シャルル7世(在位1422–1461年)は、百年戦争後期の危機から王国を立て直し、近世フランス国家の枠組みを決定づけた王です。父シャルル6世の治世末に結ばれたトロワ条約(1420年)で「王太子の廃嫡」を宣告され、実効支配も財源も乏しい「ロワール以南の小王」に転落しましたが、オルレアン包囲戦(1429年)の解囲とジャンヌ・ダルクの出現を契機に反攻へ転じ、ランスでの聖別戴冠(1429年)により政治的正統性を回復しました。その後は軍制・財政・司法・教会政策の制度改革を一貫して実施し、常備軍(オルドナンス連隊)と射石砲・野戦砲を中核とする砲兵力、恒常税(タイユ常設化)と中央官制の整備で王権の基礎を固めました。フランス側の最終勝利は、単に幸運ではなく、王が人材登用と行政の再建を粘り強く続けた結果でもあります。彼は「勝利王(ル・ヴィクトリユー)」あるいは「良き部下に恵まれた王(ル・ビヤン・セルヴィ)」と呼ばれ、個人の英雄性よりも「統治の再編」という観点から評価されるべき人物です。
廃嫡から戴冠へ――トロワ条約の呪縛とジャンヌ・ダルクの転機
シャルル7世の前半生は、正統性の危機そのものでした。父王の精神錯乱と内乱(アルマニャック派対ブルゴーニュ派)の最中、1420年のトロワ条約は、イングランド王ヘンリー5世にフランス王位継承権を譲り、王太子シャルルを「父殺しの疑惑」を口実に排除しました。王太子はロワール流域の諸都市に身を寄せ、「ブールジュ王(ロワ・ド・ブールジュ)」と揶揄されるほど基盤は脆弱でした。財政は枯渇し、貨幣は劣化、諸侯は自立し、守るべき城塞と橋は足りませんでした。
転機は1429年、ドンレミ出身の農家の娘ジャンヌ・ダルクが現れ、オルレアン包囲を解き、パテーの戦いでフランス軍が快勝したことでした。軍事的には、英軍の長弓陣形が崩れ、機動突撃と包囲で優位を確保したことが大きいですが、それ以上に重要だったのは心理と象徴の逆転です。ジャンヌの存在は、王太子の正統を「神意」と結びつけ、敵味方双方の士気を決定的に左右しました。シャルルはこの勢いを生かして北上し、伝統に則り聖油が保管されるランスで戴冠・聖別を受け、シャルル7世としての名実を得ます(1429年7月)。ランス戴冠は、パリ奪回や終戦より先に「正当王の可視化」を優先した戦略的行為でした。
しかし、戴冠後も道は平坦ではありません。翌1430年にはジャンヌが捕らえられ、1431年にはヘンリー6世がパリで形式的にフランス王として戴冠します。シャルルは即時の決戦を避け、内政整理と外交工作に重心を移しました。1435年、アラスの和約でブルゴーニュ公国と関係を修復し(ヴァロワ=ブルゴーニュと王権の離反を収束)、パリ帰還の条件を整えます。ここに至って初めて、百年戦争の「フランス側連合」の骨格が揃いました。
軍制・財政の再建――タイユ常設化と常備軍、砲兵革命
シャルル7世の最大の遺産は、制度改革にあります。まず財政。1439年の勅令は、非常時臨時課税であったタイユ(人頭税に近い直接税)を事実上「常設化」し、王権が全国規模で恒常収入を握る道を開きました。この税収が、賃金兵の継続的雇用と砲兵装備の整備に充てられます。地方に散在していた徴税・会計の手続きは整理され、王室会計院(シャンブル・デ・コンプ)、パリ高等法院(パルルマン)などの審査・登記機構が機能を取り戻しました。貨幣は品位回復が図られ、王名を刻む鋳造権の統制で市場の信頼性を確保します。
軍制では、1445年のオルドナンスにより「コンパニー・ダルドナンス(オルドナンス連隊)」と呼ばれる常備騎兵部隊が創設されました。1中隊(ランスと呼ばれる一組の騎士・従者・弓兵・従騎兵)を単位に全国に分散配置し、戦時に召集して統一司令系統で運用する仕組みです。従前、傭兵集団(エコルシュール)や在地領主の私兵に依存していた軍事力を、王室直属の常備兵に置き換えることで、戦時の略奪や二次徴発を抑え、治安と農業生産を守ることに成功しました。これは、ヨーロッパ最初期の「国軍の常設化」の実例に数えられます。
補助としての歩兵については、フランス弓兵(アルバレストの運用)やピケ(槍兵)の訓練・装備が整備され、地域民兵(フランシュ・アーチャー)制度も試行されました。決定的だったのは砲兵力の発達です。ジャン・ビューロー、ガスパール・ビューロー兄弟の管轄下で、野戦砲と攻城砲の口径標準化、輸送車両の規格化、火薬の品質管理が進みました。これにより、城郭攻略の速度が飛躍的に上がり、英軍の要塞線を次々に落とせるようになりました。1453年カスティヨンの戦いは、近代砲兵が野戦の勝敗を左右した記念碑的事例で、英軍のタルボット伯は砲兵陣に突撃して敗死します。火砲・常備軍・恒常税の三点セットは、フランス王権の軍事的自立を不可逆にしました。
教会と王権――ブルジュの勅令(プラグマティカ・サンクティオ)とガリカニスム
教会政策でも、シャルル7世は重要な一手を打ちます。1438年、ブルジュの高等法院で公布された「ブルジュの勅令(プラグマティカ・サンクティオ)」は、コンスタンツ公会議・バーゼル公会議の決議を受け、フランス教会の自治と公会議至上の原理を承認し、教皇庁の叙任権・恩典販売・上納金に制限を課す内容でした。これは単に反教皇主義ではなく、教会収入の域内留保、聖職者任免の地域コントロール、裁判権の統一という行政合理化策でもあります。結果として、王権は教会人事と財源に影響力を持ち、修道院・司教区が王国防衛と公共事業(橋・道路)に協力する制度的根拠が整いました。後にはルイ11世・フランソワ1世のコンコルダート政策へと継承され、ガリカニスム(フランス教会主義)の長期的土台となります。
内政と宮廷――諸侯反乱(プラグリ)への対処、アニェス・ソレル、ジャック・クール
改革は抵抗を生みます。1440年、諸侯・王族の連合反乱「プラグリ」が勃発し、王令による課税・軍制改革に反発した貴族たちが一時的に結束しました。シャルルは武力と交渉を織り交ぜてこれを収束させ、常備軍の解体を免れました。反乱は、王太子ルイ(のちのルイ11世)が在地勢力と通じる契機にもなり、父子の対立は以後もしこりとして残ります。
宮廷では、アニェス・ソレルが王の寵姫として知られ、芸術保護と財政規律の両面で影響を及ぼしました。彼女は装飾芸術や服飾の流行を牽引しただけでなく、王に節度と決断を促したと同時代人に記されています。交易・金融面では、ブールジュの富商ジャック・クールが東地中海交易と王室財政を支え、銀の供給と装備調達で貢献しました。彼は1451年に失脚・裁判にかけられますが、王権が都市商人と手を結び、戦時財政を運転した象徴的な人物です。王は彼の資産の一部を没収・再配分し、財政の公私境界の曖昧さを是正する方向に動きました。
司法面でも、パリ高等法院(パルルマン)の権限整理、王令(オルドナンス)の成文化、度量衡・通貨・価格統制の標準化が進み、王国内市場の一体化が促されました。街道の安全回復と橋梁の復旧、関税の統一は、戦時経済を平時の通商へと戻す前提を整えます。都市は王権の同盟者として再活性化し、ギルドと市参事会は戦費調達・補給・修理に不可欠の役割を果たしました。
最終局面――ノルマンディーとギュイエンヌの回復、百年戦争の終結
軍事的反攻の決定局面は二段階で訪れます。まず1444年トゥールの休戦で呼吸を整えた後、ブルゴーニュとの和約を背景に、1449–1450年のノルマンディー作戦が展開されます。フォルミニーの戦い(1450年)で英軍を撃破し、ルーアン・カーンなど主要都市が相次いで帰順・陥落しました。次に1451–1453年のギュイエンヌ再征服で、カスティヨンの決戦をもって英軍主力を壊滅させ、ボルドーも陥落。カレーを除く大陸領はほぼ回復され、百年戦争は事実上終結します。ここでの勝利は、砲兵の運用、兵站の整備、常備軍の即応性という制度的優位の総合成果でした。
この間、ジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判(1455–1456年)も進められ、彼女の裁判が政治的・法的瑕疵を含むことが公式に確認されました。王権は、ジャンヌを「神意の証人」として再位置づけ、自らの正統性の記憶政治を完成させます。戦後は、英仏間の外交・商業関係が徐々に再構築され、王国は内政の整備へと専心できる条件を得ました。
晩年と継承――王太子ルイとの確執と国家の遺産
晩年のシャルル7世は、王太子ルイ(のちのルイ11世)との確執に悩まされました。ルイはドーフィネ総督として独自勢力を築き、父の寵臣や政策にしばしば反抗しました。1456年にはブルゴーニュ公の許に亡命し、父子は決裂します。シャルルは1461年に没し、王位はルイが継ぎますが、すでに国家の基礎は整っていました。常備軍・恒常税・中央司法の三本柱、そして教会政策のガリカニスム的枠組みは、後継者が対英外交や内乱(公益同盟戦争)に取り組む上で強力な資産となりました。
評価の上では、ジャンヌ・ダルクの影に隠れて「受益者」と見なされがちですが、改革の持続性は王の政治感覚と忍耐の賜物です。彼は性急な冒険を避け、同盟重視・財政整備優先・人材登用(ビューロー兄弟、トリスタン・エルミート、ブリタニーの将ら)に徹しました。カペー=ヴァロワ王権はここで制度国家へと質的転換を遂げ、後のイタリア戦争に出ていく「近世フランス」の準備が整えられます。
小括――制度で勝った王
シャルル7世の統治は、危機を奇跡で乗り切った物語ではありません。象徴の力(戴冠・ジャンヌ)をきっかけに、税・軍・裁判・教会の制度を根気よく組み替え、国家の「運転術」を刷新したプロジェクトでした。常備軍と砲兵の整備、タイユの常設化、ブルジュの勅令による教会の統合、ブルゴーニュとの和解と都市・商人との提携。これらの相乗効果が、百年戦争の終末局面で実を結び、大陸から英軍を駆逐する力になりました。シャルル7世は、剣よりも「制度」で勝った王でした。彼の時代に築かれた枠組みは、ルイ11世・フランソワ1世を経て絶対王政の長い弧へと伸びていきます。

