シャルル2世(禿頭王、843–877年に西フランク王として在位、875–877年にローマ皇帝として在位)は、カロリング朝分裂期の要となった君主です。祖父カール大帝が築いた「帝国」の統一が崩れゆく中で、兄弟・甥たちとの分割と再分割、ノルマン人(ヴァイキング)やブルターニュ・アキテーヌ諸勢力への対処、教皇庁との関係を通じた皇帝戴冠など、13世紀以前の西ヨーロッパの政治秩序を大きく方向づけました。843年のヴェルダン条約で西フランク王国(のちのフランス王国の核)を得て、870年のメルセン条約では中部領の一部を獲得します。国内では伯(カウンツ)や修道院長に依拠する統治を再編し、864年ピストル勅令などで貨幣・軍制・治安を整え、877年キエルジ(キエルジー)詔勅で在地支配層の世襲化を事実上追認しました。統一帝国の理想を掲げつつも、現実には地方分権が進む過程に立ち会い、後世の「フランス」と「ドイツ」が別個の政治体として歩む前提を作った人物です。
出自と時代背景――ルートヴィヒ敬虔王の末子として
シャルル2世(Charles II, dit le Chauve, 823–877)は、ルートヴィヒ敬虔王(ルートヴィヒ1世、カール大帝の子)の末子として生まれました。同父の兄にはロタール1世(のちの皇帝)、ルートヴィヒ2世(独)=ドイツ人ルートヴィヒ、異母兄にイタリア王ピピンなどがいます。父王の治世では、皇帝継承と領土配分をめぐる兄弟間の対立が深刻化し、内戦と和解が繰り返されました。帝国の広がりは、言語・慣習・教会区画の差異を内包し、カール大帝の宮廷・勅令(カピトゥラリア)による統合は、王権の弱体化とともに解けはじめていました。
シャルルは幼少期から母ユーディト(エマ)に庇護され、宮廷内の派閥抗争の焦点にもなります。兄たちは、末弟に領土が与えられることに警戒を強め、父王の晩年には内乱が激化しました。こうしてカロリング家の団結は崩れ、帝国は分割という現実的選択に向かいます。シャルル自身は、学識と教会人脈で知られるランス大司教アンキュマール(アンクマール、アンヌマールとも表記)らの助言を得て、王としての権威形成を進めました。
ヴェルダン条約と西フランクの形成――分割の中の建国
833年の「聖者の野の屈辱」で父ルートヴィヒが一時退位するなど、混乱ののちに、兄弟間の抗争は842年のストラスブールの誓いを経て、843年ヴェルダン条約で一応の決着をみます。ロタール1世は中部フランク(ロタリンギア)と皇帝位を、ルートヴィヒ(ドイツ人)は東フランクを、そしてシャルルが西フランクを受け取りました。西フランクは、セーヌ・ロワール・ガロンヌ流域の平野、ブルゴーニュ・アキテーヌ・ブルターニュなど多様な地域からなる複合領域で、のちのフランス王国の原形です。
条約後も境界は安定せず、855年のプリュム条約(ロタールの死後の更なる分割)、870年のメルセン条約(ロタール2世の死を受けて東西フランクが中部の一部を再分割)と再調整が続きました。シャルルは、ローヌ上流やコート地方の一部、ロレーヌ西部など中部領の断片を得る一方、アルザスやフリースラントの防衛では東フランクとの綱引きが続きます。こうした再分割は、王国境界の弾力性と、「フランク人の帝国」が地方的利害の加算に移行していく過程を如実に示します。
西フランク内部では、アキテーヌ王位やブルターニュ支配をめぐる問題が重なりました。シャルルは一時、長子ルイ2世(吃音王)にアキテーヌ王位を与えつつも、在地貴族の自立に直面します。ブルターニュではノミノエ、続くエリスポエらのブレトン勢力が強勢となり、サンタンブロワーズやバロン付近の戦闘でフランク軍が苦杯を舐める局面もありました。辺境統治は、伯と在地司教の協働の成否に左右され、王は恩寵と罰、贈与と没収を通じて求心力の維持に努めます。
ヴァイキング対策と内政――ピストル勅令・貨幣・城塞の再編
9世紀半ばの西フランクは、セーヌ・ロワール・ガロンヌなどの河川をさかのぼるノルマン人の襲撃に悩まされました。845年のパリ襲撃(セーヌ河畔の略奪)をはじめ、港湾・修道院・市場が被害を受け、交易と徴税に打撃が出ます。シャルルは臨時の貢納(デーンゲルドに相当)で時間を稼ぎつつ、864年ピストル勅令(エディクト・オブ・ピストル)で体系的な防衛・治安政策を打ち出しました。
同勅令は、(1)橋頭堡や城塞化(モットの前段階を含む)による河川防衛、(2)騎兵動員の強化(馬の販売・輸出規制、装備の基準化)、(3)貨幣改革(デニエ銀貨の品位維持と偽造防止、王名の鋳刻)、(4)武器携行と農具改造兵器の規制、(5)市場秩序と度量衡の統一、などを含む広範な内容でした。これにより、各伯領の軍事・財政・司法の標準化が進み、王権の「書記術」による統治が強化されます。修道院・司教座は防衛拠点・糧秣供給地として再編され、宥免と庇護を引き換えに人的・物的資源の提供を担いました。
教会との関係でも、シャルルは学芸・典礼の整備を通じて王権の正当化を図りました。ランス大司教アンキュマールは、王冠と聖油、聖遺物の政治神学を整え、王の「聖別」を儀礼的に強化します。修道院改革の波(アカキウスや後のクリュニーに先立つ局地的改革)を支え、王領修道院(モナステール・ロワイヤル)の帰属や院長職の叙任を通じて、財源と祈りのネットワークを掌握しました。勅令の語彙や公文書の様式は、カロリング・ルネサンスの成果を継承し、王の言葉が在地社会へ浸透する回路を整えます。
皇帝戴冠と対外政策――ローマ、ロタリンギア、イタリア
875年、教皇ヨハネス8世は、ローマ周辺の防衛と教会改革の支援を条件に、シャルルをローマ皇帝として戴冠しました。これは、中部フランクのロタール系が断絶に向かう中で、東西フランクの均衡を考えた教皇側の選択でもありました。シャルルはイタリア遠征に乗り出して皇帝位の実効化を図りますが、補給・同盟関係・在地諸侯の掌握に課題を抱え、軍の維持は思うように進みませんでした。東フランク側では、甥のルートヴィヒ3世(若王)やカールマンらが自身の権利を主張し、アルプスを挟んだ駆け引きが続きます。
870年のメルセン条約では、ロタール2世の遺領ロタリンギアの再分割が行われ、シャルルはアールデンヌ以西の地といくつかの都市を獲得しましたが、ザール以東やマース河上流域の多くは東フランクが保持しました。シャルルの狙いは、北海からブルゴーニュ・ローヌへ抜ける交易動脈の支配にあり、都市と修道院の保護を通じて税関・市場の掌握を進めます。とはいえノルマン襲撃と在地諸侯の自立がこれを阻み、皇帝位は名目的威信にとどまる局面が少なくありませんでした。
アルルやリヨンの大司教区、サン=ドニやサン=マルタンといった有力聖域は、皇帝たるシャルルの権威を地域に媒介しました。彼はしばしば聖遺物の移送・奉献を政治装置として用い、王権の巡回(イタネラント)に宗教儀礼の節目を重ねます。これにより、公文書発給地や勅令公布の舞台としての聖域が増え、在地社会の「王を見る」機会が制度化されました。
在地支配層の台頭とキエルジ詔勅――伯・封土・世襲化
シャルルの統治で決定的だったのは、在地支配層の固定化です。戦時動員と防衛の責務を負う伯・辺境伯は、裁判・軍事・徴税の権能を委任され、王国の末端を運転しました。ところがノルマン襲撃と継承内乱の連続で、王の常時臨在が困難になると、地方諸侯は自前の城塞と従者(ヴィッサル)に依拠して自律化を強めます。王は彼らの忠誠と引き換えに、職と所領の世襲的継承を容認せざるをえなくなりました。
877年、イタリア遠征に赴く直前に発せられたキエルジ(キエルジー、キエルジー=シュル=オワーズ)詔勅は、王不在時の統治手続を定めるとともに、伯職や受封地の継承をめぐる慣行を追認する内容を含みました。厳密には「完全な世襲制の導入」ではありませんが、実務上は伯家の継承権を強く支持する方向に働き、10世紀以降の封建領主制の制度的前提を整えます。伯は地方法官や修道院長と結び、王の名において施政を行いつつ、次第に「自らの名において」行う余地を拡げました。
こうした流れは、一面では王権の弱体化ですが、他面では危機下で王国を持続させるための現実解でもありました。分散した防衛と徴発のネットワークが、王国の「耐久性」を確保したのです。シャルルの死後、カロリング王権はさらなる相続問題に直面し、10世紀末にはカペー家がフランス王権を継承しますが、在地領主の層が厚く存在し続けたことが、長期的な政治地形を規定しました。
学芸と儀礼――カロリング・ルネサンスの余韻と王権の演出
シャルルの宮廷は、アルクインの世代に遅れてはいるものの、カロリング・ルネサンスの余韻を保ちました。書記局(スクリプトリウム)では正書法とラテン語文体が整えられ、勅令や特許状は形式美を備えます。詩人・学者は王の徳を称える頌詩や書簡を著し、王冠・王笏・聖油・王座といった儀礼用具は、図像と説教で意味づけられました。王の列聖や聖遺物崇敬と結びつく「聖別王権」の観念は、フランス王権の特質として後世まで継承されます。
貨幣図像や印璽も、王のイメージ戦略の一環でした。デニエ貨の表に王名と十字、裏に都市名・司教座名を刻む実務は、流通と権威の双方を支えました。王の肖像は抽象化され、キリスト教秩序の守護者としての自己像が強調されます。こうした「見える王権」は、在地諸侯の自立に対抗する象徴資源として機能し、儀礼と文書が政治の中核であった時代の空気を今に伝えます。
最期と後継――帝国の夢と地方の現実
シャルル2世は、877年、イタリアからアルプス越えで帰途につく途上、モン・ジュネーヴルの山麓付近で没したと伝えられます。皇帝位は短く、在位末期は健康と軍の維持に苦しみました。王位は長子ルイ2世(吃音王)が継ぎますが、彼もまた短命で、のちにはカロリング家の断絶とカペー家の台頭へと政治舞台が移ります。シャルルの治世は、統一帝国の理念を掲げた最後の世代のひとつであり、その実務は、在地勢力に支えられながら王権を存続させる「折衷の政治」でした。
結果として、西フランクは王の直轄地こそ限られつつも、伯・司教・修道院を束ねるハブとしての王権が残り、王の聖別と儀礼、貨幣と勅令、巡行と裁判が政治共同体の骨格を成しました。のちのカペー朝は、この骨格の上に王領拡大と司法・財政の常設化を重ね、13世紀の「フランス王国」を築き上げます。シャルル2世の時代は、その前提の多くを整えた過渡期だったのです。

