郷勇(きょうゆう)は、清末の中国で地方の名望家(郷紳)や官僚が郷里の防衛と治安維持のために編成した自衛武装集団を指す用語です。とくに太平天国の乱(1851–64年)や捻軍の蜂起など、大規模内乱の時期に各省で急速に組織化され、のちに湘軍・淮軍・楚軍・川軍などへ発展して国家軍事を肩代わりしました。正規の八旗・緑営が機能不全に陥った局面で、郷勇は寄生的な臨時部隊ではなく、徴募・給与・兵站を郷里社会が担う「郷里の軍事化」の中心として登場しました。のちの新軍・地方軍、さらには軍閥化の基層にもつながる現象です。郷勇の理解は、単に「地方の義勇兵」という印象にとどめず、誰が資金を出し、誰が指揮し、どのように編成・運用され、国家と地域の関係をどう変えたのかを見ることが要点になります。以下では、成立の背景、組織・財政・軍備、政治社会への影響と清末新政との接続、評価と比較という順に詳しく説明します。
成立の背景―内乱時代の安全保障と官僚制の空洞化
19世紀半ば、清朝は内外から危機に直面しました。アヘン戦争後の条約体制の下で財政は逼迫し、中央の軍事中枢である八旗は武備の近代化に遅れ、緑営(漢人常備軍)も訓練・統制が弛緩していました。そこに太平天国の乱が広域で拡大し、従来の常備軍だけでは鎮圧が追いつかなくなります。各地の巡撫・布政使や地方の大紳士は、村落共同体の防衛を名目に、独自に兵を募り、郷里の資本と人脈を梃子に武装集団を編成しました。これが郷勇です。湖南の曾国藩が率いた湘勇(のちの湘軍)、安徽の李鴻章が率いた淮勇(のちの淮軍)は代表例で、地方郷紳の動員力と官の権限が結合した新しい兵制の嚆矢でした。
郷勇は、単なる「義勇兵」の一過性現象ではなく、制度不全への社会的な自己修復装置でした。村の結社・宗族・書院ネットワークが募兵・資金・糧秣・情報の回路となり、郷約・団練の経験が軍事動員の基盤となりました。郷勇は当初、防御的な土塁や柵を築き、夜警・水陸の見回り・関所の設置などで治安を守りましたが、反乱が拡大するにつれ、攻勢に回る遠征軍として再編されていきます。その際、名望家が総兵・提督に準ずる権限を付与され、地方軍の指揮系統が半ば私兵的に強化されました。
八旗・緑営との違いは、(1)募集・補給の出所が郷里社会にあること、(2)士気と統制の基盤が同郷意識・個人的恩顧に置かれたこと、(3)臨戦の柔軟性と現地適応力が高かったことです。これらは即応性を高める一方、規律の私的化・派閥化・権限の分散という副作用も孕みました。郷勇の拡大は、清朝の「中央集権的軍事」から「地方分権的軍事」への実質的な転換点であり、国家の暴力の一部を在地エリートが握る構図を定着させました。
組織・財政・軍備―郷里が支える徴募・給与・兵站
郷勇の編成単位は地域や指揮官によって異なりますが、おおむね標(ひょう)・営(えい)・隊(たい)・棚(しょう)などの階梯が用いられ、数百~数千の兵力がひとまとまりとして運用されました。将校・哨官は同郷・同族・同門(書院の師弟関係)から選ばれることが多く、恩顧と評判が統率力の核でした。訓練は火器の扱いと行軍・陣形の基本に加え、砲兵・工兵的な技術を外部の専門家から学ぶ場面もあり、外国人顧問や洋式教練の導入が淮軍を中心に進みました。
財政は郷里負担が基本です。郷紳が先頭に立って寄付や徴発をまとめ、豪商・典当業・票号(為替商)と連携し、銀の調達と現金繰りを回しました。清朝政府も軍餉の補助を約したものの、輸送や遅配が常態化するため、現地での臨時課税や通行税(厘金)に依存する割合が増えました。厘金は商貨の流通に課される徴収で、郷勇の兵站と同時に地方財政の恒常的な財源となり、中央の課税権を侵食しました。兵士の給与は緑営より高く設定されることが多く、家計を支える現金収入として魅力があった反面、戦果や功次による加増・賞与が士気維持の鍵で、指揮官の裁量が大きな意味を持ちました。
装備は、刀槍に加えて火縄銃・アーケバスから前装式小銃、のちには後装式のミニエー銃系統へと更新が進み、砲は旧式の紅夷大砲から西洋式野砲へ段階的に移行しました。淮軍は洋務運動の文脈で江南製造総局などの工場生産品を取り入れ、軍艦・蒸気船の運用や軍需生産の国産化にも関与しました。兵站では、郷里の倉庫・義倉・運河・河川輸送が動員され、地方の塩・糧・木炭・馬匹の供出が制度化されました。
規律と司法は、軍律(軍令状)と賞罰帳の形で運用されました。逃亡・略奪・住民への私的暴力を禁じる規定が掲げられた一方、実際には軍紀違反や乱取りが問題化する場面もあり、将校の統制力と兵の給与・供食の安定が規律維持の前提でした。郷勇は治安と税の執行にも動員され、塩の密売取り締まり、通行税の徴収、反乱の予防的摘発などで行政の腕となりました。
政治社会への影響―地方エリートの軍事化と清末新政への接続
郷勇の台頭は、国家と社会の関係を変質させました。第一に、郷紳の「武装化」です。これまで租税・教育・慈善・争論調停を担ってきた名望家が、兵を率い、軍事と財政を握ることで、地域政治の実権を強化しました。第二に、地方財政の恒常化です。臨時の戦費であった厘金はやがて一般財源化し、郷里主導の公共事業・学校・武備の拡充へ回されました。第三に、人的ネットワークの国家化です。湘軍・淮軍の幕僚・子弟は各地の官職や企業・学堂に配置され、近代化を主導する人材供給源となりました。
太平天国平定後、清朝は郷勇の優位を一旦公的制度に取り込み、新式の常備軍(新建陸軍、新軍)を創設します。郷勇出身の将校・兵は新軍の母体となり、洋式教練・師団編制・近代兵器の導入が進みました。洋務運動の主役である李鴻章・左宗棠らは、軍需生産(兵工廠)・近代企業(輪船招商局・電報・機器局)・教育(同文館・師範)を連動させ、「軍事・財政・産業・教育」を束ねる地方主導の近代化路線を展開します。これは、中央の官僚制が各方面を統御できない現実への実務的回答でした。
しかし、郷勇的編制の強みは、そのまま弱点にもなりました。同郷・同族に依拠する動員は忠誠を強固にする反面、派閥化・地縁主義・閉鎖性を助長し、官職の私物化や利権の温床となり得ました。軍の統合が不十分なまま列強との戦争(清仏戦争・日清戦争)に直面すると、装備・訓練・指揮統一の不備が露呈しました。日清戦争後の変法自強・清末新政では、国民国家的な徴兵・財政・教育の統一を目指す改革が打ち出され、地方軍の再編と中央の統制強化が課題となりました。
辛亥革命(1911)に際しては、郷勇伝統を引く新軍・地方勇が各地で革命側・保皇側に分かれて動き、結果として清朝の崩壊を後押ししました。中華民国期には、郷勇の地縁・師弟ネットワークを基層とする軍事勢力が地域ごとに割拠し、いわゆる「軍閥」時代の構造を形づくります。すなわち、郷勇は短期的には清朝を救い、長期的には中央集権の解体と地域軍事の自立を促す二面性を持っていたのです。
評価と比較―団練・常勝軍・新軍との関係、功と罪
郷勇はしばしば「団練」と並列で語られます。団練は村や県の自衛武装の総称で、民兵的色彩が濃く、常備性と遠征能力は限定的でした。これに対し郷勇は、同じ在地動員から出発しつつも、将校団の常置、兵餉の継続支給、外征の持続を可能にした点で、より「軍隊」に近い存在です。欧米人が指揮した常勝軍(アメリカ人ウォード、のちにゴードン)との比較では、常勝軍が外来式の訓練・装備・戦術を徹底した一個の戦術単位であったのに対し、郷勇は複数の地方勢力の集合で、制度の多様性と伸縮性が特徴でした。新軍は郷勇の人的・組織的資源を国家標準で再編した後継で、徴兵・師団制・中央監督を志向した点に新規性がありました。
功罪の評価は二面的です。功の側面では、(1)国家の非常時における即応力の提供、(2)地方の自助努力による財源・兵站の確保、(3)近代化を担う人材・制度の発生母体、(4)洋務運動の実行部隊としての役割が挙げられます。罪・限界の側面では、(1)軍事の私有化と派閥化、(2)税・通行の割り当ての恣意性と住民負担の増大、(3)軍紀弛緩・乱取り・汚職の温床、(4)中央の統一的軍政の阻害などが指摘されます。郷勇の歴史は、「国家の脆弱性を社会が補う」ことの効用と、制度化されないまま持続した場合の副作用の双方を示しています。
比較史の視点から見ると、郷勇は近世・近代の多くの地域に見られる「準軍事的地方武装」と通じます。たとえば、日本の江戸後期の郷士・農兵、近代以降の在郷軍人会、オスマン帝国の地元有力者による傭兵、ロシア帝国のコサックなどは、国家・地方・共同体の力学が絡む点で相似的です。違いは、国家の再統合能力と制度化の成否にあります。清末中国では、その再統合が十分に達成されず、郷勇的軍事が長く政治の主成分として残存しました。
総じて、郷勇は清末中国の危機対応から生まれ、国家と社会の境界を越えて軍事と財政を動かした現象でした。郷里に根ざす動員力は、非常時の強みであると同時に、平時の統合を難しくする要因でもあります。郷勇を理解することは、国家の暴力をどこまで社会に委ねるか、非常時の例外をどのように平時の制度へと橋渡しするかという、普遍的な統治の課題を考える手がかりになります。

