コミンテルン第7回大会(1935年7月~8月、モスクワ開催)は、世界共産主義運動の路線を「第三期(サード・ピリオド)」の極端な左傾から、反ファシズム・反戦を軸とする広範な統一戦線=人民戦線へと大きく転換させた会議です。ナチス・ドイツの成立、ムッソリーニ体制の強化、日本の大陸侵略、世界恐慌後の失業と貧困の拡大の下で、社会民主主義勢力との対立を続けてきたコミンテルンは、ここで一転して協調の方針を掲げました。とりわけゲオルギー・ディミトロフの基調報告は、ファシズムを「金融資本の最も反動的・シャウヴィニスティックで帝国主義的な分子による、暴力的・露骨な独裁」であると定義し、労働組合、市民自由、民族独立、平和を守るために、共産党が社会民主党や自由主義者、知識人、農民・中間層とも共闘すべきだと説きました。この方針は、フランス・スペインの人民戦線政権、中国の国共合作(第二次)や各国の反ファシズム運動に直接的な影響を与えます。以下では、(1)開催の背景と会議の構図、(2)理論的転回とディミトロフ報告の要点、(3)具体方針(統一戦線・人民戦線・文化戦線・植民地問題)と組織戦術、(4)各地への波及と限界—という観点から、分かりやすく整理して解説します。
開催の背景と会議の構図――危機の三十年代と「第三期」路線の反省
1930年代前半、世界経済は大恐慌に揺れ、失業と賃下げが社会不安を拡大させました。ドイツでは1933年にヒトラーが政権を掌握し、共産党は非合法化・弾圧にさらされます。イタリアのファシズム体制は安定し、日本も満洲事変を経て大陸での軍事行動を強めました。こうした文脈で、コミンテルンが1928年の第6回大会以来掲げてきた「第三期」論—資本主義の最終危機・急進的攻勢・社会民主主義=社会ファシズム—は、現実の政治力学と齟齬をきたします。ドイツでの反ファシズム統一戦線づくりが遅れ、ナチの伸長を許したことは、痛恨の自己検証の対象となりました。
第7回大会は、こうした失敗の反省に立ち、路線修正を国際的に確認する場として準備されました。会場はモスクワ、議長団の下に各国代表が集い、コミンテルン執行委員会(ECCI)が取りまとめを担います。重要な前振りとして、1934年にはソ連とフランスが相互援助条約を結び、ソ連外交は対独抑止のための集団安全保障へ重心を移していました。国際政治の変化は、コミンテルンの路線転換を後押ししたのです。
会議の構図は二層でした。表層では、反ファシズムの国民的結集をどう設計するかという戦術的議題。深層では、共産党と社会民主党の関係、国家と民族の問題、自由と権威の均衡、といった理論問題です。ディミトロフの演説は、両者を結びつける役割を果たしました。
理論的転回とディミトロフ報告――ファシズムの定義、統一戦線の正当化、人民戦線の構想
ディミトロフの基調報告は、第7回大会の心臓部でした。第一に彼は、ファシズムを〈資本主義の特殊な反動段階〉と捉え、単なる暴力的政権ではなく、金融資本の最反動部分が国家機構と大衆動員を結合させた「開かれたテロ独裁」だと規定しました。これにより、ファシズムは〈例外〉ではなく資本主義の危機管理の一形態として理解され、広範な社会勢力にとっての共通の脅威とされます。
第二に、彼は〈統一戦線(ユナイテッド・フロント)〉の理論的正当化を行いました。労働者階級の内部で共産党と社会民主党が相互に敵視していては、ファシズムを止められない。工場・職場・地域・組合の単位で、具体的要求(賃金、失業対策、反戦、自由の擁護)にもとづく共同闘争を組もう、と提案します。ここでは、相手の組織独立と意見の相違を認めつつ、共同行動の最低限のプログラムで一致する柔軟戦術が推奨されました。
第三に、〈人民戦線(ポピュラー・フロント)〉の構想が提示されます。労働者階級にとどまらず、農民、中小商工業者、自由主義的知識人、宗教者、反ファシズムの保守派までを含んだ国民的連合を築き、選挙や議会・地方自治を通じて、ファシズムの伸長を止め、民主主義と社会改革を前進させるという青写真です。人民戦線は統一戦線の拡張形であり、政権参加(連立)や政策合意(反独裁、防衛、生活改善)を視野に入れた政治戦略でした。
第四に、文化と思想の地平に目を向け、〈文化戦線〉の必要性が語られました。検閲や教育の改編、メディア支配、民族差別の扇動など、ファシズムのイデオロギー攻勢に対し、作家・芸術家・学者・ジャーナリストと共同し、反ファシズム・反人種主義・平和の文化を育成することが提起されます。ここでは、ブレヒトらの前衛芸術から人民大学・労働者クラブの教育活動に至るまで、多様な実践が視野に入りました。
具体方針と組織戦術――労組・青年・女性の動員、植民地問題、国家防衛と平和主義の接続
第7回大会は、個別分野ごとに実務的提案を採択しました。労働組合については、産別・職能の違いを超えて統一行動委員会を結成し、ストや交渉の共同化、失業対策の公共事業、賃金・労働時間の最低基準を要求する方針が示されます。青年運動では、学生・徒弟・若年労働者の共同要求(就学・就労・徴兵反対・文化活動)を束ねる〈青年統一戦線〉、女性運動では賃金差別の撤廃、母性保護、物価統制、反戦・反ファシズムを軸に家庭と職場を結ぶ組織化が強調されました。
植民地・半植民地問題については、帝国主義支配に抗する民族解放運動への支持が再確認され、〈反帝国主義の統一戦線〉の形成、農地改革、文化的権利の擁護が掲げられました。ここで重要なのは、民族運動の内部における階級的多様性を認めつつ、反ファシズム・反植民地の共同行動を優先するという現実主義です。中国に関しては、日本の侵略に対抗する国共合作の可能性が明示的に評価され、〈国内の内戦終結—抗日の共同戦線〉という方向が国際的な承認を得ました。
安全保障では、〈国の防衛〉と〈反戦平和〉の接続が図られました。ファシズムの軍事的脅威に直面する国々では、国防の強化や集団安全保障への参加を支持しつつ、同時に侵略戦争反対、軍需利権批判、市民自由の保護を訴える—この二重の立場が強調されます。ソ連の対独抑止外交(仏ソ相互援助)との整合も意識された設計でした。
組織面では、コミンテルンの各国支部(共産党)に対し、統一戦線の実務—共同行動協定の作成、共同委員会の設置、地方自治体レベルの協治—を進める指針が出されました。宣伝・教育においては、相手勢力への無差別な敵対語(社会ファシズム等)を避け、信頼の構築と言論の節度を求める方針が打ち出されます。これは、路線転換を日常の運動文化へ翻訳する試みでした。
波及と限界――フランス・スペイン・中国・日本、そして後年のねじれ
第7回大会の方針は、すぐさま欧州政治に影響を与えました。フランスでは1936年に人民戦線連合(急進党・社会党・共産党)が成立し、ブリュム内閣の下で週40時間制、有給休暇、集団協約の承認などの社会改革が実現します。スペインでも人民戦線が選挙に勝利し、土地改革と民主化に踏み出しましたが、直後に軍の反乱が勃発し、内戦へと突入。スペイン内戦は、人民戦線路線の可能性と限界、内外の介入がもたらす悲劇を示す舞台となりました。
中国では、国共の対立が続く中で、満洲事変と華北侵出が「抗日民族統一戦線」の必要性を高め、1937年に第二次国共合作が成立します。延安を拠点とする中国共産党は、抗日に参加することで大衆基盤と軍事力を拡大し、戦後の政権獲得へ通じる足場を築きました。第7回大会の承認は、これを国際的に後押しする効果を持ちました。
日本については、当時日本共産党は非合法下で壊滅的打撃を受けており、国内での統一戦線の形成は困難でしたが、のちの戦後路線—民主主義革命段階の重視、広範な民主勢力との共闘—には、第7回大会の影響が読み取れます。アジア各地では、ベトナムやインドネシア、インドの独立運動において、民族解放と社会改革を組み合わせる戦略が力をもち、反ファシズムの国際的大義は植民地体制の動揺を促しました。
ただし、限界とねじれも明白でした。1939年の独ソ不可侵条約は、反ファシズムの道徳的高地を損ない、人民戦線の結束を破壊しました。各国の共産党は急転換を強いられ、信頼の傷は小さくありませんでした。さらに、コミンテルンの中央集権的な性格—国家事情よりも本部指令の優越—は、柔軟性を損なう場面を生みました。第7回大会が掲げた「各国事情に即した統一戦線」は、理念としては強靭でしたが、実装段階では内外の圧力に脆弱だったのです。
それでも、人民戦線の経験は、戦後欧州の社会民主主義と福祉国家、反ファシズムの記憶、文化的抵抗の遺産として生き続けます。1943年のコミンテルン解散は、こうした〈国民的・現実的〉方向の制度化でもあり、第7回大会の選択を別の形で継承しました。
まとめ――「広く結ぶ」への転回が残したもの
コミンテルン第7回大会は、世界恐慌・ファシズムの時代にあって、対立から協同へ、純粋主義から連合主義へ、革命の即時性から民主主義の防衛と社会改革の積み上げへ、と舵を切った歴史的会議でした。ディミトロフの報告は、ファシズムの本質把握と、統一戦線/人民戦線の理論付けに成功し、労組・青年・女性・文化・植民地の各領域に実務的な手引きを与えました。現実の政治は常に複雑で、独ソ不可侵や戦争の激動は、この路線を度々揺さぶりましたが、「広く結ぶ」という学習は、戦後の民主主義・社会政策・反人種主義・反戦の共同行動に確かな痕跡を残しました。第7回大会を理解することは、危機の時代に〈誰と、何のために、どう結ぶのか〉という問いに向き合う手がかりになります。理念をスローガンにとどめず、議会・自治体・労組・市民運動・文化の現場を結ぶ技術—それを歴史から学び直すことが、今日的にもなお求められているのです。

