「クーリー(苦力)」は、19世紀から20世紀初頭にかけて、主にインド亜大陸や中国から契約で海外に送り出された移民労働者を指す歴史用語です。当時の砂糖・綿花・ゴム・グアノ・鉄道・鉱山などの現場で酷使され、低賃金・長時間労働・接続した負債に縛られました。語は今日では差別的ニュアンスを強く帯び、学術や教育の場では「契約移民(indentured labor)」や「中国系契約労働者」「インド系契約移民」などの表現に置き換えるのが一般的です。背景には大西洋奴隷貿易の終焉によって生じた労働力不足があり、帝国と商人は「自由契約」の名目で新たな長距離労働移動を組み立てました。募集・移送の段階から暴力と欺罔が伴い、到着地では人種差別的な法制度と監督の下で暮らしが管理されました。とはいえ、彼らは受け身の被害者だけではありません。限られた自由のなかで賃金を貯め、家族の移住や商業への転身を果たし、やがてディアスポラ社会を築いて、送り出し地域と受け入れ地域の文化・経済をつなぐ担い手にもなりました。ここでは、用語の意味と語源、募集と移送の仕組み、地域ごとの労働現場と法的枠組み、長期的な遺産と今日の言葉遣いという観点から、立体的に理解できるように解説します。
用語と背景:語源・差別性・「奴隷制後」の労働市場
「クーリー」という呼称の語源は複数説があります。インド側ではタミル語のkūli(賃金・日当)やヒンディー語のkūlī(荷運び人)に由来するという説が古くから唱えられ、中国側では近代に漢字「苦力」(苦しい力仕事)を当てて表記しました。いずれにせよ、言葉が広く流通したのは、帝国の官僚・商人・監督がアジア人の単純労働者をひと括りに呼ぶ必要があったためで、軽蔑や固定観念を伴うラベルとして機能しました。現代では差別語と受け止められやすく、文脈に注意が求められます。
歴史的背景として重要なのが、奴隷制の廃止と「自由労働」の興隆です。1807年前後から大西洋奴隷貿易が英米を皮切りに違法化され、英領では1833年、仏領では1848年に奴隷制度そのものが廃止されました。しかし、カリブ海の砂糖プランテーション、南北アメリカやアフリカ・アジアの鉱山・鉄道・ゴム園は、なお大量の労働力を必要としていました。そこで植民地当局と私企業は、アジア内陸部や沿岸の貧困層を「契約移民」として募集し、輸送し、一定年限(多くは5~8年)の労働契約に縛る制度を整えます。名目は自由契約でも、前貸し金・違約罰金・監督警察の罰則・旅費の負担などが重なって、実態は強制に近い拘束となりました。
加えて、19世紀のグローバル経済は、サトウキビ、綿、茶、コーヒー、ゴムなど特定作物の国際相場に左右され、景気後退期には賃金の未払い・帰還費用の打ち切りが多発しました。安価で入れ替え可能と見なされたアジア人労働者は、現地の白人・クリオール・解放奴隷の失業と競合し、しばしば暴力的な排外主義の標的にもなりました。この「市場のボラティリティ+植民地的人種秩序」の組み合わせが、クーリー現象の根にあります。
募集と移送:仲介人・ barracoon ・書類と負債—契約が強制へ変わる瞬間
インド系契約移民では、英領インド政府が発給する登録制度のもと、カルカッタ(コルカタ)やマドラス(チェンナイ)、ボンベイ(ムンバイ)の出港地で「プロテクター(監督官)」が契約書を確認する仕組みが整えられました。とはいえ、内陸部では仲介人(アーカット、sirdar)が口頭で好条件を並べて人々を誘い、読み書きできない応募者が内容を理解しないまま署名・押印する例が続出しました。前貸し(アドバンス)で家計の急場をしのいだ時点で、すでに負債の鎖がかかっていたのです。女性や未成年の「同伴」も、しばしば数字合わせとして扱われ、家族の意思は軽視されました。
中国系の場合、マカオや広州の沿岸に置かれた寄留施設(いわゆるbarracoon:バラクーン)での監禁・暴力が問題化しました。経済破綻や天災で村を追われた人々、海商に騙された者、さらには誘拐された者までが、キューバやペルー行きの船に積み込まれます。太平洋航路は劣悪で、過密・疫病・栄養不良により高い死亡率を記録しました。到着後も「自由意志」を確認する仕組みは形骸化し、実際には監督や警察が契約履行を強制しました。
こうした乱暴な募集・移送の実態に対して、英政府や清朝、条約港の外交団、宣教師、人道団体が調査・告発を行い、規制が段階的に強化されます。たとえば英領インドでは、検診・言語通訳・契約内容の読み聞かせ・帰還便の保証が制度化され、中国人移送についても英本国や清朝がたびたび禁止や厳格化を打ち出しました。とはいえ、監督側の利害と現地当局の黙認が重なると、紙の規制は簡単に骨抜きになりました。
現場と地域:プランテーション・鉱山・鉄道—広がる労働空間と差別の法
カリブ海・南米では、トリニダード・トバゴ、ガイアナ、ジャマイカ、スリナム、キューバ、ペルーなどへの移送が盛んでした。砂糖プランテーションでは日の出から日没までの苛酷な労働、監督の鞭、罰金・禁固、逃亡者への追跡が制度化されました。ペルーのグアノ採掘や内陸鉄道建設では落盤・事故・肺疾患が多く、墓地には無名の墓が並びました。キューバやペルーに到着した中国系は、しばしば8年契約を2期、計16年に延長させられ、終身拘束に近い実態も報告されています。
インド洋世界では、モーリシャス、レユニオン、ナタール(南アフリカ)、そしてイギリス領フィジーが主要な受け入れ地でした。フィジーの契約移民は自らの契約書(girmit)から「ギルミット」と呼ばれ、農園労働から商業や自営へと移ったのち、独自の言語変種(フィジー・ヒンディー)や宗教施設を築きました。セイロン(スリランカ)や英領マラヤでは、タミル系が茶園・ゴム園で働き、マレー半島の錫鉱山や鉄道建設でもアジア人労働者が中核を担いました。ここでは「カンガニ制度」と呼ばれる同郷監督による募集・管理が普及し、前貸しと相互監視で労働力を固定しました。
北米・太平洋岸では、中国系労働者が米国大陸横断鉄道の建設や鉱山・洗濯業・家事労働に従事しました。彼らは賃金の低さと危険作業を押し付けられる一方、仕事の正確さ・節約・共同生活の効率で雇い主の信頼も得ました。しかし、成功が見え始めると排外主義が強まり、米国では1875年のペイジ法、1882年の中国人排斥法、豪州では1901年の白豪主義(移民制限法)が制度化され、法的な人種差別が長期化します。暴力事件やリンチ、職域からの排除は、クーリーを「永久に低位の他者」と見なす社会心理の産物でした。
法制度の面では、契約違反への刑罰、夜間外出の制限、村落・バラックへの居住指定、婚姻・宗教行事の監督など、統治の細部が生活を囲い込みました。他方で、労働協約の改定や賃上げ、休暇・医療の確保を巡って、小規模なストや嘆願、裁判闘争も各地で試みられます。監督の暴行や強姦、賃金未払いの訴えは、しばしばメディアや議会で取り上げられ、制度改正の契機となりました。
終焉と遺産:制度の廃止、ディアスポラの形成、言葉の教訓
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、国際世論と送り出し国の抵抗、そして現地社会の変化が重なり、契約移民制度は次第に縮小します。中国系の太平洋横断移送は1870年代までに大きく制限され、英領インドからの契約移民は第一次世界大戦期の1916年に募集停止、1917年に正式廃止となりました。理由は、募集・輸送の虐待への批判、国内のナショナリズム、賃金上昇と機械化、そして労働運動の成熟です。制度の終わりは、同時に何十年にもわたる移民の定住化を意味しました。帰還せず現地に残った人びとは商業や自営へ転じ、寺院・モスク・学校・相互扶助組織を整え、政治代表を獲得していきます。
今日、カリブ海のインド系コミュニティ(トリニダード・ガイアナ・スリナム)、米州の華人社会(ペルーのトゥサン、カリブ諸島の客家系など)、南アフリカのインド系、フィジーのインド系、マレーシアやシンガポールのタミル系・広東系は、かつての契約移民の子孫を多く含みます。言語や料理、宗教祭礼(プージャ、ガネーシャ祭、旧正月、七夕に似た行事など)は地域文化と混淆し、チーファ(中華×ペルー料理)やロティ・ダブルス(トリニダードの軽食)のような新しい食文化が生まれました。音楽・スポーツ・政治にも影響は広がり、作家V.S.ナイポールらが描いた「移民二世の自画像」は世界文学の重要な一部となっています。
ただし、差別と格差の記憶もまた遺産です。契約移民制度のもとでの体罰・性暴力・家族分断、帰還費用の未払い、差別法の長期的影響は、世代を超えて語り継がれています。博物館や記念碑、無名墓地の調査、口述史の採録は、労働の尊厳を社会の記憶に刻み直す営みです。教育の場では、奴隷制の終焉が直ちに自由と平等を意味しなかったこと、そして「自由契約」の名のもとに新しい拘束が設計され得ることを学ぶ契機になります。
最後に、言葉の問題に触れます。「クーリー(苦力)」はその歴史的文脈を説明する目的で用語集に載せるにとどめ、現代の人や職を指す用語としては避けるのが望ましいです。代わりに「契約移民」「中国系労働者」「インド系移民労働者」など具体的・中立的な語を使うことが、歴史の痛点に敬意を払う最小限のマナーです。労働の移動と人種化の問題は、形を変えて現在も続いています。過去の言葉と制度を丁寧に振り返ることは、移民受け入れ・技能実習・サプライチェーンの倫理といった現代の課題を考えるための手掛かりになるのです。

