コミンフォルムのユーゴスラヴィア除名(1948年)は、第二次世界大戦直後の欧州で、ソ連を中心とする社会主義陣営と各国共産党の関係が、〈統一〉から〈統制〉へと急速に傾く転機を象徴する出来事です。パルチザン闘争で政権を樹立したティトー(ヨシップ・ブロズ)率いるユーゴスラヴィア共産党(KPJ)は、戦後復興と社会主義化を強力に進めましたが、対外・国内の両面で独自路線を押し出し、ソ連・東欧諸党との摩擦を深めました。1948年6月、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)は「ユーゴスラヴィア共産党の状況」決議でKPJ指導部を民族主義・反ソ偏向・党内民主主義の欠如として断罪し、除名を宣言します。これにより東側ブロックは事実上一枚岩ではないことが露わになり、ユーゴは経済封鎖と国際的孤立に直面しつつも自主管理社会主義の道を模索し、のちの非同盟運動へつながる独自の国際位置を獲得しました。本稿では、(1)戦後ユーゴとコミンフォルムの力学、(2)除名に至る対立の焦点、(3)1948年決議と宣伝戦、(4)余波—東欧の粛清とユーゴ国内の「インフォルビロ期」、(5)雪解けと長期的影響—を、分かりやすく整理して解説します。
戦後ユーゴとコミンフォルム――パルチザン政権の自負と国際共産主義の再編
ユーゴスラヴィアは、枢軸の占領と内戦を通じて、ティトー率いるパルチザンが広範な民族・地域を組織し、実効支配を獲得した稀有なケースでした。1945年の戦後秩序形成において、KPJは王制を廃し、連邦共和国の枠組みを整え、土地改革・国有化・計画経済の導入、女性参政権の実現、教育・保健の拡充など、急進的な社会改革を進めます。パルチザンの武勲と自前の解放の経験は、対外的にも〈対等〉を求める政治文化を育てました。
一方、国際共産主義の枠組みは、1943年のコミンテルン解散を経て、1947年にコミンフォルムとして再編されます。名目は「情報交換」でしたが、実際にはソ連のイデオロギー的・政治的主導の下、マーシャル・プラン反対の大キャンペーン、東欧の「人民民主主義」体制形成、西欧共産党の路線調整などを担う場でした。ユーゴは創設9党の一つとして中心的地位を占め、事務局も当初ベオグラードに置かれました。
しかし、〈革命の自立性〉に誇りを持つユーゴの政治文化と、〈陣営の足並み〉を優先するコミンフォルムの論理は、早くから緊張をはらんでいました。鍵は、戦後バルカンの安全保障、経済協調、党組織運営の三点でした。
除名に至る対立の焦点――ギリシャ内戦、バルカン連邦構想、経済・軍事協力をめぐって
第一の焦点は、ギリシャ内戦(1946–49)への対応でした。ユーゴは国境を接し、ギリシャ共産党(KKE)のパルチザン(DSE)へ補給・避難地を提供するなど深く関与していました。ソ連は米英との衝突回避と〈段階的拡大〉の現実主義から、ギリシャへの直接介入に抑制的で、ユーゴの積極姿勢はモスクワの外交設計と齟齬を来しました。援助の範囲・統制・停止をめぐる見解の相違は、不信の連鎖を生みます。
第二は、バルカン連邦構想と近隣諸国との関係です。KPJはブルガリア(ディミトロフ政権)やアルバニアと連邦的統合を模索し、関税・通貨・軍事協力の深い一体化を議論しました。とりわけアルバニアに対してユーゴは強い影響力を行使し、経済・軍事の保護者としてふるまいました。ソ連は、統合そのものを全面否定したわけではありませんが、主導権をユーゴが握る形には警戒を強め、〈モスクワを経ない地域ブロック〉の芽を摘もうとしました。
第三は、経済・軍事の協力体制です。ソ連は東欧に広域の分業と決済の仕組みを敷こうとしましたが、ユーゴは自国内資源の開発と重工業化を急ぎ、ソ連専門家の指導に全面的に従う姿勢を取りませんでした。軍事面でも、パルチザン出自の士官団が自律性を保持し、参謀運営や国境管理での独断が摩擦を招きました。スパイ疑惑や秘密警察(UDBA)の活動をめぐる相互不信も増幅要因でした。
第四に、党組織とイデオロギーの問題があります。KPJはパルチザン闘争の経験から〈実戦的・現場主義〉の色合いが強く、中央集権的・官僚制的な党運営へ急旋回することに抵抗がありました。討論の自由や幹部のカリスマ性をめぐる文化差は、モスクワから見ると「党内民主主義の欠如」や「個人崇拝」のレッテルにつながりました。実際には、双方の視角のズレが対話を困難にしていきます。
1948年の決議と宣伝戦――「民族主義的偏向」批判と除名の政治的意味
こうした摩擦が累積する中、1948年3月以降、コミンフォルム内でユーゴ批判が本格化します。KPJ書記長ラソ・ヘブラングらがモスクワとの溝を埋めようとする一方、ティトーと最側近のカルデリ、ランコヴィチらは譲歩に慎重でした。6月、ブカレスト近郊でのコミンフォルム会議は、ユーゴ指導部に「自己批判」を要求しましたが、KPJは拒否し、コミンフォルムは「ユーゴスラヴィア共産党の状況に関する決議」を採択、KPJを除名します。
決議は、KPJ指導部を「民族主義的偏向」「反ソヴィエト主義」「人民民主主義諸国との関係破壊」「党内民主主義の抑圧」と断じ、一般党員・下部組織に対して指導部からの離脱・是正を呼びかけました。これは、〈党の中枢〉と〈草の根〉の分断を煽り、内部からの政変を促す心理戦の側面を持っていました。並行して、ソ連と東欧諸国は経済協定の破棄・貿易停止・専門家の引き上げなど、実質的な封鎖措置を講じます。ユーゴ国内では食糧・燃料・資材の不足が深刻化し、外交・経済の孤立が鮮明になります。
宣伝戦は熾烈を極め、各国の新聞・理論誌・ラジオが「ティトー主義」を糾弾し、国際共産主義運動における「分派・裏切り」と描写しました。これに対しユーゴは、〈平等と主権〉を掲げ、反ファシズムの戦時連帯とパルチザンの正統性を訴えることで対抗します。外交面では、西側からの経済支援(穀物・融資・技術)を取り付け、孤立の打開を図りました。このとき得られた「対外バランス」の技法は、のちの非同盟外交の土台となります。
余波(1)—東欧の粛清と政治裁判、ブロック規律の強化
ユーゴ除名は、東欧各国に自己点検と粛清の波を引き起こしました。各党は「ティトー主義の浸透」を恐れ、幹部の忠誠を確認する名目で大規模な政治裁判を展開します。ハンガリーのラーイック裁判(1949)、ブルガリアのトライチョ・コストフ裁判(1949)、チェコスロヴァキアのスラーンスキー裁判(1952)などは、対外陰謀と民族主義の烙印を押して多くの指導者を追放・処刑した象徴的事件でした。コミンフォルムは直接の司法権を持たないものの、その声明と路線が「ブロックの結束」の名で国内政治へ介入する理論的根拠と化しました。
経済面でも、ユーゴを外した協調体制(のちのコメコンの整備)が進み、分業・決済・価格体系の画一化が強まりました。軍事面では、NATO創設(1949)への対抗として、ワルシャワ条約機構(1955)へと連なる安全保障の枠組みが形成されます。ユーゴ問題は、東側が〈外への対抗〉と〈内なる統制〉を同時に強化する方向へ作用しました。
余波(2)—ユーゴ国内の「インフォルビロ期」と自主管理の試行
ユーゴ国内では、1948年から1953年頃にかけて「インフォルビロ(情報局)期」と呼ばれる緊張が続きます。KPJは党内の「コミンフォルム主義者」—モスクワへの追随を主張し指導部を批判したグループ—を摘発し、多数が逮捕・収容されました。アドリア海の孤島ゴリ・オトク(裸の島)は、この時期の政治犯収容所として悪名を残します。他方で、独自路線の正当化には、制度的な成果が必要でした。
そこでユーゴは、企業レベルで労働者評議会が経営決定に参加する〈自主管理社会主義〉を導入します。国家官僚の指令ではなく、現場の合議と市場メカニズムを組み合わせ、連邦—共和国—自治体—企業の多層的調整で経済を運営する試みです。理論的にはエドヴァルト・カルデリらが設計を主導し、対外的な自立資源として観光・軽工業・西側との貿易も強化されました。これらの改革は、単にソ連への対抗というだけでなく、多民族連邦の統合と地方分権のバランスをとる現実的工夫でもありました。
雪解けと長期的影響——1955年ベオグラード宣言、非同盟運動、東側の多様化
スターリンの死(1953)後、ソ連新指導部はユーゴとの関係修復に踏み出し、1955年のベオグラード宣言で相互尊重・内政不干渉・多様な道の承認が確認されます。1956年の第20回党大会とコミンフォルム解散は、ユーゴ除名の〈象徴の後始末〉を制度面でも促進しました。完全な信頼回復には至らないものの、ユーゴは東西双方と取引できる独自の立ち位置を固めます。
国際的には、ユーゴはインドのネルー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノらと連携し、1961年のベオグラード会議に結実する〈非同盟運動〉の推進役となりました。除名と孤立の経験は、〈どのブロックにも従属しない〉という外交哲学の実践を後押しします。ユーゴモデルは、アルバニアのように後年中国寄りへ大きく振れるケースを含め、東側内部の多様化を促す参照点となりました。
長期的に見れば、1948年の除名は、国際共産主義運動の「単一中心」論に致命的なひびを入れた出来事でした。以後、中ソ対立の表面化(1950年代末~60年代)を経て、各国の路線は多中心化し、ソ連・中国・ユーゴ・ルーマニアなどが異なる発信源となります。西欧共産党の〈国内自立〉志向(のちのユーロコミュニズム)も、早い段階で〈モスクワの指令〉に限界があることを学んだユーゴ事件の教訓に重なります。
まとめ——「統一の綻び」が生んだ試行錯誤と創造
コミンフォルムのユーゴスラヴィア除名は、冷戦草創期の陣営政治における大きな綻びでした。ブロックの結束は揺らぎ、東欧では粛清が強まり、ユーゴでは抑圧と改革が併走しました。しかし、その綻びは、同時に〈新しい可能性〉の入り口でもありました。ユーゴは自主管理や非同盟外交を実験し、東側は多様性と結束の難しいバランスを学びました。出来事の核心は、統一と自立、指導と対等、安全保障と主権の相克にあります。歴史をふり返ると、極端な一枚岩の幻想ではなく、衝突と交渉を通じて多様性を包含する秩序へとゆっくり移行する過程こそが、1948年の除名が開いた長いテーマだったと理解できるのです。ユーゴ事件を学ぶことは、国際関係と国内政治、中央指導と地方分権のあいだで揺れる現代の課題を考える手掛かりにもなります。

