コーチシナ東部獲得(フランス) – 世界史用語集

「コーチシナ東部獲得」とは、1858年に始まる仏西連合軍のベトナム遠征から、1862年のサイゴン条約(第一次サイゴン条約)を経て、フランスがメコン下流域の東側三省(嘉定〈ザーディン/ジャディン〉・定祥〈ディントゥオン〉・辺和〈ビエンホア〉)とコンダオ諸島(仏名プーロ・コンデール)を正式に割譲させ、以後の仏領コーチシナ植民地化の土台を築いた出来事を指します。さらに1867年には、同じ論理を押し広げる形で西側三省(永隆・安江・河仙)が事実上併合され、仏領コーチシナは六省体制の「直轄植民地」として整えられました。背景には、ナポレオン三世期の海外拡張政策、カトリック宣教保護を掲げた介入、清朝・タイ・英領海域に囲まれた中南半島での戦略拠点確保、メコン交易・稲作地帯支配への経済的関心が絡み合っていました。本稿では、開戦までの背景と遠征の推移、1862年条約と東部三省の移管、占領統治と抵抗、1867年の西部併合と植民地秩序の定着という流れで、できるだけ平易に整理します。

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背景と遠征の出発点――宣教師問題・ナポレオン三世の対外政策・トゥドゥック朝廷

19世紀前半のベトナム(阮朝)は、嘉隆帝・明命帝の中央集権化を経て、天命思想と儒教官僚制を柱に国家運営を行っていました。他方、キリスト教(とくにカトリック)への規制は時に厳しく、地方官や勢力の裁量で弾圧が強まる局面がありました。こうした状況下で、フランスは宣教師保護を名目にインドシナへの関与を強め、スペイン(フィリピン総督府)も自国民宣教師の保護を理由に協調する素地が生まれます。ナポレオン三世はクリミア戦争後、地中海・東アジアでの威信外交を進め、清とのアロー戦争やシリア介入と並行して、中南半島でも拠点獲得に前向きでした。

1858年、仏西連合軍はダナン(峴港)を攻撃・占領しますが、疫病と補給難で戦略は膠着します。そこで連合軍は1859年に南に回り、サイゴン(嘉定城)を制圧してメコン・ヴァムコー川の水路・米倉地帯を押さえる方針に転じました。フエの宮廷(トゥドゥック帝)はゲリラと城塞戦で応じますが、海上移動と火力で優位な連合軍はデルタの要地を確保し、フランス海軍提督らを長とする軍政が芽生えます。アロー戦争講和(北京条約、1860)でフランスが余力を得たことも、サイゴン方面の作戦継続を後押ししました。

この間、宮廷内部では、外征か和議かをめぐって意見が割れました。財政難と地方支配の緩み、メコン下流の米作商業圏における華人ネットワークの影響力など、国内構造の問題も重なり、持久戦に耐える体制は弱体化していました。こうして、局地的勝敗の積み重ねが、国際政治と国内行政の双方の圧力となって宮廷を圧迫していきます。

1862年サイゴン条約――東部三省とコンダオの割譲、賠償・通商・布教の承認

1862年6月、阮朝は仏西両国と「第一次サイゴン条約」(トゥドゥック側の文書では仁平条約)を締結し、(1)嘉定・定祥・辺和の三省とコンダオ諸島の割譲、(2)サイゴン・トゥラン(ダナン)・バラト(北部デルタ河口)などの港湾開放、(3)大量の賠償銀納付、(4)カトリック布教の自由と宣教師保護、(5)外交文書のやり取りなどを約束しました。これにより、メコン・サイゴン水系の心臓部がフランスの手に落ち、稲作・塩・魚醤・林産物といったデルタ経済の収奪が可能になります。条約は形式上、スペインも当事者でしたが、現地経営の主導はフランスが握り、サイゴンは提督府(gouverneur, commandant)主導の軍政・民政ハイブリッド体制へ移行しました。

割譲地では直ちに行政再編が進みます。フランスは省境を再画定し、サイゴン(のちコーチシナ総督府)に直結する官僚機構を整えました。地租と人頭税、通行税、関税の体系化、登記簿・地籍図の作成、道路・運河・水門の整備、要塞と警邏線の構築が並行して行われます。法域は二重化し、フランス人と「準市民」にフランス法を適用、在地住民に慣習法を残しつつも刑事・警察は仏当局が掌握する構造ができました。土地制度では、公有地・王有地・寺社地・共同体地の再区分が進み、灌漑の要衝は国家管理へ、周縁は官許開墾(コンセッション)として民間・華人資本・後には仏人地主に与えられます。

サイゴン条約はまた、布教の自由を明文化し、カトリック共同体は教会・学校・病院を拠点に拡大しました。教育は初等レベルからベトナム語のクォック・グー(ローマ字)教育が徐々に導入され、通訳・書記・税吏など植民地実務に従事する在地中間層を生みます。通商では、米の輸出、材木・胡椒・コプラ等の産品がサイゴン港から出荷され、輸入には繊維・鉄器・酒・塩が目立ちました。華僑(ミンフオン/明香系や広東・潮州・福建出身者)が商流の要となり、税農政の実務を担ったことは、在地社会の力学に大きな影響を与えます。

占領統治と抵抗――トルオン・ディンの義軍、ヴァン・ターン層の運動、行政の「現地化」

割譲直後から、東部三省ではゲリラ抵抗が続きました。代表的人物がトルオン・ディン(張定)で、彼は阮朝からの任官を拒み、メコンの沼沢・森林に拠る義軍を組織してフランス守備隊・協力者を襲撃しました。義軍は村落共同体や寺院、商人の支援を受けつつも、兵站・火器で劣り、次第に掃討されます。とはいえ、道路・運河・市場・徴税の実務を標的にする持久的な抵抗は、フランス側に莫大な治安コストを強いました。

1860年代後半になると、儒生・地方エリート(ヴァン・ターン)の間で、抗仏主義と在地自治の模索が交錯します。彼らは科挙文化の担い手であり、同時に村社の役人でもあったため、完全な絶縁ではなく「交渉と抵抗のあいだ」で揺れました。フランス側も現地人官僚(通訳、筆生、巡査)や民兵(gardes indigènes)を組織して統治の「現地化」を進め、租税と治安を日常化する政策で抵抗の地盤を切り崩します。貨幣・度量衡の統一、印紙税・戸籍登録の徹底は、村落の自律を削る一方で、行政の透明化という側面も持ち、植民地国家の「合理化」が生活の細部に入り込んでいきました。

社会経済面でも変化が加速します。堤防・運河(ヴァムコー・メコン支流)・開墾の拡張で稲作の生産性が上がり、大土地所有と借地農の分化が進行します。米の輸出港としてのサイゴン/チョロンの発展は、米相場や輸送・保管・保険の仕組みを生み、都市には銀行・商社・印刷所・学校・病院が集積しました。華人コミュニティは商工業と金融の核となり、ベトナム人の労働と土地が商品化される速度を早めました。こうした「市場の伸長」は、同時に債務・流民・治安の不安定化も招き、フランスの警察・裁判権拡大の口実にもなります。

1867年の西部併合とその後――六省体制の完成、仏領インドシナへの接続

1867年、コーチシナ総督ラグランデリエール(ピエール・ド・ラ・グランディエール)は、条約解釈の拡大と治安維持を口実に、永隆・安江・河仙の三省を無血占領し、阮朝の地方官を免職して直接統治に切り替えました。フエ宮廷は抗議しましたが、実力で対抗する余力は乏しく、こうしてコーチシナは東西六省がフランス直轄の植民地として確定します。行政は「海軍提督統治」から次第に文民化し、司法・教育・公共事業・保健衛生の局が整備されました。鉄道・電信・灯台・検疫制度が導入され、港湾のドックや倉庫が拡張されると、コーチシナはメコンデルタを背後地にもつ輸出拠点として確固たる地位を得ます。

この体制は、北のトンキン(紅河デルタ)・中部のアンナン(中部ベトナム)への仏介入を誘う前提となりました。1883〜84年のフエ条約でアンナン・トンキンが保護国化し、清仏戦争(1884〜85年)を経て、1887年には仏領インドシナ連邦(コーチシナは直轄植民地、アンナンとトンキンは保護国、カンボジア保護国を包含)が成立します。コーチシナは連邦の財政・輸出の柱として機能し、ゴム・コーヒー・茶のプランテーション、米と魚醤の大量輸出、鉱山開発が進みました。教育ではクォック・グーの普及が近代知識人層を育て、のちの近代ベトナム語文学や民族運動(改良派・維新会・ドンキン義塾)にも影響を与えます。

一方で、土地集中・賦課・労働徴発・種族間の不均衡(仏人・華人・在地の役割の差)は社会矛盾を蓄積させ、農民運動・秘密結社・宗教運動(カオダイ教・ホアハオ仏教の前史的潮流)などの土壌を醸成しました。20世紀前半の革命・民族主義運動は、このコーチシナの植民地化過程で形成された都市・農村の構造を舞台に展開していきます。コーチシナ東部獲得は、単なる領土の線引きを超えて、行政・市場・宗教・教育・法が織り込まれた「近代の出発点」をメコンデルタにもたらした出来事だったのです。