実学 – 世界史用語集

実学(じつがく)とは、抽象的な形而上の議論よりも、現実の社会運営・経済・制度・技術・日常生活の改良に直接役立つ知を重視する学問観・運動の総称です。とりわけ東アジアでは、中国の明末清初における経世致用・考証学の潮流、朝鮮朝後期の「実学派」、日本の江戸後期に広がった経世・商業・農政・蘭学・測量などの「実事求是」的営みをさして用いられることが多いです。儒学の伝統を土台にしつつ、経書の句読に終始する学問を批判し、租税・土地・兵制・交通・度量衡・教育・医療など具体の問題に取り組もうとした点に共通性があります。さらに近代以降には、社会科学・統計・工学・衛生・財政学などと接続し、実用と検証可能性を重視する態度として一般化しました。実学は単に「役に立つ学問」というだけでなく、知と権力、倫理と制度、伝統と変革の関係を問い直す観念でもあるのです。

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用語の射程と思想背景――経世致用・実事求是・知行合一

実学という言葉は、時代と地域で含意が異なりますが、核にあるのは「経世致用(社会を治めるために用に至らしむ)」の志向です。理気や性理といった抽象論を軽視するのではなく、それらを制度設計・政策立案・技術改善へ翻訳する実務志向が特徴です。中国では「実事求是(事に即して是を求む)」という語が重んじられ、史料・実測・金石文・制度の細部を丹念に検討する姿勢が広まりました。王陽明の「知行合一」の系譜も、行動を伴わない空論を退ける点で実学に親和しますが、明末清初の実学はむしろ心学の主観性を警戒し、客観的証拠に依拠する考証へ傾斜しました。

東アジアにおける実学は、人口増加・貨幣流通・都市化・市場の拡大・軍事財政負担の増大といった構造変化への実務的応答でもありました。米相場や銅銭の不足、塩・茶など専売の運用、官戸の負担、地方治安・水利・輸送の整備など、切迫した課題は多岐にわたり、古典の章句を整えるだけでは対処しきれませんでした。そこで、古典注釈に偏りがちな科挙的学問に対して、地方の実務官僚・名望家・商人・医師・技術者が知恵を結集し、実験・測量・計数・統計・制度比較を通じて〈役に立つ知〉を形成したのです。

実学のもう一つの根は「史(歴史)」への敬意です。過去の制度や成功・失敗例を検討し、時代状況に応じて応用する態度が、実学の方法論を支えました。これは、経世書・方志(地誌)・会典(法令集)・金石学(碑文学)・水利図・度量衡表などの編纂物として結実します。すなわち実学は、倫理を現実に下ろす「道徳の翻訳」と、経験知を理論へ昇華する「実務の理論化」を同時に進める営みでした。

中国の実学――明末清初の経世学と清代考証学の重層

中国で「実学」と言うと、二つのレイヤーが想起されます。第一は、明末清初の〈経世派〉の系譜です。黄宗羲は『明夷待訪録』で君主専制を抑制し民の利を基準とする政治思想を主張し、顧炎武は『日知録』で地理・度量衡・音韻・典章を渉猟して「天下の興亡は匹夫の責」と気骨を示しました。王夫之は経学と史学を統合し、力学的歴史観で社会変動を捉えようとしました。彼らは、民生の視点から租庸調・田制・兵農分離・学校・科挙など制度全般の再設計を論じ、学問の重心を「治国」に引き寄せたのです。

第二は、清代中期に成熟する〈考証学(考据の学)〉です。これは宋学(理学)の形而上学的議論に対し、経典本文の文献学的確定(音韻・訓詁・版本)や制度史の細密研究を通じて、実証に立脚した知を打ち立てようとする運動でした。戴震は『孟子字義疏証』などで字義から倫理を練り直し、阮元は学術ネットワークを組織して金石学・校勘学を推進しました。乾嘉学と呼ばれるこの潮流は、天文・暦算・地理・水利・度量衡の精密化をもたらし、官修事業(四庫全書の編纂など)とも結びつきます。

さらに、地方官・郷紳が体得した〈実務の学〉は、水利・漕運・塩政・関税・賦役の現場で磨かれました。治河の技術書、農書(徐光啓『農政全書』など)や織造・鉱業の技術解説、度量衡の標準化の試み、疫病対策や本草学(薬物学)の整理などは、民生安定に直結しました。徐光啓はイエズス会士マテオ・リッチらと協働し、西洋数学・測量・天文を取り込み、耶蘇会の科学導入も「実学」の装置となりました。これらの営みは、19世紀の洋務運動(中体西用)へと橋渡しされ、軍事・工部(工場)・鉱山・鉄道の導入に際しても「実用の学問」の名が掲げられます。

他方で、実学は政治的保守と進歩の双方に用いられました。考証は古典主義に閉じる危険があり、経世は改革を促す力も持ちますが、制度の惰性と利益構造に阻まれることも少なくありませんでした。清末の変法自強の時代には、実学の語は官立学堂のカリキュラム(算術・格致=自然学・商務・法政)を正当化する看板としても機能し、伝統的文人の学から近代的専門教育へと接続していきます。

朝鮮の実学――「北学」と「南学」、改革の設計図として

李氏朝鮮後期の「実学」は、封建的土地体制と門閥政治の硬直化、市場の拡大と農村の疲弊という現実を背景に現れました。その思想的中核は、宋学の空疎化を批判し、制度・経済・技術・地理・農政・度量衡・医薬などに具体的処方箋を示すことでした。潮流は大きく分けて二方向に整理されます。中国・清の新知(商品経済・度量衡・地理・外交)を積極的に学ぶ〈北学〉と、伝統倫理の実践と地方社会の自律を重んじる〈南学〉(丁若鏞の系譜を含む)です。

思想家としては、李瀷(星湖)が挙げられます。彼は『星湖僿説』で国家財政・田制・学校・郷約・兵制などを体系的に論じ、地図編纂と地理情報の活用も重視しました。丁若鏞(茶山)は『経世遺表』『牧民心書』『目民心書』、『可約』『欽欽新書』などで、均田・租税簡素化・地方自治・水路・狱訟改革・科学技術(測量・水車)に至る包括的改革案を提示し、シルクロード的に流入した西学(カトリック・自然学)の要素も選択的に採取しました。洪大容や朴趾源(『熱河日記』)ら北学派は、清朝の実態を現地観察して、商工業振興・通商・度量衡統一・道路整備・郵便などの必要を説きました。

制度面では、大同法(布による租税統一)の評価・修補、均田・結税の合理化、河川・堤防の改修、郷約と書院の見直し、教育の実務化、身分制の緩和、貨幣経済に見合う商法・価格情報の整備などが議論されました。実学者は紙上の議論にとどまらず、測量・地図製作・農具改良・農書編纂(田畑耕作法の普及)・医薬の実験などを通じて、具体的成果を残しました。

しかし、党争と保守勢力の抵抗、外圧の強まり、地方社会の利害の複雑さは、実学的処方の実施をしばしば阻みました。それでも実学は、19世紀末の開化運動や近代教育制度(通商・法政学堂)に思想と人材の基盤を提供し、地図・統計・官報・新聞の文化を育てたのです。

日本の実学――江戸中後期の経世と「蘭学」から近代へ

日本における「実学」は、江戸中後期に顕著になります。幕府・藩の財政難、農村の荒廃、都市の商業発展、貨幣の鋳直しや米価の変動など、具体的課題が噴出する中で、抽象的経義よりも施策と技術に強い関心が集まりました。思想としては、荻生徂徠が古学の立場から礼楽刑政という具体の制度(制度設計)に儒学の関心を引き戻し、太宰春台は商業・流通の重要性を認め、石田梅岩の心学は商人の倫理と実務を結び付けました。貝原益軒は養生・本草・教育実務の百科全書的知を編み、地方では農政家が治水・新田開発・作法改良を先導しました。

経世家の系譜には、海保青陵の富国論、本多利明・佐藤信淵の産業政策論、会田安明の貨幣論、上げ米・社倉・義倉・諸色調査・人口統計の活用など、今日の公共政策に通じる発想が見られます。長崎経由の西洋知識(蘭学)は、解剖学(杉田玄白・前野良沢の『解体新書』)、天文測量(高橋至時・伊能忠敬)、薬学・化学・製鉄・砲術など、観察と実験にもとづく学知を導入し、工学と軍事の基礎を整えました。伊能図の全国測量は、地図・道路・治山治水の計画に直結し、情報の可視化が政策を変える典型例となりました。

幕末維新の近代化では、実学は制度輸入の翻訳者群を生みました。渋沢栄一らは帳合と会社制度を普及させ、福沢諭吉は実学(実用の学)をスローガンに、理化学・法律・経済・衛生・工学を広めました。明治国家の学制・官庁・企業・軍・衛生は、統計・測量・土木・財政学・法学・医学といった「近代の実学」に依拠して設計され、旧来の儒学的修養と接続・断絶の両面を経験しました。すなわち日本の実学は、江戸の経世から近代専門学への橋梁として機能したのです。

比較・評価・現在――「役に立つ」をどう測るか

実学を比較すると、三つの共通点が浮かび上がります。第一に、知の正当性を「権威」ではなく「証拠」と「効果」に求める傾向です。古典注釈や権威の引用よりも、測量・実験・統計・史料批判といった方法を尊び、結果の再現性や実施後の効果(減税の実感、飢饉時の救済、水害の減少、交易の活性化)を尺度に据えます。第二に、学際性です。実学は制度・倫理・技術・自然科学・医学・商業・教育を横断し、専門分化の前段階にあって総合性を保ちました。第三に、公共志向です。個人の修養や名声ではなく、共同体の利益(民生・治安・教育・衛生)を基準に置く傾向が強いです。

他方で、実学には二つの緊張が常につきまといます。ひとつは、短期の実用と長期の原理のバランスです。目先の有効性が高い施策は、長期的な制度の一貫性を損なう場合があり、逆に原理に忠実な改革は即効性に欠けることがあります。もうひとつは、権力との距離です。実学は政策と接地するため権力に近づきがちですが、政治的利害に巻き込まれて学問の独立性が損なわれる危険もあります。東アジアの実学者の多くは、地方官や幕臣、郷紳・商人・医師など制度に接点を持つ立場にあり、時に政争に翻弄されました。

現代において「実学」の語は、職業教育・STEM・政策評価・エビデンスに基づく政策(EBPM)、公衆衛生や防災といった公共の実務知を指す場合にもしばしば用いられます。歴史的な実学の遺産は、データの可視化(地図・統計年鑑)、標準化(度量衡・規格)、オープンな知の蓄積(百科全書・官報・法令集)、実験・検証の手続(試作・改良・再現)として今日にも息づいています。「役に立つ」を測る尺度は、経済効率だけでなく、公正・包摂・持続可能性を含む複合評価へと拡張され、公共的価値の定義をめぐる対話が続いています。

学習のコツとしては、地域ごとの代表人物とテキスト(中国:黄宗羲・顧炎武・王夫之・戴震/朝鮮:李瀷・丁若鏞・洪大容・朴趾源/日本:荻生徂徠・太宰春台・海保青陵・本多利明・佐藤信淵・伊能忠敬・渋沢栄一・福沢諭吉)を軸に、彼らが解こうとした具体的課題(田制・税制・水利・商業・度量衡・教育・医療)をセットで記憶するのが有効です。加えて、方法(実測・校勘・統計・比較)と制度(学制・役所・会社・軍・衛生)を紐づけると、抽象語の「実学」が具体の像を持ちはじめます。

まとめ――知を現場へ、現場から知へ

実学は、理念を地上へ降ろし、現場の経験を理論へ引き上げる往還運動でした。東アジアの実学は、儒学という大きな規範枠の内側で、経世致用・実事求是の旗を掲げ、人口・市場・財政・技術という近世の現実に向き合いました。近代の専門学は、実学の精神を継ぎつつも、しばしば公共性や倫理との結びつきを弱めました。だからこそ今日、実学の遺産は、エビデンスと公共性、専門性と市民生活の橋渡しとして再評価されます。実学を学ぶことは、歴史のなかで「役に立つ」をどう定義してきたかを知り、変化する社会で知の責任を引き受けることに通じるのです。