共和国第3憲法(1795年憲法) – 世界史用語集

共和国第3憲法(1795年憲法、フランス革命暦では「共和暦3年憲法」)は、テルミドール反動後のフランスで採択・施行された基本法で、総裁政府(ディレクトワール)体制の枠組みを定めたものです。ジャコバン期の恐怖政治を終わらせ、権力の集中と急進化を避けるために、立法・行政を厳格に分立し、二院制議会と合議制の行政府を組み合わせた点に最大の特徴があります。選挙は財産要件を課した二段階選挙で、旧体制の特権復活を拒みつつも、普遍男性普通選挙には戻さない中道路線でした。新しい憲法は、対外戦争と財政難のさなかで安定をめざしましたが、実際には議会と行政府の角逐、選挙無効化や軍事力の政治介入が続き、最終的にブリュメール18日のクーデタ(1799年)で終止符が打たれます。まずはこの概要を押さえ、続いて背景、制度設計、運用の実態、政治過程、評価と意義を順に確認します。

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成立の背景―テルミドール反動から新体制へ

1794年7月のテルミドール反動でロベスピエール派が失脚し、革命政府の非常体制は緩和に向かいました。恐怖政治期に肥大化した公安委員会や革命裁判所の権限は縮小され、政治犯の釈放が進みます。他方で、対オーストリア・イギリスなどの戦争は続いており、穀物不足とインフレ、通貨アッシニャの暴落が庶民生活を直撃していました。サン・キュロットの街頭圧力は鎮まりつつも、王党派の復権の兆しが各地で見られ、旧体制への逆流をどう防ぐかが新体制設計の核心となりました。

この状況で国民公会は、権力の集中と民衆蜂起の再来を同時に防ぐ「防波堤」を意図し、権限を分散させた憲法草案を進めました。1795年8月の新しい「人権・市民の権利宣言」は、1793年の急進的権利宣言を改め、「人権」とともに「人びとの義務」を併記し、所有権の不可侵や法の支配の強調など、より保守的・法治主義的な色調を帯びました。10月、共和暦3年ブリュメールに共和国第3憲法が批准され、総裁政府体制が始動します。

制度設計の核心―二院制と合議的行政府

1795年憲法の柱は、厳格な三権分立です。立法は二院制議会が担い、下院に相当する「五百人会(議員定数500)」が法律案を起草し、上院に相当する「元老会(議員定数250)」が採決・承認する仕組みでした。五百人会の議員は30歳以上の男性、元老会は40歳以上の男性から選ばれ、両院とも毎年3分の1ずつ改選される回転制で、権力の固定化と急変を避ける設計でした。議員は行政府・司法の職と兼任できず、相互牽制が意図されました。

行政は「5人の総裁(ディレクテュール)」による合議制で、元老会が五百人会の推薦リストから選びます。総裁の任期は5年で、毎年1名が交代する輪番制でした。単独の「大統領」を置かず、権力を分散することで独裁の芽を摘む構想です。総裁には立法の発案権や拒否権はなく、軍隊の指揮・外交・行政執行に限定されました。各省(内務・財務・外務・陸軍・海軍・警察など)には大臣が置かれましたが、議会に対して政治的責任を負う議院内閣制ではなく、総裁の下で行政を執行する官僚長の位置づけでした。

司法は、平等な裁判手続と陪審の原則を維持しつつ、政治裁判の濫用を抑える方向へ整理されました。行政と司法の越権を防ぐため、行政裁判所の設置や地方裁判所の再編成が行われ、中央の非常裁判は縮減されます。地方制度では、県(デパルトマン)―郡(ディストリクト、のち小郡に相当する区分)―コミューンの段階制が引き継がれ、選挙で選ばれる行政評議会と中央任命の行政官が併存する構造が整えられました。

選挙と有権者―財産資格と二段階選挙

有権者資格は、成年男性に限定しつつも、納税額や居住年数などの条件を課す「制限選挙」へと舵を切りました。選挙は二段階制で、まず基礎自治体で一次選挙人(能動市民)が選ばれ、一次選挙人が選挙団を構成して議員を選出しました。これにより、1793年憲法が定めた普遍男性普通選挙からは一歩後退し、商工業者・自作農・専門職など、一定の資産と教育を持つ層が政治の主な担い手となるよう設計されました。革命の「平等」は法の前の平等として維持されつつ、政治参加の門戸は絞られたのです。

さらに、体制移行の衝撃を緩めるために定められたのが「三分の二法(デクレ・デ・ドゥ・ティエル)」です。新議会の議席の3分の2は現職の国民公会議員から充当するという激しい経過規定で、急激な王党派躍進を防ぐ狙いがありました。この規定は1795年10月の住民投票で承認されましたが、パリでは反発が強く、ヴァンデミエール13日の武力衝突が発生し、若い砲兵将校ボナパルト(ナポレオン)が鎮圧に功を立てました。

権利・義務宣言と統治理念―法の支配と所有権の強調

1795年版の「権利・義務宣言」は、1791年・1793年の権利章典を継承しつつ、調子を改めました。表現の自由・信仰の自由・法の適正手続・所有権の不可侵が強調される一方、「勤労」「法の遵守」「国家防衛」などの市民的義務が列挙され、自由は法の枠内で行使されるべきものと位置づけられました。貧困の救済を国家の義務とした1793年の規定は後退し、救済は慈善の領域とされるなど、社会権的要素は薄められました。これらは、恐怖政治の反動としての法治主義と、所有権中心の市民社会像を反映しています。

運用の現実―議会・総裁・軍の三角関係

設計思想に反して、総裁政府期の政治は不安定でした。議会はしばしば総裁と対立し、総裁の交代は頻繁でした。王党派の伸長と急進派の再動員を恐れた行政府・議会は、選挙結果を無効化し、議席を削減する「政変」を繰り返します。代表的なのが、1797年のフリュクティドール18日の政変で、王党派優勢となった選挙の一部を取り消し、反対派議員と新聞を弾圧しました。1798年のフロレアル22日、1799年のプレリアール30日にも、議会陣営が選挙を無効化して勢力均衡を操作しています。

対外戦争は続き、軍は政治の主要アクターとなりました。イタリア遠征で頭角を現したナポレオンは、軍事的勝利と講和交渉で名声を高め、エジプト遠征の失敗を経ても依然として人気を保ちました。軍への依存は、議会・行政府の権威を相対化し、最終的には軍事的カリスマが政治の決定権を握る余地を広げました。行政の現場では、物価高騰と財政難が続き、アッシニャ崩壊後に発行されたマンダ紙幣も信用を得られず、現物徴発や軍需優先の経済運用が市民生活を圧迫しました。

国内では、バブーフの「平等者の陰謀」(1796年)が発覚し、急進的平等主義の地下運動が弾圧されました。ヴァンデ地方やロワール川流域の王党派蜂起は断続的に続き、政権は軍・警察を動員して鎮圧しました。こうした治安対応は、法の支配を掲げる体制のもとでも、例外措置の常態化を招き、自由の制限が再生産される二律背反を露呈しました。

行政・地方・司法の細部―分権と統制のゆらぎ

地方行政は、革命初期に作られた県制度を維持しましたが、コミューンの自治は恐怖政治期に比べて抑制され、県レベルの中央監督が強められました。徴税・徴兵・警察の運用は県行政の重要任務で、県の行政官は総裁の指示に従って国家政策の末端を担いました。司法においては、刑事手続の整備が進み、革命裁判の臨時性から通常司法への復帰が図られましたが、政治事件では行政・軍による介入が続き、裁判の独立は脆弱でした。

宗教政策では、信教の自由が確認されつつも、聖職者の政治的影響力には警戒が続きました。国家と教会の分離は念頭に置かれ、聖職者の忠誠宣誓問題は沈静化に向かいましたが、地方によっては緊張が残りました。教育では、中央の高等教育機関(国立工芸院や中央学校)と地方学校の整備が進められ、理工系・軍事技術の育成が重視されました。

崩壊への道―ブリュメール18日のクーデタ

1799年秋、対外戦線は悪化し、オーストリア・ロシアとの戦争でフランスは苦戦しました。議会内の対立、行政の停滞、経済の混乱が重なり、体制の権威は低下します。ここで、シイエス(元老会の有力者)は体制改造を図り、帰国したナポレオンと結び、軍を動員してブリュメール18日のクーデタを断行しました。総裁の辞任・追放、議会の移転・制圧を経て、憲法委員会が新憲法(共和暦8年憲法)を起草し、統領政府(コンスュラ)へ移行します。共和国第3憲法は、こうしてわずか4年で幕を閉じました。

評価と意義―「反恐怖」の制度実験が残したもの

共和国第3憲法の意義は、第一に、恐怖政治の反省から出発して、権力分立・二院制・合議制を使って権力の独占を避けようとした制度的試みそのものにあります。第二に、所有権の保護と法の支配を前面に出し、市民社会の秩序を再建しようとしたことです。第三に、地方行政・司法・教育の整備を進め、革命の制度的遺産を次期体制へ橋渡しした役割です。

他方で、限界も明瞭でした。第一に、制限選挙と経過規定(三分の二法)が政治的正統性を弱め、選挙無効化という非常手段を繰り返す口実になりました。第二に、行政府と議会の相互不信が政策決定を麻痺させ、軍に依存する政治文化を強化しました。第三に、戦時経済と財政危機のなかで、自由の保障と治安確保のバランスが崩れがちでした。これらの弱点は、ナポレオンのような軍事的・政治的カリスマに体制改変のチャンスを与えたとも言えます。

総じて、共和国第3憲法は、革命の激流を受けて「いかにして自由と秩序を両立させるか」を模索した過程の一里塚です。短命であったことは欠点ですが、二院制・任期交錯・合議制といった設計思想は、その後の立憲主義の道具箱に確かな引き出しを残しました。フランス革命史を学ぶ際には、ジャコバン独裁とナポレオン体制のあいだの「中間の実験」として、この憲法が抱えた期待と矛盾を具体的に見ることが大切です。そうすることで、危機の時代における制度選択の難しさと、権力分立のもろさと必要性が、より立体的に理解できるようになります。