クリオーリョ(criollo)は、主として植民地期スペイン帝国において「アメリカ大陸で生まれたスペイン系(ヨーロッパ系)住民」を指す社会的区分の名称です。半島本国出身者(ペニンスラール/ペニンスラールス、peninsulares)と対比され、政治・行政の高位職からの排除、貿易・教育機会の制限などに不満を蓄積し、18~19世紀の独立運動の中心的担い手となりました。言い換えれば、クリオーリョは「被支配者」でも「被差別者」でもない中核エリートでありながら、帝国の序列の中で二等視されてきた層で、彼らの葛藤がラテンアメリカの国民国家誕生の原動力になったのです。他方、地域や時代によって語の射程は広く、動植物・食品・言語(クレオール語)などの領域でも派生的に用いられます。ここでは、語の定義と用法、植民地社会における位置づけと力の源泉、近世末の改革と独立への展開、そして独立後の変容という観点から、クリオーリョの全体像をわかりやすく整理します。
語の定義と用法の幅:誰をクリオーリョと呼ぶのか
クリオーリョは、本来は「現地生まれ」を意味するスペイン語の形容詞で、帝国史の文脈ではとくにアメリカ大陸(およびフィリピンなど一部のアジア領)で生まれたスペイン人子孫を指します。対義語のペニンスラールは、イベリア半島(スペイン本土)出身者です。血統的にはヨーロッパ系であっても、出生地がアメリカであることが身分上の差を生みました。ブラジルの文脈ではポルトガル語の「クリオーロ(crioulo)」が別の意味に用いられ、アフリカ系奴隷やその子孫を指す場合があるため、スペイン語圏の用法と混同しない注意が必要です。
植民地期のラテンアメリカでは、社会を細分する「カスタ(身分・混血)呼称」が広く流通しました。白人系(スペイン人=エスパニョール)の内部で、ペニンスラールとクリオーリョが区別され、その下にメスティーソ(スペイン系×先住民)、ムラート(スペイン系×アフリカ系)など多数のカテゴリーが続きます。これらは統計や課税、職務任用、婚姻・洗礼・法廷での扱いに影響し、社会的な移動の可否や教育機会を左右しました。クリオーリョはこのヒエラルキーの上層に位置しますが、帝国中枢の意思決定からは一段外されるというねじれを抱えました。
語の派生用法として、動植物や食品で「その土地で育成・改良された在来系統」をcriolloと呼ぶことがあります(例:cacao criollo、caballo criollo)。言語学では「クレオール言語(lenguas criollas)」という別概念がありますが、これは植民地・交易の場で複数言語が混交して成立した自然言語を指し、社会階層としてのクリオーリョと直接同一ではありません。ただ、いずれも「現地で形成・定着したもの」というニュアンスを共有しています。
植民地社会の秩序とクリオーリョ:上層であり、二等でもある
16世紀以降、スペイン帝国はアメリカの征服と統治を進め、王室はインディアス枢議会や副王領・アウディエンシア(高等法院)・コレヒドール(地方行政官)などの制度を整備しました。高位の総督・司教・高級官僚・主要港の税関長や法曹の多くは、本国から任命したペニンスラールで占められました。王室は任命権と人事回転を通じて、現地で利害が根を張りやすいクリオーリョに権限が集中することを避けようとしたのです。
それでもクリオーリョは、地方カバルド(市参事会)や民兵(ミリシア)、鉱山・牧畜・農園経営、輸送と内部交易、ギルド、大学(サン・マルコス、メキシコ大学など)やコレヒオ(学院)に強い影響力を持ちました。聖職者や修道会(とくにフランシスコ会・ドミニコ会・イエズス会)に多くのクリオーリョが入り、教会財産の管理・教育・慈善に参与します。彼らの富の源は、銀山(ポトシ、サカテカス、グアナフアト)の出資や農牧地のエンコメンダ/アシエンダ所有、国内市場をつなぐ荷役・輸送網の掌握でした。印刷術・書籍流通・弁論術の訓練を受けた知識人層も形成され、自然史・地理・考古・神学・法学における「新世界の学知」の担い手となります。
しかし、帝国の公式序列では、彼らは常にペニンスラールの後塵を拝しました。高位官職の任命制限、王室独占貿易(カディス港を介するフリオ制度)による商機の制約、王室検閲と出版統制、大学の学位・教授職への不透明なアクセスなどが、クリオーリョの不満を蓄積させます。名誉と栄典の供与においても、騎士団叙任や称号は半島出身者に偏り、クリオーリョは地方名士に甘んじざるをえませんでした。
ブルボン改革とアイデンティティの変容:独立への道筋
18世紀半ば、スペイン王家がハプスブルクからブルボンに交代すると、帝国運営は財政・軍事効率を重視する方向へ舵を切ります。これは一般に「ブルボン改革」と呼ばれ、(1)王室独占貿易の再編(取引港の拡大=フリー・トレード化の限定的実施)、(2)税制と王室収入の強化、(3)官僚制の再配置(インテンデンテ制の導入)、(4)植民地民兵の増強、(5)イエズス会追放(1767年)などが柱でした。この一連の改革は、帝国全体の収入を上げる効果を持つ一方、クリオーリョの既得権や教会ネットワークを揺るがし、半島出身者の再流入を促す結果となります。
イエズス会追放は象徴的です。多くのクリオーリョ知識人が属していた教育ネットワークが突然解体され、地方の学校やミッションは混乱しました。追放された学者・聖職者はヨーロッパで出版活動を行い、「新世界の自然・歴史・先住民文化」を擁護する著作を残します。これが、ヨーロッパ中心の偏見(新世界劣等論)への反論となり、クリオーリョの「土地への誇り(patria chica)」意識を醸成しました。
さらに、啓蒙思想と大西洋革命の波(アメリカ独立、フランス革命、ハイチ革命)も、クリオーリョの政治語彙を変えました。自然権、国民主権、代表政治といった概念が、王権・コルプス(社団)・身分秩序に依拠する旧い政治言語と競合します。1808年のスペイン本国ナポレオン占領と王位空位は、帝国の正統性に亀裂を入れ、クリオーリョは地方フンタ(臨時政庁)の権限を拡大し、カディス憲法(1812)の立憲主義を梃子に自治を主張します。結果として、1810年前後にベネズエラ、リオ・デ・ラ・プラタ、メキシコ、チリ、ニュー・グラナダ各地で蜂起が相次ぎ、サン・マルティン、ボリーバル、イダルゴ、モレーロス、オイギンスらの運動へと展開しました。
ここで重要なのは、独立運動が「白人系上層の利害」だけでなく、先住民共同体、混血層、黒人奴隷・自由黒人、市場都市の商人、地方カウディーリョなど多様な主体の交錯として進んだ点です。クリオーリョはしばしば軍資金・指揮・外交を担いましたが、地域ごとに階級・人種の連合は異なり、革命の路線も分岐しました。ハイチ革命の影響の強いカリブ海岸や太平洋岸では奴隷制廃止が前面化し、内陸高地では自治と関税権をめぐる闘争が核心になりました。つまり「クリオーリョの革命」は単一ではなく、複数の地域革命の総体だと理解するのが妥当です。
独立後の変容:国家の中心へ—ただし内部矛盾も
独立達成後、多くの新国家でクリオーリョは政治・軍・司法・教会・経済の中枢を担いました。地方名士から国会議員へ、民兵指揮官から将軍へ、商人から銀行家・関税庁長官へ—人材の連続性は強く、行政の専門性と国民国家の制度をつなぐ橋渡し役を果たしました。中央集権か連邦制か、自由貿易か保護か、教会財産の扱い、軍の統制、先住民共同体の土地制度など、主要争点の多くでクリオーリョ内部の利害が割れ、政党や派閥が生まれます。
一方で、独立が直ちに社会的平等を実現したわけではありません。多くの地域で先住民への課税や労役、アフリカ系住民に対する差別は残存し、混血層の上昇機会も限定的でした。クリオーリョの一部は、旧来の大土地所有(アシエンダ)と山岳・平野の交易利権を維持し、地方権力者(カウディーリョ)と結びついて排他的な秩序を再生産しました。他方で、19世紀後半には鉄道・輸出作物経済・外国投資の拡大とともに、新移民(イタリア・ドイツ・中欧)や都市中間層が伸張し、クリオーリョ内部でも世代交代と価値の更新が進みます。
教育とナショナル・アイデンティティの領域では、クリオーリョ系知識人が史学・考古・民俗学を通じて「国史」を記述し、先住民の過去(アステカ、インカ、マヤなど)を国民の遺産として再編しました。これは「白人系上層の物語化」という限界を含みつつも、公教育・博物館・記念日・国旗・国歌の整備によって国民国家の統合に実効を持ちました。19世紀末には、サルモネラや黄熱対策、衛生政策、街路と上下水道の整備などの都市近代化を推進する技官・医師・法律家の多くも、クリオーリョから輩出されました。
補足:フィリピンのクリオーリョ、言語・食文化での用法
スペイン帝国のアジア拠点であったフィリピンでも、クリオーリョという語は使われました。ここでは本国出身のペニンスラール、マニラ生まれのスペイン系(クリオーリョ)、漢人系(サンゴレー、のちの華人・メスティーソ)、先住民(インディオ)などが区分され、ガレオン貿易や教会・土地所有をめぐる利害が交錯しました。19世紀末のフィリピン革命を担ったイルストラード(教育ある人々)の中核には、クリオーリョの子孫やメスティーソ層が含まれ、スペイン語・タガログ語・英語を横断する文章文化が形成されました。
現代のスペイン語圏では、criolloは食品・動植物・音楽でも使われ、地域らしさ・在来性を表します。ペルーの「チョクロ・クリオージョ(在来とうもろこし)」、アルゼンチンの音楽「ミロンガ・クリオージャ」、ベネズエラの「クリオージョ料理」などがその例です。歴史用語としてのクリオーリョと区別しつつ、土地への帰属・誇りのニュアンスを読み取ると理解が深まります。
まとめ:帝国の中の「現地生まれ」—葛藤が国家を産んだ
クリオーリョとは、帝国の中心に近く周縁にも属するという二重の位置を与えられた人びとでした。彼らは教育・財産・教会・民兵・印刷文化を通じて地域社会の核を構築しつつ、帝国の任命制と序列に阻まれて政治的自律を求めました。18世紀の改革と世界的な思想潮流、本国の動揺が重なったとき、その葛藤は独立というかたちで爆発します。独立後、彼らは国家建設の中心に立ちながら、内部の不平等や人種・身分秩序の遺制と向き合う課題を残しました。用語は時に食品や言語にも広がりますが、核にあるのは「現地で生まれ、そこに根を張った自覚」です。この自覚が、ラテンアメリカと旧スペイン圏の近代史を読み解く鍵であることに変わりはありません。

