イタリア共産党(Partito Comunista Italiano, 略称PCI)は、1921年に社会党から分裂して生まれ、1991年に解散するまで約70年にわたりイタリア政治と社会に大きな影響を与えた政党です。ファシズムとの対決、戦後の民主政治への参加、労働運動や地域社会への深い根づき、そして1970年代に提唱した「ユーロコミュニズム」まで、時代ごとに姿を変えながら活動しました。西側世界で最大規模の共産党として知られ、選挙を通じて広範な支持を得たことが特徴です。最終的には冷戦の終わりとともに路線を再編し、後継政党へと形を変えました。
成り立ちは、第一次世界大戦後の混乱と社会主義運動の高まりにあります。創設期の指導者にはアントニオ・グラムシやアメデオ・ボルディガがいて、マルクス主義をベースにしつつも、イタリアの現実に合った戦略を模索しました。ファシズムの下では地下活動を強いられますが、第二次世界大戦期には反ファシズム抵抗の中核の一つとして存在感を高めます。戦後は議会政治に積極的に関与し、「イタリアの道」と呼ばれる穏健かつ民主的な変革路線を打ち出したことでも知られます。
1970年代には、スペインやフランスの共産党とともに「ユーロコミュニズム」を掲げ、ソ連型から距離を取りつつ人権や多元主義を重んじる立場を明確にしました。大規模な地方自治の運営や社会政策で実績を積み、労働組合や協同組合、文化活動とも密接に結びつきました。一方で、経済危機やテロの時代、国政の権力獲得は叶わず、冷戦終結後には党の枠組みを大きく変える決断に至ります。こうした歩みを知ると、単なる「共産党」というラベルだけでは見えない、多層的で現実的な政治運動の姿が浮かび上がります。
成立と思想的基盤
イタリア共産党は1921年1月、リヴォルノで開かれたイタリア社会党(PSI)の大会における分裂から誕生しました。第一次世界大戦後のインフレと失業、農村・都市での激しい闘争の中で、国際共産主義運動への参加をめぐる対立が深まり、より急進的な潮流が新党を結成したのです。創設期には、ボルディガが組織と路線の骨格を主導し、中央集権的な党運営と革命的純粋性を重視しました。これに対して、グラムシは文化や社会の「ヘゲモニー」獲得の重要性を強調し、工場評議会運動の経験を踏まえて、労働者の自治と知的・道徳的指導力の確立を重視しました。
グラムシはその後ムッソリーニ政権によって投獄され、獄中で『獄中ノート』と呼ばれる膨大な考察を残します。そこでは、社会の指導力は単なる暴力や国家装置の支配からだけでは生じず、文化・教育・メディアなど「市民社会」における合意の形成を通じて築かれると論じられました。イタリア共産党におけるグラムシの影響は、のちの大衆政党化や議会主義の重視、同盟関係の構築といった実践につながります。理論面での独自性は、国際共産主義運動の内部においても同党の位置づけを特異なものにしました。
1920年代から30年代にかけての党は、ファシズムの弾圧のもとで厳しい地下活動を強いられます。国外ではパルミーロ・トリアッティが中心となり、党の再建と国際的連絡を担いました。トリアッティは、硬直した教条主義からの脱却を模索し、状況に応じた柔軟な戦術を重視しました。この姿勢は1940年代の「サレルノ路線(スヴォルタ・ディ・サレルノ)」として結実し、戦後の政治参加への道をひらきます。
ファシズム期と抵抗運動
ムッソリーニの独裁下で、イタリア共産党は非合法化され、指導者や活動家の多くが逮捕、追放、監視の対象となりました。党は亡命先のフランスやソ連、また国内の地下細胞を通じて組織の生命をつなぎ、反ファシズム勢力との連携を模索しました。1930年代には人民戦線の構想が広まり、共産党は社会党や自由主義者、カトリック系民主派など多様な勢力と協調する道を探ります。第二次世界大戦が激化すると、党はパルチザン組織の一翼を担い、特に「ガリバルディ旅団」と呼ばれる武装部隊を通じて抵抗運動の中心を形成しました。
1943年にファシズム政権が崩壊し、ドイツ占領期がはじまると、北中部を中心に抵抗運動が拡大します。共産党は地下新聞やラジオ、労働者・農民のネットワークを活かして動員を進め、都市のゼネストや山岳地帯でのゲリラ活動に関与しました。ここで培われた組織力と大衆的信頼は、戦後政治における党の影響力の基盤となります。抵抗の経験はまた、党の自己像に深く刻まれ、「反ファシズムの代表」という道徳的権威を付与しました。
1944年春、亡命先から帰国したトリアッティは「サレルノ路線」を提起します。これは、王制の存続問題などをいったん棚上げにし、広範な国民統一政府を支えて対独戦と再建を最優先するという現実路線でした。共産党は臨時政府に参加し、他党とともに憲法制定の準備を進めます。この過程で党は、革命的転覆ではなく、民主的手続きによる漸進的改革へと舵を切りました。戦後ただちに社会主義化を目指したわけではなく、社会的多数派の合意形成を重視する姿勢が確立したのです。
戦後の大衆政党化と「イタリアの道」
1946年の制憲議会選挙と1948年の総選挙で、イタリア共産党は強い支持を集めますが、冷戦構造の固定化とアメリカの影響のもと、キリスト教民主党(DC)が長期政権を維持することになります。共産党は1947年に統一内閣から排除され、以後は最大野党としての歩みが長く続きます。1948年にはトリアッティが暗殺未遂に遭い、全国的な抗議行動が広がりましたが、党は秩序維持を呼びかけ、内戦化を避ける慎重な路線をとりました。
戦後の党は、機関紙『ルニータ(l’Unità)』や「ルニータ祭」などの文化行事、協同組合運動、そして労働総同盟(CGIL)との結びつきを通じて、広範な社会基盤を築きます。エミリア=ロマーニャ、トスカーナ、ウンブリアなど「赤い地帯」と呼ばれる地方では、地方政府の運営で福祉、教育、公共サービス、都市計画において高い評価を得ました。これらの地域での地道な行政実績は、党の「善政」のイメージを強め、単なるイデオロギー政党ではない実務能力を示しました。
党の理論面では、トリアッティにより「イタリアの道(via italiana al socialismo)」が提示されました。これは、暴力革命ではなく、憲法秩序と多党制を尊重しつつ、長期的な同盟と改革によって社会主義的変革をめざすという構想です。1956年のハンガリー動乱とソ連軍の介入に際して、党は複雑な対応をとりました。完全な支持には踏み込まず批判的距離を示しつつも、国際共産主義運動との関係は維持するというバランスです。1964年にトリアッティが亡くなる直前に残した「ヤルタ覚書」は、各国の共産党が自国の条件に合わせて独自の路線を取る「多中心主義」を示唆し、のちのユーロコミュニズムの先駆けとなりました。
1960年代後半から70年代にかけて、学生運動や新しい社会運動が広がり、労働争議も高揚します。党は伝統的労働者層に加えて、公務員、教員、中間層へと支持を広げ、1976年の総選挙では得票を大きく伸ばしました。書記長エンリコ・ベルリンゲルの下で、党は民主主義を守るための「歴史的妥協(コンプロメッソ・ストーリコ)」という戦略を提示し、キリスト教民主党との協調を模索します。これは、チリのアジェンデ政権の崩壊や「鉛の時代」と呼ばれる国内テロの激化を背景に、急進的対立を避けて制度内で安定を確保するための提案でした。
しかし1978年、キリスト教民主党の指導者アルド・モーロが極左武装組織「赤い旅団」によって誘拐・殺害され、協調路線は致命的な打撃を受けます。党はテロを明確に非難し、法と民主主義の擁護を強調しましたが、中道との連立による政権入りは実現しませんでした。とはいえ地方レベルでの行政能力とクリーンなイメージは維持され、党はなお西欧最大の共産党として重い存在感を放ち続けます。
ユーロコミュニズム、解体、そして遺産
1970年代後半、イタリア共産党はスペイン共産党やフランス共産党とともに、ソ連から自立した「ユーロコミュニズム」を掲げました。多元的民主主義、人権、議会主義、文化の自由を尊重し、社会主義への道は一国一国の歴史的条件に即して選び取られるべきだと主張しました。1968年のプラハの春に対するワルシャワ条約機構軍の介入や、1979年のアフガニスタン侵攻に対して、党は距離を明確にし、ベルリンゲルは1981年に「十月革命の推進力は尽きた」と述べて歴史的転換点を示唆しました。こうした路線は国際的注目を集めましたが、国内では同時に支持基盤の変化と保守・中道勢力との力学に直面しました。
1980年代、経済の停滞と新自由主義的潮流、社会の個人化が進む中で、党は組織の高齢化や若年層への訴求力の低下という課題を抱えます。地方政治では引き続き成果を上げつつも、国政の主導権を握る決定的な突破口は見いだせませんでした。1984年にベルリンゲルが急逝すると、路線の整理と再編が本格化します。1989年の東欧革命とソ連の変動は、イタリア共産党にとっても存在意義の再検討を迫る出来事でした。
1991年、党はついに解散し、多数派は民主左翼党(PDS)へと衣替えします。一方で、共産主義の名と綱領を維持しようとするグループは共産主義再建党(PRC)を結成しました。これにより、PCIとしての組織は消滅しましたが、地方行政や社会運動、文化領域に刻んだ実績は後継諸党へと受け継がれます。PDSはのちに左翼民主主義者(DS)へと改称し、さらに2007年には中道左派勢力と合流して民主党(PD)へと至ります。直接的な継承ではないにせよ、今日のイタリア政党システムの一部には、PCI時代の人材と文化が続いています。
PCIの遺産は、第一に「大衆政党」としての組織文化です。党員数は戦後長らく百万人規模に達し、党機関紙、読書会、文化サークル、スポーツ、食の祭典など、政治と日常をつなぐ分厚いネットワークを築きました。これらは単なる宣伝ではなく、地域社会の相互扶助や公共空間の形成に寄与しました。第二に、地方自治での政策実践があります。福祉や教育、公共交通、環境整備における先進的取り組みは、後年の地方政治の標準にも影響を与えました。第三に、グラムシの理論と党の実践が示した「ヘゲモニー」や「市民社会」への眼差しは、政治学・社会学・文化研究に継続的な示唆を与え続けています。
他方で、PCIは常に複雑なジレンマを抱えました。国際共産主義との関係では、完全な独立を主張するには至らず、1956年や1968年のような局面では厳しい説明責任を負いました。国内政治でも、キリスト教民主党との協調と対抗をどのように両立させるか、労働者階級の利益と中産層・新しい社会運動の要求をどう調整するか、という難題がありました。テロの時代における秩序維持の姿勢は安定感を与えた一方、抵抗の伝統とのバランスをめぐって内部で議論が続きました。
総じて、イタリア共産党は、20世紀のイタリア史を理解するうえで避けて通れない存在です。革命的出自を持ちつつ、民主主義の枠組みの中で改革を積み重ねた希有な大政党であり、その歩みは「社会主義はどのように民主主義と共存し得るのか」という問いに対する、一つの長期的実験でもありました。抵抗運動から地方行政、国政野党、そして再編へと至るまで、党は時代とともに変化しながら現実政治に対応しました。名称は消えても、地域社会に残る制度や文化、研究・思想の領域に刻まれた影響は、今なお多方面で参照され続けています。

