十戒(じっかい、ヘブライ語:עֲשֶׂרֶת הַדִּבְּרוֹת〈アセレト・ハッディブロート〉、ギリシア語:Δέκα Ἐντολαί、英語:Ten Commandments)は、古代イスラエルの宗教伝統において、神と民との契約を表す中核的な戒律の総称です。モーセがシナイ(ホレブ)で神から授与されたと語られ、イスラエル共同体の信仰・礼拝・倫理・社会秩序の要点を短句形式で示しています。ユダヤ教・キリスト教において規範の凝縮形として受け継がれ、法思想・教育・芸術・政治文化に深い影響を与えてきました。一般には「石の板二枚に刻まれた十の言葉」として想像されますが、本文のヴァリアント、数え方の違い、礼拝規範と社会倫理の配分など、伝承は意外に多様です。ここでは、聖書本文の構造と異同、宗派ごとの配列、歴史的背景、文化史上の影響、近代以降の議論を整理します。
成立と伝承――シナイ契約としての「十の言葉」
十戒の物語は、出エジプト記(第19~20章、24章、32~34章)と申命記(第5章)に描かれます。イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野でシナイ山(ホレブ)に至ったとき、神ヤハウェは雷鳴と雲の中で現れ、モーセに「十の言葉」を告げ、石板に刻んで授けたとされます。民が金の子牛を鋳て礼拝した逸話では、モーセが怒って石板を砕き、その後に新たな石板が再度与えられたと語られます。十戒は、神が救出した民と結ぶ契約の条文という位置づけで、礼拝の専一と神名の尊重、安息日の遵守、親への敬い、殺人や姦淫・盗み・偽証・隣人のものへの欲望の抑制など、共同体生活の骨格を列挙します。
学術的には、十戒の文体が短い命令形・禁止形に統一されていること、他の古代近東法典(ハンムラビ法典、ヒッタイト契約文など)と比較して神人契約の形式を取ることなどが注目されます。特に前半の礼拝規範(唯一神信仰、偶像禁止、神名の尊重、安息日)と、後半の社会倫理(親孝行、殺人・姦淫・盗み・偽証・貪欲の禁止)が、神への忠誠と隣人倫理を縫合する役割を果たしている点は、後世の宗教倫理の骨格を準備しました。
本文の異同と数え方――出エジプト記20章と申命記5章、ユダヤ教とキリスト教の区分差
十戒の本文には、出エジプト記20章2–17節と申命記5章6–21節の二つの主要版があります。両者は基本的に同内容ですが、言い回しや強調に差があります。例えば安息日の根拠付けは、出エジプト記が天地創造の安息(六日で創造し第七日に休まれた神の模範)を挙げるのに対し、申命記はエジプト奴隷状態からの解放を想起理由とします。同じ戒でも語順や具体例が微妙に異なり、後代の解釈伝統がこれを重ねて豊かにしてきました。
数え方(配列)は宗派によって異なります。ユダヤ教(古典ラビ的伝統)では、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトから導き出した者である」という自己啓示を第一言として数え、偶像禁止を第二言とします。カトリック教会(およびルター派)は、自己啓示と偶像禁止を合わせて第一戒とし、最後の〈隣人の妻を欲してはならない〉と〈隣人の財貨を欲してはならない〉を分けて第九・第十戒と数えます。他の多くのプロテスタント(改革派など)は、偶像禁止を独立の第二戒とし、最後の「欲してはならない」を一つにまとめて第十戒とします。この違いは教理教育(カテキズム)の配列や宗教美術のモチーフにも影響します。
また、第二の石板(出34章)に挙げられる「契約の言葉」は、祭りや初子奉献、発酵種の禁止など礼拝規範に重点が置かれ、狭義の十戒とは別系統の「儀礼的律法」のまとまりと理解されます。ユダヤ教のハラハー(法体系)では、十戒は全613の戒め(ミツヴォート)の「索引」として機能し、キリスト教では新約におけるイエスの教え(神と隣人愛の二重戒)と調和的に読まれてきました。
各戒の要点と解釈の広がり――礼拝規範から社会倫理へ
第一・第二・第三の領域(唯一神、偶像禁止、神名の尊重)は、神の唯一性と人間の制作物との峻別、言葉の倫理を定めます。偶像禁止は単に彫像を退けるだけでなく、人間が神を自己の目的のために道具化する態度全般への批判として解釈されてきました。神名の濫用禁止は、誓い・契約・裁判など公共的言語の信頼性を守る規範とも読めます。
第四の安息日は、労働からの休止を人間・家族・奴僕・寄留者・家畜にまで及ぼす社会的規範として特徴的です。労働の限度と休息の権利を共同体全体に認める思想は、ユダヤ教の宗教生活の中心であると同時に、近代の労働保護思想との親和も指摘されます。キリスト教では、安息日の中心は復活を記念する「主日」(日曜日)に移りますが、休息と礼拝のサイクルは引き継がれました。
後半の戒(第五~第十)は、家族・生命・婚姻・財産・法廷・欲望の順に、隣人関係の秩序を定めます。親を敬う戒めは家父長制の正当化としてではなく、世代間の責任の相互性や、老い・弱さを抱えた存在へのケアの倫理としても再解釈されます。「殺してはならない」は、戦争・死刑・自衛などの場面での適用範囲が議論されてきましたが、日常の暴力や名誉の殺人、人格の否定といった「広義の殺し」への拡張解釈も、説教や神学で重ねられています。「姦淫してはならない」は婚姻の忠実と人間の身体の尊厳に関わり、近代の個人の自由と共同体規範の調整をめぐって様々な議論を生みました。「盗んではならない」「偽証してはならない」は、財産・信用・公的手続の根幹に関わり、市場と裁判の公正を支える基礎規範とされます。「欲してはならない」は、外形的行為ではなく内面の欲望にまで規範を及ぼし、倫理を行為と心の両面で問う点に独自性があります。
歴史的背景と古代近東法との関係――類似と相違
十戒は、古代近東の法文化の中に置くと、いくつかの共通性と独自性が見えてきます。ハンムラビ法典やヒッタイトの条約は、不法行為と応報、王と臣下の関係、神々を証人とする誓約などを記しますが、十戒は王の法ではなく「神の言葉」として直接に民全体へ発せられる点が異なります。また、条文の簡潔さは、詳細規定(ケース・ロー)よりも、基準原理(アポディクティック・ロー)を掲げる性格を持ち、共同体が具体的事例で応用する余地を残します。安息日や偶像禁止などの礼拝規範が倫理条項と同列に置かれている点も、神人関係と人間関係を分かち難く結ぶユダヤ教的世界観を反映しています。
受容と文化史――シナゴーグと教会、法廷と学校、絵画と映画
ユダヤ教では、十戒は礼拝と教育の中心的教材で、シナゴーグのアーロン(トーラー櫃)上部に十戒の銘板が掲げられることが多く、祈祷や祝祭日に朗読されます。中世には、十戒をミツヴォート全体の索引とみなすラビ的伝統が形成され、注解文学が発達しました。キリスト教では、カテキズム教育の骨組みとして十戒が用いられ、聖画や説教、音楽(オラトリオ、コラール)を通じて広く浸透しました。宗教改革は偶像禁止の解釈を巡って図像・礼拝空間の改革を引き起こし、プロテスタント地域の教会では文字による十戒掲示が重視される傾向が生まれました。
世俗文化でも、十戒は象徴として機能してきました。法廷の装飾、学校の道徳掲示、都市の記念碑、議事堂の浮彫などに、石板を掲げるモーセの図像が採用されます。近代以降の映画(セシル・B・デミル監督『十戒』など)は、出エジプトの壮大な物語とともに十戒を大衆文化へ定着させました。絵画では、レンブラントやシクストゥス派の壁画、彫刻ではミケランジェロの『モーセ』が代表例として挙げられます。図像学的には、ローマ数字I–V/VI–Xを左右の板に刻む表現が一般的ですが、ヘブライ文字の頭文字を用いる伝統も存在します。
近現代の論争と法――政教分離、教育、公共空間
近現代の世俗国家では、十戒の公共空間展示をめぐって論争が生じてきました。特に米国では、州庁舎や学校に十戒のモニュメントを設置することが合衆国憲法修正第1条(政教分離)に反するかが争われ、最高裁判例は文脈・歴史・展示目的の総合判断を示しています(歴史展示の一部としての許容と、宗教的勧誘としての不許容を区別)。ヨーロッパでも、公教育の宗教色や歴史的文化遺産の扱いをめぐり、十戒はしばしば「宗教と公共」の境界を考える素材になりました。
一方、国際人権や倫理教育の文脈では、十戒に見られる〈生命・婚姻・財産・発言の保護〉という骨格と、近代の権利カタログ(生命・自由・財産の権利、表現の自由、信教の自由)との照応が議論されます。もちろん両者は由来と基礎づけが異なり、宗教共同体に固有の規範と普遍人権の関係は単純に同一視できませんが、倫理史・法思想史の比較素材として十戒が用いられてきたことは確かです。
イエスと十戒、イスラームとの接点――越境する倫理の核
新約聖書では、イエスが「律法の成就」として十戒を位置づけ、〈神を愛し、隣人を自分のように愛せよ〉という二重戒に十戒の要旨を集約する場面があります。個々の戒(殺人、姦淫、偽証、親孝行など)への言及も多く、内面の思いにまで倫理を拡張する山上の説教は、十戒の精神を深化させるものと解されます。イスラームでは「十戒」という用語は一般的ではありませんが、クルアーンやハディースに、唯一神信仰、親への善、殺人・姦通・盗み・偽証の禁止など、重なる規範が枚挙され、アブラハム宗教に共通する倫理核が確認されます。
まとめ――契約の言葉としての普遍性と多様性
十戒は、古代イスラエルの契約共同体に与えられた短い言葉の束でありながら、礼拝と倫理、神と人、個人と共同体という複数の軸を一度に射抜く設計になっています。同じ本文でも、宗派ごとの数え方や強調、歴史的文脈に応じた解釈、芸術と教育における表現を通じて、豊かな多様性を獲得してきました。石板のイメージの背後には、神の前に立つ人間の自由と責任、そして共同体の秩序をめぐる長い対話が折り重なっています。十戒をたどることは、単なる「禁止のリスト」を超えて、古代から現代に至る宗教・法・文化の交差点を読むことに通じます。

