アルジェリア出兵 – 世界史用語集

アルジェリア出兵とは、1830年にフランス復古ブルボン王政のもとで実施されたアルジェ(現アルジェリア首都)への軍事遠征を指し、同年のアルジェ陥落を皮切りに北アフリカにおけるフランスの長期的征服・植民地化へ発展した出来事です。国内政治の行き詰まりを打開するための対外行動という側面と、地中海世界の通商・海賊取締・食糧供給をめぐる実利が重なり、結果としてフランスは19世紀の大陸国家から海洋・植民地帝国へと性格を拡張していきました。一方で、アルジェリア社会は長期の戦争と土地収奪、入植者社会の形成に直面し、20世紀半ばの独立戦争にいたる構造的緊張の起点ともなりました。

直接の契機としては、オスマン帝国の名目下に自立していたアルジェ政庁(デイ政権)とフランス間の穀物代金未払い問題、外交儀礼をめぐるいわゆる「扇子(ハエ叩き)事件」(1827年、デイがフランス総領事を扇子で打ったと伝えられる出来事)、それに続くフランスの海上封鎖などが挙げられます。復古王政末期のシャルル10世とポリニャック内閣は、国内での不人気と議会対立を覆すべく、遠征で威信を回復する計算を強めました。こうして1830年、フランス軍はシディ=フェルシュへの上陸作戦を敢行し、アルジェを占領しました。以後の展開は、単発の「出兵」を超えて、旧来の地中海秩序を作り替える植民地戦争へと移行します。

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背景:復古王政の危機、地中海秩序、遠征決定の論理

1814年の王政復古以降、フランスは保守と自由主義のせめぎ合いの中で政治的不安定が続きました。1820年代末、シャルル10世は超王党派に支えられたポリニャック公を首相に据え、議会を軽視する強硬策を進めます。軍部・宮廷の一部には、成功しやすい対外作戦で世論を反転させるという発想が生まれました。そこで目をつけられたのが、地中海中央部で影響力を持つアルジェ政庁です。

アルジェ側では、18世紀末から継続するフランスへの小麦供給に関する未払い金(ユダヤ系商人バクリ=ブシュナク家の仲介による取引)が外交問題化していました。さらに、バルバリア海賊(コルセア)による拿捕と奴隷化がヨーロッパ諸国の対外政策上の名分となっており、イギリス・オーストリア等が攻撃した1816年のアルジェ砲撃以後も、完全な解決には至っていませんでした。こうした環境のもと、1827年の「扇子事件」を口実にフランスは海上封鎖を実施し、三年に及ぶ膠着の末、陸上からの遠征決定へと傾きます。

遠征は、国内政治の危機管理と軍の名誉回復、通商の安全確保、王権の権威演出という複数の動機の合成でした。フランスでは財政・穀物流通・海軍行動が結びつき、外征の決定は国内経済・世論の計算に依拠していたことに注意が必要です。

軍事行動の経過:シディ=フェルシュ上陸、アルジェ陥落、占領体制の出発

1830年6月、ブルトンヌ沿岸から出たフランス遠征軍はアルジェ西方のシディ=フェルシュ(Sidi Ferruch)に上陸しました。指揮官ド・ブルモン(後にブジョーらが台頭)率いる兵力は、上陸後にイスラム教聖地ブライダ方面の守備を破り、海岸砲台を制圧して首都へ進撃しました。7月5日、アルジェの城塞は降伏し、デイは退位・退去に合意します。フランス側は条項により、宗教・私有財産の保護を約した一方で、政庁の公的財貨・兵器は押収し、都市の行政権を掌握しました。

アルジェ占領の即時効果は、政権の宣伝上の成功と大量の戦利金でした。フランス国内では凱報が喧伝されましたが、わずか数週間後の7月革命(七月王政成立)でシャルル10世は退位に追い込まれます。つまり、アルジェリア出兵は本来の政権延命という目的を果たせず、むしろ新体制の下で〈既成事実〉として引き継がれることになりました。

新たに成立したルイ=フィリップの七月王政は、当初は限定占領にとどめる選択肢も検討しましたが、軍・入植者・商人の圧力、沿岸部の治安・通商の論理、欧州列強間の均衡と威信という要因から、占領の継続と拡大へと舵を切ります。1831年以降、オラン・コンスタンティーヌといった地方の制圧が段階的に進められ、1834年には「アルジェリア総督府」が創設され、フランスの植民地統治が制度化の第一歩を踏み出しました。

征服の長期化と植民地体制:抵抗運動、ブジョーの戦略、入植と土地

アルジェ陥落が直ちに全土支配を意味したわけではありません。内陸部では、宗教的権威と部族連合の調整力を兼ね備えたアブド・アル=カーディル(エミール・アブドゥルカーディル)が1832年に台頭し、西部で広範な抵抗運動を組織しました。1837年のタフナ条約は一時的停戦と勢力圏の画定をもたらしましたが、フランス側の拡張政策と現地の自立志向は両立せず、戦闘は再燃します。

1840年代、総督トマ・ロベール・ブジョーは、機動力と焦土化を組み合わせたラズィア(掃討・急襲)、山地の封鎖、農園の焼き払い、洞窟への燻煙攻撃といった苛烈な対反乱戦術を採用しました。これらは短期的な軍事効果を上げつつ、民衆の生活基盤を破壊し、記憶に深い傷を残しました。1847年、アブド・アル=カーディルは最終的に投降し、抵抗の第一段階は終息します。

統治の制度化は同時進行で進みました。1834年の植民地化決定、1848年のフランス本国への形式上の編入(アルジェ・オラン・コンスタンティーヌの三県制)により、アルジェリアは法的には本土の延長とされましたが、実態は軍政・民政の二重体制、法的差別(ムスリム・ユダヤ人と欧州系入植者の権利格差)でした。土地制度では、部族共同体地(ハブース・アーチ)を私有化・没収の対象とする政策が展開され、入植者(ピエ・ノワール)向けの農地が造成されます。ヨーロッパ移民(フランス人のほかスペイン・イタリア・マルタ等)による沿岸都市の欧風化が進む一方、先住社会は税・労働・徴用で重圧にさらされました。

宗教・教育・司法でも、イスラーム法(マリキ学派)とフランス法の二重構造が生じ、戸籍・婚姻・相続などで制度のねじれが日常の摩擦を生みました。こうした構造的差別は、後世のナショナリズムの土台となり、20世紀の独立運動へつながっていきます。

影響と評価:フランス政治・欧州外交、地中海世界、用語上の注意

アルジェリア出兵は、フランス国内政治に即時・中期の影響をもたらしました。短期的には七月革命を阻止できず、むしろ旧体制の自己保身としての外征の限界を露呈しました。中期的には、軍人の政治的発言力を高め、七月王政・第二帝政を通じて「栄光と領土拡張」を掲げるナショナリズムと結びつきます。社会的にも、アルジェリアは退役軍人・資本・労働の受け皿となり、フランスの人口・市場の外延として機能しました。

欧州外交では、地中海の勢力均衡に波紋を広げました。イギリスは表向き海賊取締に賛同しつつ、フランスの西地中海での影響拡大を警戒し、スペイン・イタリア半島の動きとも絡めて牽制しました。オスマン帝国は名目的宗主権を失い、マフムト2世の改革期における地方支配の限界を露呈しました。北アフリカでは、チュニジア・モロッコが次なる欧州列強の関心を引き、19世紀後半の保護国化・分割の前提が整えられていきます。

「出兵」という日本語は、1830年のアルジェ攻略を中心とする初期遠征を指す便利なラベルですが、その後の17年余にわたる征服戦、そして19世紀後半の植民地統治の構造を不可視にしがちです。学習では、①1827–30年の外交・軍事(封鎖→上陸→陥落)、②1830年代の占領拡大と統治の制度化、③1832–47年の抵抗と鎮圧、④1848年の本国編入と土地・法の再編、という層を重ねて理解することが重要です。加えて、アルジェリア社会の側の視点(部族・都市ウラマー・ズィヤーダ文化・ユダヤ共同体・黒人奴隷制の周縁)を取り込むことが、単なる「外征史」の枠を越えるうえで不可欠です。

総括すると、アルジェリア出兵は、復古王政末の政略を起点にしつつ、フランスの帝国化と地中海秩序の再編を誘発した画期でした。成功の軍事作戦は、植民地化という長期の制度と暴力の体系へと転じ、両大戦・独立戦争を経てもなお記憶と政策の基盤として現在に影を落としています。用語上は、〈出兵(1830)〉と〈征服・植民地化(1830年代~)〉を区別しながら、その連続性と断絶を見極める姿勢が求められます。