コミンテルン解散 – 世界史用語集

コミンテルン解散(こみんてるんかいさん)は、第二次世界大戦のさなかの1943年5月、モスクワに本部を置く第三インターナショナル(コミンテルン)が自ら組織を終結させた出来事を指します。第一次大戦後の1919年に創設され、世界各国の共産党を「支部」として一元的に指導してきた国際機関が、独ソ戦と連合国協調の進展という戦時状況の中で、その役割を終えたと宣言したのです。名目上は「各国共産党の成熟と、民族的特質に根ざす独自路線の必要性」が理由とされましたが、実際には、英米との同盟関係を円滑にし、ソ連の国際的イメージを柔らげる戦時外交上の判断が大きく働きました。解散は、抗独・対日を最優先する大連合の中で、革命の世界本部という印象を薄めるシグナルでした。他方、その後も各国共産党とモスクワの連絡は細い回路で続き、戦後には情報連絡機関コミンフォルム(1947–56)が設けられるなど、国際共産主義運動の枠組みは形を変えて存続しました。本稿では、創設から解散に至る流れ、解散の狙いと実際、各地域への影響、戦後のコミンフォルムへの継承という観点から、わかりやすく整理して解説します。

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創設から解散へ――1919年の出発点と1930年代の路線転換、1943年の決断

コミンテルン(第三インターナショナル)は、1919年3月、ロシア革命の波及を背景にレーニン主導で創設されました。各国の社会主義政党のうち、議会主義や漸進主義を批判してボリシェヴィキ型の革命路線に同調する勢力を糾合し、モスクワを中心とする世界革命の司令塔をめざしました。加盟の条件として提示された「21ヵ条」は、党の秘密工作・細胞組織・民主集中制、社会民主主義からの明確な分離など、厳格なボルシェヴィキ化(ボルシェヴィゼーション)を要求するものでした。

1920年代半ばには、スターリン体制の固着とともに、コミンテルンの指導も中央集権化が進みます。1928年の第6回大会は、世界資本主義が危機に入ったとして「第三期(サード・ピリオド)」論を打ち出し、社会民主主義を「社会ファシズム」と非難するほどの左傾路線を採りました。結果として、独仏などで反ファシズムの広範な統一戦線が組みにくくなった副作用が指摘されています。

しかし、ヒトラーの台頭とナチ政権の成立(1933年)は路線の限界を露呈させ、1935年の第7回大会では、人民戦線(ポピュラー・フロント)—すなわち反ファシズムの広範な民主的連合—へと大きく転じます。スペイン内戦やフランスの人民戦線内閣など、各地でこの方針は一定の効果を持ちました。他方、1939年の独ソ不可侵条約は、短期的に安全保障上の余地を作ったとはいえ、欧州左派内部に深刻な混乱をもたらし、コミンテルンへの信頼を揺らがせました。

1941年6月の独ソ戦開始により、ソ連は英米中と並ぶ連合国の中核となり、枢軸打倒が至上命題になります。1942年以降、レンドリース法にもとづく米国の対ソ支援が本格化し、戦時同盟の維持と拡張がソ連外交の最重要課題となりました。この文脈で、世界革命の「司令塔」と見なされがちなコミンテルンの存在は、英米国内の反共世論や中立的諸勢力にとって障害となり得ました。

こうした状況下で1943年5月、コミンテルン執行委員会(ECCI)は「解散」を決定し、新聞発表により世界に周知しました。公的説明は、各国共産党が成熟し、民族的特質と国家事情に根差した路線に従うべき段階に来た、ゆえに中央集権的な国際本部は不要である、というものでした。実際には、ソ連が「世界革命の干渉者」と見なされることを避け、反ファシズム大連合の信頼を高める意図が強く、戦争遂行—とりわけ英米からの物資支援と軍事協力—を円滑にするための政治的措置だったと理解されます。

解散の狙いと実際――戦時外交のジェスチャーか、路線転換の表明か

解散の狙いは大きく三点に整理できます。第一に、戦時同盟の統合です。英米の政府・議会・世論の中には反共の根強い懸念があり、コミンテルンが各国政治に介入する「本部」として作用している限り、ソ連は信頼しがたい相手と映りました。解散は、ソ連が連合の一員として「自制」するというシグナルとなり、連合国間の心理的障壁を下げました。

第二に、各国共産党の「国民政党化」の促進です。対独・対日抵抗のため、共産党は国内の広範な勢力(自由主義者、保守穏健派、宗教勢力、軍の一部)と協調する必要がありました。中央からの画一指令ではなく、国内事情に即した柔軟な連携を認める方が、抗戦と政権参加のチャンスが広がります。解散声明は、そのための政治的余地を広げる役割を果たしました。

第三に、戦後秩序への布石です。ソ連は、東欧に友好的政権を形成しつつも、英米との衝突を極力避けたいというジレンマにありました。コミンテルンという象徴を自らたたむことで、ソ連は自国の安全保障と影響圏形成に関する交渉で、道徳的非難をかわす材料を得ます。「各国の進路は各国が決める」という建前は、戦後の「民族共産主義」—国家ごとの独自路線—の理論的前提にもなりました。

もっとも、解散がただの〈ジェスチャー〉にとどまったわけではありません。1935年以降の人民戦線戦術、独ソ戦を経た「祖国防衛」優先の路線は、すでに国民的・現実的方向を強めていました。解散はこの流れを明文化し、モスクワの一元指導に代わって「情報交換・助言・同志的連帯」という緩い関係への移行を示しました。実務面では、コミンテルンの国際部門や通信ルートの一部は、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の国際連絡部門へ吸収され、連絡は形を変えて継続しました。つまり〈形式の解散+実質の分散〉という構図です。

各地域への影響――欧州の抵抗運動、アジアの解放運動、日本の共産党に与えた変化

欧州では、各国共産党がレジスタンスに深く関与していました。フランス共産党は対独武装抵抗の中核の一つとなり、イタリアやギリシャでも共産党系パルチザンが大きな比重を占めました。コミンテルン解散は、彼らが「モスクワの手先」ではなく、〈自国の解放〉に立つ国民勢力だと主張する根拠を強め、解放後の挙国一致政権や臨時政府への参加を正当化する資源となりました。戦後の選挙で共産党が一定の支持を得られた背景には、この〈国民政党化〉の効果があります。

東欧では、赤軍の進撃に伴い、ソ連の影響下で新政権が樹立されていきます。ここでも解散は、外見上「各国の民族的進路」を尊重する枠組みを提供しました。ただし、実際の権力移行には、ソ連の軍事的プレゼンスと政治的調整が決定的であり、形式上の自律と実際の依存のあいだには緊張が残りました。

アジアにおいては、中国共産党(CCP)への効果が注目されます。1935年以降の抗日民族統一戦線路線を受けて、CCPは国共合作(二次)を通じて抗日戦に参加し、根拠地の統治力と軍事力を拡大しました。コミンテルン解散は、CCPが「自国の民族的利益にもとづく共産党」であることを強調する材料となり、延安体制の正当性を補強しました。他方、国際的連絡・助言のチャネルは細く続いたため、路線上の連続性も確保されます。

日本の共産党(JCP)にとって、解散は複雑な意味を持ちました。1930年代、JCPは非合法下で厳しい弾圧にさらされ、1932年のいわゆる「32年テーゼ」(コミンテルンの対日方針)は、天皇制打倒・民族解放を掲げる急進的な路線を示していました。1943年の解散自体が直ちに国内活動を変えたわけではありませんが、敗戦後に合法化されたJCPが「民族的民主革命」段階を重視し、広範な民主勢力との共闘を志向する理論的余地をつくる一因となりました。すなわち、戦後日本の左派が占領下の民主化過程に参加していく際、「モスクワ直属」という烙印を相対化する効果を持ったのです。

植民地・半植民地地域でも、解散は〈民族解放〉と〈社会革命〉の重ね合わせを柔軟にする契機となりました。ベトナム、インドネシア、インドなどでは、民族独立運動に共産主義者が深く関与しますが、連携相手や段階論の調整において、「各国事情を尊重する」という建前は有用でした。もちろん、冷戦の進行とともに各地で対立が先鋭化し、柔軟性はしばしば制約されることになります。

解散後のコミンフォルム――「情報局」の設立と冷戦の現実

戦後、1947年9月にポーランドで「コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)」が設立されます。参加はソ連・フランス・イタリア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィア(のち除名)の9党で、正式名称が示す通り、コミンテルンのような指令的中央本部ではなく、情報交換・共同声明・方針のすり合わせを目的とする機関と位置づけられました。とはいえ、マーシャル・プランに対する批判の統一、人民民主主義路線の確認など、実質的な路線調整機能を持ち、冷戦構図の固定に寄与します。

1948年にはユーゴスラヴィアがコミンフォルムから除名され、ティトー体制の独自路線とモスクワの緊張が露呈しました。これは、〈各国の民族的特質と独自路線〉という1943年の建前と、冷戦下でのブロック結束の要請が矛盾しうることを示す事件でした。コミンフォルムは1956年に解散しますが、その過程でスターリン批判、ポーランド・ハンガリーの動揺など、東側内部の多様性と対立が表面化していきます。

総括――「世界革命の本部」から「各国路線」へ、形式と実質のねじれ

コミンテルン解散は、戦時外交のシグナルであると同時に、1930年代後半からの路線変化—人民戦線・国民的協力—を制度面で追認した出来事でした。形式上は国際本部を畳み、各国の自律を尊重すると表明しましたが、実際には連絡と影響力は細い形で残り、戦後にはコミンフォルムという緩い枠が復活します。ここに、〈形式の自律と実質の連続〉というねじれが生じます。

それでもなお、解散の効果は無視できません。欧州の抵抗・解放の政治では共産党の「国民政党化」が進み、戦後の暫定政権への参加や選挙での伸長につながりました。アジアでは、民族解放の旗の下での柔軟な連携の余地が広がり、中国革命やベトナム独立運動などにとって、国際的正統性の一助となりました。日本でも、戦後左派の再編・合法化と広範な民主勢力との共闘の理論枠に、一定の余裕を生んだ側面があります。

結局のところ、コミンテルン解散は、ソ連が大国間協調の現実に合わせて〈世界革命の象徴的負荷〉を軽くする戦略でした。理念と現実、指導と自律のバランスをめぐる駆け引きは、その後の冷戦期を通じて続いていきます。出来事そのものは短い声明にすぎませんが、背後には、国際共産主義運動が「世界本部」から「国民的路線」の集合体へと構造変化していく大きな流れがありました。コミンテルンという名が消えた1943年の瞬間は、その長い転換の一つの節目だったのです。