コミンフォルム解散は、1956年4月に共産党・労働者党情報局(Cominform)が公式に活動を終結した出来事を指します。第二次世界大戦直後、冷戦の幕開けとともに欧州の主要共産党間で情報共有と路線調整を担ってきたこの機関は、スターリン死去(1953年)とソ連共産党第20回大会(1956年2月)の「個人崇拝批判」を経て、東側陣営内部の多様化と緊張が露わになるなかでその役割を終えました。名目上は各党の自立と二国間関係の重視に伴う〈政党間の調整機能の再編〉でしたが、実質的には、ユーゴスラヴィア除名(1948)に象徴されるブロック規律の強硬さからの離脱、平和運動や宣伝の中央集権的運営からの転換、そして〈党の国際組織〉より〈国家間の枠組み〉(ワルシャワ条約機構・コメコン)を軸にブロックを維持するソ連の方針変更を示すものでした。本稿では、設立から解散に至る道筋、1956年時点の政治・思想状況、解散の狙いと影響、各地域の反応、そしてその後の国際共産主義運動の構造変化を、平易に整理して解説します。
背景――設立の性格とスターリン死後の地殻変動
コミンフォルムは1947年、ポーランドでの会合を経て発足し、ソ連・フランス・イタリア・東欧諸国・ユーゴスラヴィアの計9党が名を連ねました。名目は「情報交換・経験共有」でしたが、実際にはマーシャル・プランへの組織的反対、東欧における「人民民主主義」体制の構築、西欧共産党の議会・街頭・文化を横断する運動の統一、平和運動の国際連携など、路線の統一と宣伝の司令塔として機能しました。1948年のユーゴ除名を境に、事務局はベオグラードからブカレストへ移転し、東欧内部の規律強化と政治裁判の潮が強まります。機関紙『永続する平和、人民民主主義のために!』は各国語で発行され、声明・論文を通じて各党の方針に影響を与えました。
1953年のスターリン死去は、東側世界に〈移行期〉をもたらしました。権力中枢の再編、経済の再調整、対外政策の柔軟化模索が進む一方で、ユーゴとの関係改善(1955年ベオグラード宣言)や「平和共存」路線の試行が、かつての強硬なブロック統制の妥当性を揺るがしました。1956年2月、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフが行った「秘密報告」は、個人崇拝と粛清の誤りを公然と批判し、東欧諸国と西欧共産党の双方に衝撃を与えます。これにより、各党は自国社会の条件に即した路線修正を求められ、中央集権的な「情報局」の存在意義が薄れていきました。
解散の決定――1956年4月、〈政党間〉から〈国家間〉へ
1956年4月、ブカレストでコミンフォルムの解散が公式に決定されます。公的説明では、戦後の復興段階を経て各国共産党・労働者党が成熟し、相互の経験交流は恒常的な国際機関ではなく二国間の党対党交流や学術・文化の枠組みで十分に果たせる、という趣旨が掲げられました。実際の狙いは、いくつかの要素の結節点にありました。第一に、〈ブロック維持の装置〉の中心を、政党国際より政府間枠組みへ移す再編です。ソ連は1955年に西側のNATOに対抗するワルシャワ条約機構を発足させ、経済面ではコメコン(経済相互援助会議)を通じて計画協調を進めていました。軍事・経済を政府間で押さえれば、政党間の上位機関は必須ではないという判断が働きました。
第二に、〈ユーゴ問題の清算〉です。1955年の和解以降、ソ連はティトー体制を一定程度承認し、東側内部の多様性を容認する方向へ舵を切りました。コミンフォルムはユーゴ除名の象徴であり続けており、これを畳むことは和解を制度面で裏づける意味を持ちました。第三に、〈脱スターリン化〉のアピールです。中央が各党の上に立ち一律の規律を課す仕組みからの距離取りは、国内外に向けた刷新のシグナルになりました。
第四に、〈西欧共産党の自立性確保〉です。フランス・イタリアの共産党は、議会民主主義の枠内で長期的に政権獲得をめざす戦略へ比重を移しつつあり、国内社会に根ざした政策・文化活動の柔軟性を必要としていました。情報局の存在は、しばしば「モスクワの延長」との批判を招き、政党の社会的広がりを阻害しました。解散は、こうした党の自立性を支える外形を整える効果がありました。
思想・運動への影響――平和運動、文化政策、党組織運営の再編
コミンフォルムの解散は、〈平和擁護運動〉や文化政策にも波及しました。ストックホルム・アピール(1950)以後の反核・反再軍備の世界的ネットワークは、各国の多様な主体—政党、市民団体、知識人、宗教者—が支える形へと重心を移し、政党国際の指令性は後退しました。文化・学術領域では、社会主義リアリズムや反形式主義を一律に押し出す論調が緩み、各国の文化史的文脈に合った政策へ分散します。とはいえ、東欧の多くの国では国家文化機関と党の関係は密接なままで、検閲やイデオロギー統制の枠組みが即座に消えたわけではありません。
党組織運営の面では、国際理論誌に依存していた教育・宣伝が、各党の理論機関誌・出版社へと再配分され、翻訳・研究の自前化が進みました。幹部交流や青年・女性・労組の国際会議は、党対党・組織対組織の二国間・多国間で継続され、〈ネットワーク型〉の関係へと変容していきます。これは、のちのユーロコミュニズムや第三世界の多様な左翼運動と柔軟に連携しうる基盤をも形作りました。
東欧の政治と解散――自律化の芽と抑圧の波
東欧では、解散は直ちに自由化をもたらしたわけではありません。1956年は、ポーランドのポズナン暴動(6月)とゴムウカ復帰、ハンガリーの動乱(10〜11月)という激動の年でした。第20回大会の衝撃が、各国で体制の改革要求と民族的感情を噴出させ、〈自律化の芽〉が伸び始めた一方、ソ連はワルシャワ条約機構を用いてハンガリー蜂起を軍事的に鎮圧し、ブロックの一体性を維持します。つまり、コミンフォルム解散は〈政治的象徴〉として自律と多様性を示しながら、現実には政府間の安全保障装置が結束を担保するという二重構造が露わになりました。
ユーゴとの関係は改善され、相互不可侵・内政不干渉の原則が再確認されます。これに触発され、のちにルーマニアが独自外交を強めるなど、東側内部の〈慎重な多様化〉が進みました。他方で、アルバニアのように硬直化を選ぶ国もあり、解散は多様性の方向性を一律に決めるものではありませんでした。
西欧共産党と日本への波及――自立化、路線再検討、長期戦略への転換
フランス・イタリア共産党は、情報局の解散を受けて、国内社会の多元的アクターと連携する〈国民的戦略〉を強化します。自治体行政や労組、文化運動を重視し、議会主義の枠内での影響力拡大をはかりました。これらは、1970年代のユーロコミュニズムへとつながる「自立化の流れ」を先取りする動きでした。政党の国際関係は、ソ連や東欧との二国間交流に移行しつつ、距離感の調整が可能になりました。
日本では、1950年のいわゆる「コミンフォルム論文」が日本共産党の路線に大きな動揺をもたらし、その後の転換(1955年六全協以降)へと続く過程で、国際機関の〈一斉指令〉に依存する危うさが痛感されました。1956年の解散と同年の第20回大会は、党の理論・組織の自立化と、長期的な民主主義的前進戦略の模索に、象徴的な背景を与えました。以後、日本の左派運動は、平和・反核・民主主義の市民運動との連携を強め、国際連携も多元化していきます。
国際枠組みのシフト――ワルシャワ条約・コメコンと〈多中心化〉の始まり
コミンフォルム解散の構造的な意義は、〈政党国際〉から〈国家間制度〉への重心移動と、その先に訪れる〈多中心化〉の予兆にあります。ワルシャワ条約機構は軍事のハードな結束を、コメコンは経済計画・貿易・技術協力の調整を担い、各国共産党の国際的「統一」は、より緩いネットワークへと変質しました。1950年代末以降、中ソ対立が先鋭化すると、国際共産主義運動は単一中心では維持できなくなり、各国は〈ソ連中心〉〈中国中心〉〈独自〉の間で選択・せめぎ合いを繰り返します。1956年の解散は、その前奏曲として、国際左翼の地形が〈一極〉から〈多極〉へ移行する入り口を示しました。
評価と位置づけ――「象徴の終わり」と「現実の連続」
総じて、コミンフォルム解散は〈象徴の終わり〉でした。すなわち、世界の共産党を一本の理論誌と声明で束ねる時代が終わった、という宣言です。しかし、〈現実の連続〉も見逃せません。ブロックの結束は、政党国際の解体後も、軍事・経済の政府間装置によって維持され、党対党の交流は形式を変えて続きました。平和運動や文化・学術交流は、政党の外側に広がる市民的ネットワークを介して発展し、冷戦下の「もう一つの国際連帯」を形づくりました。
1956年という年は、脱スターリン化の希望と、ハンガリー動乱の挫折が同居した複雑な転換点でした。コミンフォルムの解散は、その年の前半に生じた「刷新の身振り」の一つであり、後半の危機が示した構造的制約—安全保障の論理と民族自決・民主化要求の衝突—を照らし出す鏡でもあります。ここから先、国際共産主義運動は、〈国家間のブロック維持〉と〈政党・社会運動の多様化〉という二つの潮流を併せ呑み、やがて1960年代の分裂と再編へと向かいました。コミンフォルム解散を学ぶことは、国際政治と国内政治、政党と国家、理念と制度の間に横たわる緊張を理解する手がかりになります。大きな組織が幕を引いたあとに残るもの—それは、互いにつながり合う多数の小さな回路と、現実の制度としての硬い結束の共存でした。

