戦いの背景と国際情勢
アウステルリッツの戦い(Austerlitz, 1805年12月2日)は、ナポレオン戦争の中で最も有名かつ決定的な戦闘の一つであり、「三帝会戦(Battle of the Three Emperors)」とも呼ばれます。この名称は、戦場にフランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世の三人が臨んだことに由来します。
当時、ヨーロッパはナポレオンの拡張政策に危機感を抱き、イギリス、オーストリア、ロシアなどが第三次対仏大同盟を結成しました。ナポレオンは1804年に皇帝に即位し、翌年にはイギリス本土上陸を計画していましたが、トラファルガーの海戦でネルソン率いるイギリス海軍に敗北したため、方針を転換して大陸戦線に注力することになりました。
その結果、1805年12月、現在のチェコ共和国にあたるモラヴィア地方のアウステルリッツ近郊で、フランス軍とオーストリア・ロシアの連合軍が激突することとなりました。
軍の布陣と戦略
戦いに先立ち、フランス軍は約7万人、連合軍は約9万人の兵力を動員していました。数では劣るナポレオン軍でしたが、戦略と士気の面で大きな優位を持っていました。ナポレオンは周到に戦場を選び、アウステルリッツ南方のプラッツェン高地をめぐる布陣を行いました。
ナポレオンの巧妙な戦術の一つが「弱さを装う」ことでした。彼は意図的に右翼を薄く配置し、あたかもフランス軍が不利な状況にあるように見せかけました。連合軍がこれを好機と見てフランス軍右翼を攻撃すれば、その隙に中央を突くというのがナポレオンの狙いでした。この戦術は「アウステルリッツの太陽」のもとで見事に発揮されることになります。
戦闘の経過
1805年12月2日、早朝に戦闘が開始されました。連合軍は予想通りフランス右翼を攻撃しましたが、その瞬間、ナポレオンは隠していた中央軍を動員し、プラッツェン高地を一気に制圧しました。これにより、連合軍の戦線は分断され、指揮系統は混乱に陥りました。
さらに、フランス軍は連合軍の退路を断ち、多数の兵士を捕虜としました。特にサツァーン湖(実際には浅い池)に追い込まれた連合軍兵士は、砲撃によって氷を砕かれ、多数が溺死する惨劇が起こったと伝えられています。この一連の戦術的成功により、連合軍は壊滅的打撃を受けました。
戦果と講和
アウステルリッツの戦いの結果、連合軍は約3万の損害を被り、フランス軍は約9千人の損害で済みました。この圧倒的勝利はナポレオンの軍事的天才を示す典型例として後世に語り継がれることになります。
敗北したオーストリアは講和を余儀なくされ、1805年12月26日、フランスとプレスブルク条約を締結しました。この条約により、オーストリアはイタリアやドイツにおける影響力を失い、フランスは大陸での覇権を確立しました。ロシアは本国へ撤退しましたが、後に再び対仏戦争に参戦することとなります。
戦術的意義とナポレオンの評価
アウステルリッツの戦いは「ナポレオンの最高傑作」と称されることが多く、戦史上でも最も完成度の高い戦術的勝利の一つとされています。数的不利を覆し、戦場を支配することで敵を分断・包囲する手法は、後世の軍事理論に大きな影響を与えました。
この戦いの直後、ナポレオンは「今日の戦いはフランス軍の歴史に永遠に残るだろう」と語り、自らの軍事的名声を確立しました。フランス国内でも大きな祝賀が行われ、「アウステルリッツの太陽」という表現はナポレオンの栄光を象徴する言葉となりました。
歴史的意義とその後
アウステルリッツの勝利は、ナポレオンがヨーロッパ大陸において絶対的覇権を握る契機となりました。第三次対仏大同盟は崩壊し、神聖ローマ帝国も1806年に解体へと向かいます。この戦いは単なる一戦を超えて、ヨーロッパの政治秩序を大きく変える転換点となりました。
しかし、ナポレオンの覇権は長続きせず、1812年のロシア遠征の失敗やライプツィヒの戦いでの敗北によって崩壊していきます。それでもなお、アウステルリッツの戦いはナポレオンの軍事的天才を示す象徴的勝利として、世界史において輝きを放ち続けています。

