コミンフォルム(共産党情報局, Cominform, 1947–1956)は、第二次世界大戦後の初期冷戦期に、ヨーロッパの主要共産党間で情報交換と方針調整を行うために設立された国際機関です。1919年発足の第三インターナショナル(コミンテルン)が1943年に解散したのち、名目上は「各国の自立」を尊重しつつも、対米・対欧州資本主義陣営との対抗、社会主義陣営の結束、人民民主主義国家の建設を急ぐ必要から生まれました。正式名は「共産党・労働者党情報局」で、中央からの直接指令を発する〈世界本部〉ではないとされましたが、実際には路線の統一、対外宣伝、各党の規律強化に重要な役割を果たしました。1947年にポーランドで創設、当初の参加はソ連・フランス・イタリア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィアの9党で、事務局は当初ベオグラード、のちブカレストに置かれました。1948年のユーゴ除名、マーシャル・プラン反対の大キャンペーン、「二つの陣営」論の浸透、西欧共産党のストライキ動員、東欧諸国での人民民主主義路線—これらにコミンフォルムは深く関わりました。1956年、スターリン批判と東側の多様化を受けて解散します。本稿では、成立背景と組織、思想と戦術、地域別の影響、ユーゴ問題と解散までを、わかりやすく整理して解説します。
成立の背景と組織の骨格――初期冷戦、9党参加、ベオグラードからブカレストへ
コミンフォルム設立は1947年9月、ポーランドのシュクラルスカ・ポレンバ(ズコラルスカ・ポレーバ)での会合で決まりました。参加は、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)、フランス共産党(PCF)、イタリア共産党(PCI)、ポーランド労働者党(PPR)、チェコスロヴァキア共産党(KSČ)、ハンガリー共産党(MKP)、ルーマニア共産党(PCR)、ブルガリア労働者党(BCP)、ユーゴスラヴィア共産党(KPJ)の9党です。中国共産党は当時国内戦争の最中で加盟せず、西欧の大政党(仏・伊)が名を連ねたことが大きな特徴でした。
組織の名が示す通り、形式上は〈情報交換・経験共有〉を主務とし、各党の主権を尊重することが謳われました。定期会合、共同声明、理論誌の刊行を通じて、戦後ヨーロッパの政治・経済・文化に関する路線をすり合わせました。常設の巨大官僚機構を持つわけではありませんが、事務局はベオグラードに置かれ、1948年のユーゴ除名後はブカレストに移転します。機関紙『永続する平和、人民民主主義のために!』(For a Lasting Peace, For a People’s Democracy!)は多言語で発行され、各党の論調と大衆宣伝の足並みをそろえる媒体となりました。
設立の直接の契機は、米国のマーシャル・プラン(欧州復興計画)でした。戦後復興を支える資金・物資供与は、通貨・貿易・生産計画の米欧一体化を伴い、東欧諸国を西側の経済圏へ引き寄せる効果を持ちます。ソ連側はこれを政治・経済・軍事の包囲網と捉え、コミンフォルムを通じて一斉に反対キャンペーンを展開し、東欧での受け入れを阻止しました。ここに、初期冷戦の陣営分化が制度化されていきます。
思想と戦術――「二つの陣営」論、人民民主主義、反マーシャル・プランと平和運動
コミンフォルムの思想的柱は、しばしば「ジダーノフ・ドクトリン」と呼ばれます。ソ連のイデオローグ、アンドレイ・ジダーノフは1947年の報告で、世界を「米国主導の帝国主義・反民主主義の陣営」と「ソ連と人民民主主義の陣営」という二つのブロックに分かつ図式を鮮明にしました。ここで民主主義の概念は、自由主義的多元制よりも、反ファシズムの伝統と社会的平等、民族自決を重視する意味で用いられます。
政治戦術としては、東欧での「人民民主主義」路線の確立、西欧での〈国民戦線的〉戦術の強化がセットでした。東欧では、共産党が社会党や農民党、民族系政党と連立しつつ、警察・内務・土地改革・計画経済の中枢を掌握し、段階的に一党優位へと移行します。労組・青年・女性・文化団体を動員し、選挙・粛清・統合を組み合わせて政権を固めました。西欧では、議会参加とストライキ・社会運動を二本柱に、復興政策の配分をめぐる争点(賃金、食糧、住宅、物価統制)で大衆を組織し、米英主導の政策への批判を強めます。1947~48年のフランス・イタリアの大規模ストは、その象徴です。
対外キャンペーンでは、マーシャル・プラン反対のほか、〈平和擁護運動〉が大きな柱になりました。ストックホルム・アピール(1950)の核兵器全面禁止署名運動に見られるように、平和・反核・反ドイツ再軍備を旗印として各国の著名人・文化人が動員され、広範な支持を獲得しました。これは東側外交の一形態でありつつ、市民社会の平和意識とも結びつき、冷戦文化の風景を形づくりました。
文化・学術分野では、社会主義リアリズムや反形式主義の路線が強調され、学問・芸術の自由をめぐる論争が起きます。情報局は直接の検閲権を持たないものの、各党・各政府の文化政策に理論的裏打ちを与えました。メディア・出版の国有化・統制、教育の再編、宗教との関係再定義など、広い領域で「二つの陣営」論の影響が及びます。
ユーゴスラヴィア除名と東欧の粛清――「民族路線」とブロック結束の矛盾
コミンフォルム史の最大の事件は、1948年6月のユーゴスラヴィア共産党の除名です。ティトー率いるユーゴは、パルチザン闘争で政権を獲得した自負と、独自の連邦・自主管理路線を持ち、ギリシャ内戦やバルカン連邦構想をめぐりソ連と摩擦を深めていました。情報局はユーゴを「民族主義的偏向」「党内民主主義の欠如」などと非難し、断交的処分に踏み切ります。これにより、事務局はベオグラードからブカレストへ移転しました。
除名は東欧各国に強い震動をもたらしました。各党は自党内の「ティトー主義」を粛清し、忠誠を誓う一方、政治裁判と恐怖の政治が進みます。ハンガリーのラーイック裁判(1949)、チェコスロヴァキアのスラーンスキー裁判(1952)などはその極点で、対外・対内の「陰謀」を捏造する形で多くの幹部が処刑・投獄されました。コミンフォルム自身が裁判を指揮したわけではありませんが、〈ブロック結束〉の論理が国家安全保障・党内規律に浸透し、東欧の政治文化に暗い影を落としたことは否めません。
ユーゴとの断絶は、1949年のコメコン(経済相互援助会議)創設、1955年のバンドン会議・非同盟運動の胎動とも関わり、後の東側内部の多様性(ユーゴ、後年のルーマニア、アルバニアなど)を予告する出来事でもありました。「各国の民族的事情を尊重する」という1943年コミンテルン解散時の建前と、冷戦下のブロック結束の要請は、ときに鋭く矛盾したのです。
西欧共産党とコミンフォルム――議会・街頭・文化をまたぐ動員の全体像
フランス・イタリアの共産党は、戦後直後に議会主要勢力として連立政権に参加しましたが、1947年の米欧対立激化とともに閣外へ退きます。その後、コミンフォルムの方針と呼応して、賃金・物価・配給をめぐる大規模スト、反NATO・反再軍備、平和運動を展開しました。議会での反対・修正提案、自治体での社会政策と公共事業の推進、労組・協同組合との連携、文化人ネットワークの動員—こうした〈多層の運動〉は、コミンフォルムの理論誌や共同声明で相互参照され、学習されました。
ただし、西欧社会の長い議会主義の伝統、市民的自由、カトリックや社会民主主義との競合の中で、東欧型の「人民民主主義」への移行は現実的ではありませんでした。その結果、西欧共産党は次第に〈国内根づき〉と〈モスクワ志向〉のジレンマを抱え、のちのユーロコミュニズム(1970年代)への伏線をつくります。コミンフォルム期は、その前段として、国際的教条と国内政治の摩擦を浮かび上がらせた時期でもありました。
アジア・日本への波及――「日本問題論文」と路線調整
コミンフォルムはヨーロッパ機関でしたが、その声明や論文は世界の共産党に影響を与えました。日本では、1950年1月に機関紙上で「日本における情勢と日本共産党の任務」と題する論文(通称「コミンフォルム論文」)が掲載され、戦後の日本共産党の合法主義・選挙路線を「右傾機会主義」と批判しました。これが党内の所感派・国際派の対立を激化させ、非合法・武装闘争路線の短期的強化、のちの1955年転換へと続く混乱を招きます。国際的情報局の論調が、遠隔地の党内力学にまで影響し得たことを示す一例です。
中国共産党は参加党ではありませんでしたが、1949年の中華人民共和国成立後、東側ブロックの重要な一員となり、コミンフォルム声明の国際政治的含意を意識しながら、独自の路線(新民主主義、対外では朝鮮戦争参戦・中ソ同盟)を歩みました。アジアの民族解放運動(ベトナム、インドネシア、インドなど)は、平和・反植民地主義・社会改革の三位一体のスローガンを共有し、コミンフォルムの「平和運動」や「人民民主主義」の語彙を取り入れつつ、それぞれの現実に合わせて変奏しました。
解散(1956)とその意味――スターリン批判、脱スターリン化、東側の多様性
1953年のスターリン死去、1956年2月のフルシチョフによる「秘密報告」は、東側世界に大きな衝撃を与えました。個人崇拝と粛清の批判は、ユーゴ断絶や東欧の裁判の正当性を揺さぶり、コミンフォルムの存在理由—ブロックの思想的一体性—を弱めます。1956年4月、ルーマニアのブカレストでコミンフォルムは正式に解散しました。同年秋にはポーランドの「ポズナン事件」、ハンガリー動乱が起き、東側内部の多様な路線と社会の緊張が露わになります。
解散は、国際共産主義運動の〈中心—周辺〉構造が緩む方向への転機でした。以後、ソ連はワルシャワ条約機構やコメコンといった政府間枠組みを通じてブロックを維持しつつ、政党間関係は二国間の外交・党対党交流へとシフトします。西欧共産党は国内政治の自立性を強め、のちのユーロコミュニズムを準備します。日本やアジアの諸党も、ソ連・中国・自国事情のあいだで路線選択を迫られ、国際共産主義は単一中心から多元的ネットワークへと姿を変えていきました。
総括――本部なき〈調整機構〉としてのリアリティと矛盾
コミンフォルムは、コミンテルンの再来ではありませんでした。中央が各党を「支部」として直接指揮するのではなく、情報・宣伝・方針の〈調整〉を前面に出したこと、国家間の利害を勘案しながら〈政党間〉の結束を追求したことに特徴があります。しかし、実態としては路線の統一と規律の強化、対外キャンペーンの司令塔としての性格を強く帯び、ユーゴ除名や東欧の粛清に象徴されるように、〈多様性〉と〈結束〉の均衡に失敗する場面が目立ちました。
それでも、コミンフォルム期の経験は、冷戦初期の政治を理解する鍵をいくつも残しました。マーシャル・プランへの体系的対抗、平和運動の国際ネットワーク、人民民主主義国家の制度設計、西欧共産党の議会—街頭—文化を横断する実践、党と国家・社会運動の相互作用—これらは、イデオロギー対立の時代における「陣営の作り方」の教科書でもあります。1956年の解散は、統一の論理が自壊しうることを示すと同時に、その後の多様化と対話—党対党・政府間・市民運動間—の時代への入口でもありました。コミンフォルムを学ぶことは、国際政治と国内政治、政党と社会運動、理念と制度の関係を立体的に捉える手がかりを与えてくれます。

