シャルル9世(在位1560–1574年、ヴァロワ=アンジュー家)は、フランス宗教戦争の真只中で玉座にあった王で、母后カトリーヌ・ド・メディシスの影響下で政務を担いながら、寛容と弾圧の間で揺れた統治を余儀なくされた人物です。彼の治世は、幼年即位、摂政と合議、寛容勅令と内乱、講和と破綻、そして1572年のサン・バルテルミの虐殺という破局的事件へと至る、緊張に満ちた振幅で特徴づけられます。王権はガブリエル・ド・ロピタル(ミシェル・ド・ロピタル)の改革志向とギーズ家・モンモランシー家・ブルボン家など大貴族の抗争、さらには国内のカトリックとユグノー(プロテスタント)の対立に挟まれました。外交ではスペイン・ハプスブルクとイングランドとの均衡、ネーデルラント問題への関与、ヴァロワ家の王女マルグリットとナバラ王アンリ(のちのアンリ4世)との政略結婚などが絡み合います。文化面ではプレイヤード詩派の保護や王自身の『王の狩猟(ラ・シャス・ロワイヤル)』などの著作が知られますが、その輝きは宗教戦争の陰に隠れがちです。ここでは、出自と即位、前半の調停政策、転回点としての1572年、そして晩年と評価という流れで、簡潔に全体像を整理します。
出自と即位――幼王と摂政、均衡外交の出発
シャルル9世(Charles IX, 1550–1574)は、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの第三子として生まれました。兄フランソワ2世が1559年に即位後わずか1年で急逝(1560年)すると、10歳のシャルルが王位を継ぎ、母カトリーヌが摂政として政務を主導します。カトリーヌは、急進的カトリックであるギーズ家と、王家に連なるブルボン家(うちヴァンドーム公はユグノー側の柱)・モンモランシー家などの大貴族を、宮廷儀礼と婚姻・恩顧の網で釣り合い、内戦への滑落を回避しようとしました。
摂政期の鍵となる人物が、法学者出身の宰相ミシェル・ド・ロピタルです。彼は正統信仰の維持と良心の自由の共存をめざし、宗教問題を刑事司法から切り離して政治秩序の枠内で管理する「寛容の統治」を説きました。この思想を背景に、1562年1月にはユグノーの限定的礼拝を認可するサン=ジェルマン勅令(通称一月勅令)が公布され、都市の城外または私邸内に限って公的礼拝を容認します。あわせて1561年のポワシー公会議では、カトリックと改革派の教義折衝が試みられ、神学的妥協は不首尾に終わりながらも、王権が対話の場を設ける統合者であることを示しました。
しかし、宗教寛容は直ちに秩序をもたらしませんでした。1560年のアンボワーズ陰謀はギーズ家の専横を警戒する一部貴族の動きとして露見し、1562年3月のヴァシー事件(ギーズ公一行によるユグノー礼拝への攻撃)を引き金に、第一回宗教戦争が勃発します。内乱は城塞の奪取、地方都市の制圧、田園部での略奪と報復を伴う拡散的戦闘となり、王権は和議で呼吸を繰り返すしかありませんでした。1563年のアンボワーズ和議は、身分・地域に応じた限定的礼拝権を再確認し、摂政も形式的には終わってシャルルが親政を開始します。
内政面では、1566年のムーラン勅令が注目されます。これは王領の不可譲性と王室財産の管理、職務売官制の抑制、裁判権の整理など、財政・司法の近代化を意図する包括的オルドナンスでした。貨幣の品位や度量衡の調整も進み、戦時経済に揺さぶられた取引秩序の立て直しが図られます。他方で地方の三部会やパルルマン(高等法院)は、宗教と治安の問題でたびたび王令の登録を渋り、王権・司法・地方の三者間で権能の綱引きが続きました。
寛容と内乱の反復――講和・破綻・再戦のスパイラル
シャルル9世の治世は、三度に及ぶ主要な内戦と小規模な暴動の連鎖でした。1567–1568年の第二次内戦は、ユグノー側が一挙に王宮を抑える「ムレ動議(メー動議)」の失敗で火を噴き、サン=ドニ近郊での戦闘を経て和議に至りますが、すぐに破綻します。1568–1570年の第三次内戦は長期化し、両派の戦力が消耗する中、海洋都市と要塞線の争奪が続きました。最終的に1570年のサン=ジェルマン和議で、ユグノー側の礼拝自由の拡大と、ラ・ロシェルなど四都市の保障占領(プレ・セキュリテ)が認められ、将来的な共存を思わせる妥協が成立します。
この間、宮廷では勢力図が変動します。モンモランシー家は一時的に失脚と復権を繰り返し、ギーズ家はカトリック同盟の核として求心力を維持、ブルボン家ではコンデ親王の戦死を経て、ナバラ王アンリ(若年のプロテスタント王)が有力な政治駒として台頭しました。将帥としてはコリニー提督(ギーズ家との私怨でも知られる)が王宮で影響力を高め、スペインのネーデルラント支配に対抗する対外戦略(オランダ救援)への関与をシャルルに勧めます。若い王は提督に信頼を寄せ、カトリーヌはスペインとの激越な対立と国内の均衡崩壊を懸念する――この三角関係が、やがて破局へ向かう前提を整えました。
社会の底層でも、説教とパンフレット、ギルドと民兵、都市参事会の構造が宗派別に分極化し、地方では領主・司教・都市の関係に宗教対立が上書きされます。都市の祭礼や行列はしばしば政治的示威に転じ、偶像破壊と聖遺物防衛、墓地と礼拝堂をめぐる小競り合いが日常化しました。王令は寛容を掲げても、末端の執行は地域の力学に左右され、和議条項の運用は恒常的な紛争源になりました。
1572年の転回――王妹婚礼、コリニー襲撃、サン・バルテルミの虐殺
1572年は、フランス宗教戦争の象徴的な年です。8月、パリで王妹マルグリット・ド・ヴァロワとナバラ王アンリ(ユグノーの盟主)の婚礼が挙行され、和解の儀礼として国内外に喧伝されました。各地のユグノー指導者がパリに集う中、8月22日、コリニー提督が市中で狙撃され重傷を負います。犯人は特定されず(ギーズ家関係者・スペインの関与・カトリーヌの策とする説など諸説が併存)、宮廷は緊張の極に達しました。王は激昂して犯人探索を命じる一方、コリニー派が報復に動けば都市が内戦化する恐れがあり、王母と枢密院の一部は「先制的に指導層を拘束・排除せよ」と進言します。
8月24日未明、聖バルトロマイ使徒の祝日、王命(の形式)で一部ユグノー首脳の逮捕・処刑が実行に移され、ギーズ家の一隊がコリニーを殺害しました。ここで止まるはずだった「限定行動」は、蜂起・扇動・恐怖が連鎖して群衆暴力に転化します。パリのカトリック市民・徒弟・一部の治安部隊がユグノー住民を襲い、扉に印をつけた家を選別し、略奪と殺戮が市中に拡がりました。報は地方へ伝播し、ルーアン、オルレアン、リヨン、トゥールーズなどでも暴力が連鎖します。被害者数は史料によって大きく異なりますが、数千から一万を超える推計が提示されています。
王と王母の役割評価は、史学上の論争点です。王の性格は激しやすく、しかし決断は逡巡がちで、直後には暴力を停止させようと勅令を発しています。他方で、王が枢密院で「国家反逆の予防」という名目の首脳排除に同意し、それが暴動を誘発した事実は否定できません。宗派対立・貴族間の私怨・外国勢力の介入・都市の群衆心理・治安機構の脆弱といった複数の要因が重なり、宮廷の限定的暴力が社会暴力に雪崩を打った事件でした。王権の「統合者」としての信用は致命的に傷つき、和議による共存の計画は一挙に遠のきます。
対外的には、イングランドとプロテスタント諸侯はフランスの退廃を批判し、スペインは内戦化でフランスがネーデルラント問題に深入りできないことを利得と見ました。王は体裁を整えるため、事件を「陰謀の摘発」と公式説明し、ナバラ王アンリにはカトリック回帰を強いた上で宮廷に留め置きます(のちに脱出し再びプロテスタントへ)。事後の勅令でユグノーの権利は大幅に切り縮められ、1573年のブローニュ(ラ・ロシェル)和議で限定的に礼拝が再容認されるまで、南西部の要塞都市は抵抗を続けました。
晩年・継承と評価――病躯の王、制度と文化の残滓
シャルル9世は、治世末期に重い肺疾患(結核とされる)に罹り、血を吐きながら政務を見守る状態に陥りました。1573年には弟アンリがポーランド=リトアニア王に選出されて国を離れ、王位継承の不安は一段と増します。1574年5月、23歳の若さでシャルルは没し、間もなくアンリが帰国してフランス王アンリ3世として即位しました。王の遺児は弱く、ヴァロワ家はアンリ3世を最後に断絶、王位はブルボン家(ユグノーの系譜)に移り、ナント勅令(1598年)にいたる長い戦争の道が続きます。
制度面での遺産は、しばしば見落とされますが、小さくありません。ムーラン勅令による王領・司法の整備、王室財政の点検、貨幣品位の管理、地方三部会とパルルマンとの交渉慣行の確立、治安と徴発の枠組みの再設計などは、後代に引き継がれました。王権の統合力は揺らいだものの、王令(オルドナンス)と登録・布告のプロセスは、宗教対立の只中でも「国家の言葉」を流通させる機構として機能し続けたのです。
文化面では、プレイヤード詩派(ロンサール、デュ・ベレーら)を庇護し、宮廷詩と仮装行列・祝祭の演出に感性を示しました。王自身の筆による『王の狩猟』は、狩猟技法・自然観察・統治者の修養を重ねた書であり、暴力の世紀においても宮廷文化が続いていたことを物語ります。とはいえ、これらの文化的成果は、サン・バルテルミの血に覆い隠されがちです。
シャルル9世をどう評価するか。英雄でも暴君でもなく、「壊れゆく秩序の中で足場を探した幼王」というのが等身大の像かもしれません。寛容と強権の間で揺れたのは優柔不断ではなく、実力の不足と国家の分裂に対する現実的な逡巡でした。限定的な首脳排除が群衆虐殺に転化した責は重く、王権の道徳的権威は致命傷を負いましたが、同時に、宗派対立が国家の法と儀礼をいかに侵食し得るかを示す歴史的警鐘でもありました。
総じて、シャルル9世の治世は、フランスが「一つの信仰の王国」から「宗派を抱えた国家」へ移行する苦悩の過程でした。寛容勅令、講和、婚姻外交、そして破局。王はその漸進と逆流のすべてを身に受け、若くして去りました。のちのアンリ4世の和解政策やリシュリューの国家再編は、この時代の失敗と学びの上に築かれます。シャルル9世を学ぶことは、国家が暴力の渦中でどのように言葉と法を保とうとしたのかを知る手がかりになるのです。

