江華島事件 – 世界史用語集

江華島事件(こうかとうじけん、1875年〈明治8年〉)は、日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が朝鮮半島西岸の江華島周辺で沿岸測量・航行を行った際、朝鮮側砲台からの砲撃とそれに対する日本側の反撃・上陸戦闘によって生じた軍事衝突を指します。本件は単発の偶発戦ではなく、明治政府が朝鮮との国交開拓を迫るための「示威航海」と、朝鮮側の「洋擾」拒否の方針が正面からぶつかった結果として理解されます。事件は翌1876年の江華条約(日朝修好条規)締結へ直結し、朝鮮の開港・治外法権承認・最恵国待遇付与といった近代条約体制への組み込みを早めました。他方で、清朝の宗主権観念と日本の国際法観の衝突、朝鮮国内の政争(閔氏政権と衛正斥邪の対立)を刺激し、以後の東アジア国際秩序に長い影を落としました。本稿では、事件の背景、経過と軍事的実相、外交・法的評価、波及効果と歴史的意義を、わかりやすく整理します。

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背景:攘夷と開国の相克、示威航海の政治学

19世紀半ばの朝鮮王国(李氏朝鮮)は、カトリック弾圧やフランス遠征(丙寅洋擾・1866)・米国艦隊との衝突(辛未洋擾・1871)を経て、海防強化と「衛正斥邪」を標榜していました。大院君期には沿岸砲台の整備、軍器の国産化、海峡監視が強化され、江華島周辺にも複数の砲台(鎭)・哨所が配備されていました。一方、日本は1868年の明治維新後、条約体制下での不平等の是正と、近隣における通商・安全保障の枠組み確立を急ぎました。対朝鮮外交では、国書(天皇号の表記や国際法用語)をめぐる儀礼問題で交渉が停滞し、「国法(万国公法)に基づく対等通交」を掲げる日本と、「冊封秩序に基づく礼制」を重んじる朝鮮との間で、認識のズレが深まりました。

こうした膠着を打開するため、日本側は西欧列強がかつて日本に対して用いた〈砲艦外交〉に近い方法を選びます。すなわち、測量と称する沿岸進入、警告射・臨検を誘発しうる接近戦術、即応的反撃による軍事的既成事実化という三段の運用です。1875年秋、海軍省は小型・速力に優れた軍艦雲揚に対し、朝鮮西岸の海図整備と「不測の事態に対する厳正な対処」を命じ、江華島方面への航行が実施されました。

事件の経過:砲撃、反撃、上陸、要塞制圧

雲揚は1875年9月下旬、仁川沖から江華海峡方面へ進出し、潮流・浅瀬・航路標識の状況を偵察しました。沿岸警戒にあたっていた朝鮮側の鎭守は、異国軍艦の接近を〈洋擾〉の兆候と判断し、退去警告ののち砲撃を開始したとされます。最初の砲火は江華島北側の要地・草芝鎭(草芝鎭=草芝津、一般に「草芝鎭砲台」)方面からであったと伝わり、これに対し雲揚は即座に反砲・艦砲射撃を実施、射撃点を沈黙させました。

続いて日本側は小隊規模の陸戦隊を上陸させ、砲台・倉庫・火薬庫の破壊と大砲の釘付け(スパイキング)を行いました。周辺の徳津鎭などにも戦闘が拡大し、朝鮮側は兵や民兵が応戦しましたが、近代艦砲と訓練を受けた陸戦隊の前に後退を余儀なくされました。戦闘は数時間から一日にわたって散発的に続き、日本側の人的損害は軽微、朝鮮側には死傷者と捕虜が多数生じたとされます。雲揚は夕刻までに戦闘を打ち切り、周辺海域の監視と情報収集を継続しました。

この一連の行動は、単なる応戦を超えて、(1)砲台制圧能力の誇示、(2)海図・潮流情報の獲得、(3)朝鮮沿岸防備の把握、(4)事件化による外交カード化、という戦略目的に沿って遂行されました。すでに日本国内では、朝鮮に対し開港と条約締結を迫る強硬論が高まっており、政府は「被害者」としての立場から日本国民世論の支持を得つつ交渉を主導する準備を整えます。

外交・法的評価:挑発か自衛か、国際法と冊封の断層

江華島事件の評価は、史料の読みと法的前提によって大きく分かれます。日本側の公式叙述は、雲揚の「公海上の正当な航行・測量」に対し、朝鮮側が無警告の砲撃を加えたため、自己保存のために反撃した、という自衛論を基軸としました。しかし、朝鮮にとって江華島周辺は王都漢城(ソウル)への外敵進入路を押さえる最重要水域であり、近接・停船・測量の挙動自体が敵対行為の前段と受け止められやすい状況でした。事実、朝鮮は直前の辛未洋擾で米艦に対し同様の対応を取っており、海防方針は一貫していました。

国際法(当時の万国公法)の観点からは、(1)狭水道・内水における無通告測量の可否、(2)交戦に至る「先制性」と比例性、(3)報復・懲罰行動の正当化、が論点となります。明治政府は、江華海峡が公海・内水のどちらに相当するか曖昧なまま、測量・接近を強行しており、後知恵的には「挑発的示威」と評価されます。他方、朝鮮側も国際法型の通告・臨検・拿捕手続きに則った対応ではなく、直ちに砲撃に踏み切っており、現代基準での危機管理としては拙速でした。結局のところ、双方の法文化が異なるまま接した〈すれ違い〉を、日本側の軍事力と交渉主導が政治的に収斂させた、というのが実相に近いと言えます。

清朝の立場も絡みます。冊封体系の下で朝鮮は伝統的に清の宗属国でしたが、日本は事件後の条約交渉で「朝鮮は自主の邦」と明記させ、清の宗主権を否認する国際法的枠を作りました。これは、江華島事件を「対等通交の突破口」に利用する明確な政治意図であり、のちの天津条約(1885)や下関条約(1895)に続く法理の前哨となりました。

波及と意義:江華条約へ、開港体制と東アジア秩序の転換

事件の直後、日本政府は黒田清隆(正使)・井上馨(副使)を派遣し、1876年2月に江華条約を締結しました。条約は朝鮮を「自主の邦」と規定し、釜山・元山・仁川の開港、在留日本人の領事裁判権、沿岸航行・測量の自由、最恵国待遇など、当時の不平等条約の典型的条項を含みました。これにより、朝鮮は条約港を通じて国際経済へ組み込まれ、関税自主権・司法主権に制約を受ける一方、通信・税関・港湾の近代制度が導入されます。日本は、かつて自国が被った条項を周辺に適用する側へと転じ、地域秩序の再設計に踏み込みました。

国内的には、朝鮮社会で開化派と事大党・衛正斥邪派の対立が激化し、外圧を前提とする改革(軍制・財政・教育)の是非をめぐる政治闘争が続きます。日本国内では、新聞や政論誌が「朝鮮開国」の正当性を主張し、海軍拡張・通商振興の世論が強まりました。事件はまた、海軍にとって水路測量・上陸作戦・艦砲射撃の実地訓練となり、以後の外征作戦(台湾出兵・清国北洋水師との対峙)に教訓を残しました。

国際的には、江華島事件は東アジアにおける「冊封体制から条約体制へ」の転換点の一つでした。列強は日本の成功を参照し、米独英仏露が相次いで朝鮮と条約を結び、最恵国待遇によって権益が相互増殖的に拡張します。清は宗主権の実効を保持すべく介入を強め、日本と清の二重管理状況(天津条約)を経て、最終的には日清戦争で「朝鮮の完全独立」が国際法上確認されました。しかしそれは、保護と干渉の口実ともなり、日露戦争・韓国併合へと連なっていきます。江華島事件は、その最初の「現場の火花」でした。

総じて、江華島事件は、偶発的軍事衝突の外形を取りながら、実は外交・軍事・法の三領域を貫く政策選択の結果でした。近代東アジアの入口に立つこの事件を学ぶことは、相互に異なる法文化の接触、示威行動のリスク管理、条約体制の功罪を立体的に理解する助けになります。短期の戦術的成功が、長期の地域秩序にどう影響するのか——江華島の砲声は、その問いを今日に投げかけています。