を後押しする役割を果たしたのです。
穀物法撤廃の後、イギリスは19世紀後半に低関税の自由貿易体制を採り、産業製品の輸出拡大と食料・原料の輸入増大という国際分業に踏み込みます。これにより物価は安定し、都市労働者の生活は相対的に改善しました。他方、農業部門には圧力がかかり、のちの穀物価格長期下落(「大不況」期)では、農村の構造転換が迫られました。コブデンの路線は、社会全体の平均的利益を押し上げつつ、地域や職業の再配置を伴うものであったことも併せて理解されます。
外交・平和主義とコブデン=シェヴァリエ条約――関税引下げの連鎖
コブデンは強固な平和主義者で、クリミア戦争(1853–56)や「ガンボート外交」に批判的でした。彼は軍備拡張による抑止ではなく、貿易と往来の拡大による相互依存が長期の平和を担保すると確信していました。議会では海軍予算の肥大化をたびたび追及し、対外干渉や植民地戦争に慎重であるべきだと主張しました。
その理念を国際制度に翻訳したのが、フランスとの通商条約、いわゆるコブデン=シェヴァリエ条約(1860)です。ナポレオン三世政権下のフランスで、経済学者ミシェル・シェヴァリエらが関税改革を構想していたところに、コブデンは信義と人脈を駆使して交渉を取りまとめ、両国での関税の大幅引き下げと最恵国待遇条項(以後の譲許を相互に自動適用)を盛り込みました。この条約は、フランス・ベルギー・イタリア・ドイツ諸邦などヨーロッパ各国間の一連の通商条約の連鎖を引き起こし、1860年代の欧州に「低関税ネットワーク」を形成しました。
この枠組みは、イギリスの一方的自由化に他国を引き寄せる装置として機能し、関税をめぐる二国間交渉に横串を刺す仕掛け(最恵国待遇)の実効性を示しました。のちに保護主義の波(1870年代以降の関税復活)が訪れるとはいえ、コブデンの仲介は、国際経済秩序が協定と条項の組み合わせで設計できることを実証した先例でした。
平和主義の一方で、彼は理想に固執して現実を無視したわけではありません。国内での貧困・失業、国際競争にさらされる産業への移行支援、教育・税制・社会保障の整備など、自由化の恩恵が幅広く浸透するための基盤づくりを並行して訴えました。市場の開放はゴールではなく、生活の改善と文化的成熟を促す手段だという位置づけが、演説や書簡に一貫して見られます。
評価・影響・日本への受容――マンチェスター学派から現代へ
評価は大枠で二つの軸に分かれます。第一は、自由貿易の経済的効果です。コブデン路線は、イギリスの産業製品輸出の増大と消費者価格の低下に寄与し、都市の生活水準の底上げと、世界市場での分業深化を後押ししました。その一方で、一次産品に依存する地域や産業には厳しい再編圧力がかかり、社会的セーフティネットや再訓練の制度が追いつかないと格差が拡大する問題も露わにしました。この点は、今日のグローバル化の議論と地続きです。
第二は、平和主義と外交思想です。コブデンは、軍事力の誇示ではなく、通商と対話による秩序維持を志向しました。これは理想主義と見なされることもありますが、当時の英国財政と社会構造の制約を勘案した現実主義でもありました。過剰な軍備は納税者と産業の負担になり、貿易が生む相互依存は戦争のコストを高める――という計算が背景にあります。彼の考えは、二国間通商協定、最恵国待遇、関税引き下げの連鎖といった制度的イノベーションに結実し、20世紀の多角的通商体制(GATT、のちのWTO)への先駆けと評価されます。
日本への影響は、明治期の自由主義経済思想の受容に表れます。福沢諭吉や中村正直の著作・翻訳を通じて、マンチェスター学派の自由貿易観は広く知られ、関税自主権の回復後に低関税政策へ傾く理論的背景の一部となりました。大正・昭和初期には、金解禁・自由貿易をめぐる論争でコブデン的立場(国際価格への順応と産業競争力の強化)がしばしば参照され、戦後も高度成長の輸出志向の中で、彼の名は経済記者や学界の文脈に登場します。他方、1970年代以降のオイルショックや近年の保護主義の揺り戻しは、自由化の調整コストを社会的にどう吸収するかという未完の課題を突きつけ、コブデンの「自由化+制度整備」のセット思考に改めて光を当てています。
今日の視点から見れば、コブデンの遺産は三つに要約できます。第一に、生活費の引き下げを軸に自由貿易を語る〈家計の論理〉。第二に、最恵国待遇や段階的関税削減といった〈制度設計の発想〉。第三に、署名・演説・出版・資金という〈運動の技法〉です。これらは経済だけでなく、公共政策を社会に根付かせるプロセスの教材として有効です。理想論に終わらせず、生活と制度と世論を結び付ける迂回路――それが、コブデンという名が今も参照される理由だと言えます。

