アッバース1世の即位とサファヴィー朝の再建
アッバース1世(在位1587年-1629年、アッバース大王とも称される)は、ペルシアにおけるサファヴィー朝を最盛期へ導いた王であり、イラン史における代表的な君主の一人です。彼はサファヴィー朝の第5代シャーとして即位しましたが、その治世の初期、国家は深刻な危機に直面していました。
16世紀末のサファヴィー朝は、東方ではウズベク族の侵入、西方ではオスマン帝国の圧迫を受け、国内では有力部族軍(クズルバシュ)が権力を握って王権を脅かしていました。アッバース1世は若くして即位しましたが、まず国内の軍事・政治改革を断行することで王権の強化に成功しました。
特に重要なのは「グラーム制度」の導入です。これはコーカサス地方から連れてきたキリスト教徒出身の奴隷を改宗させ、王直属の常備軍として組織する制度でした。これにより従来のクズルバシュ部族軍に依存しない軍事力を確保し、王権を安定させることに成功しました。
軍事的勝利と領土拡大
アッバース1世の治世において最も顕著な成果は、オスマン帝国やウズベクとの戦争に勝利し、広大な領土を掌握したことです。彼はまず1598年に東方のウズベクに勝利し、古都ヘラートを奪還しました。次いで1603年から1629年にかけて、オスマン帝国と断続的に戦い、南コーカサスやメソポタミア北部を奪還しました。
1623年にはバグダードを占領し、メソポタミアの支配を確立しました。この成果は、イスラム世界における宗教的意義も大きく、シーア派の聖地ナジャフやカルバラーを掌中に収めたことで、サファヴィー朝の宗教的威信を高めることとなりました。
このように、アッバース1世の軍事行動は単なる領土拡大ではなく、シーア派国家としてのアイデンティティの確立に直結していました。彼の治世の末期、サファヴィー朝の版図は最大に達し、政治的安定を実現しました。
経済発展と国際貿易の振興
アッバース1世はまた、経済発展と貿易振興にも力を注ぎました。彼は新首都としてイスファハーンを整備し、「世界の半分」と称される壮麗な都市を建設しました。イマーム広場や王のモスク、アリ・カプ宮殿などは、今日でもペルシア建築の傑作として知られています。
イスファハーンは国際交易の中心地としても発展しました。アッバース1世はペルシア湾のホルムズ島をポルトガル人から奪い、イギリス東インド会社と提携して海上貿易を掌握しました。これによりペルシア絹の輸出が盛んになり、経済的繁栄をもたらしました。
また、ヨーロッパ諸国との外交関係も積極的に展開しました。スペイン、イギリス、オランダなどに使節を派遣し、反オスマン包囲網を築こうとしました。こうした外交活動は、サファヴィー朝を国際社会における重要な存在に押し上げることとなりました。
宗教政策と文化的繁栄
アッバース1世はシーア派十二イマーム派を国教として強化し、宗教権威を王権の支柱としました。ナジャフやマシュハドといったシーア派の聖地を保護し、巡礼を奨励することで国内の宗教的統一を進めました。このことは、サファヴィー朝を「シーア派国家」として確立する大きな契機となりました。
文化面では、彼の治世においてペルシア美術・建築・工芸が黄金期を迎えました。特にイスファハーンの建築群はその象徴であり、壮麗なタイル装飾や大規模都市計画は後世にまで影響を与えました。また、細密画や絨毯織りも発展し、ペルシア文化の精華が結実しました。
アッバース1世はまた、少数宗教に対して一定の寛容さを示しました。アルメニア人商人をイスファハーン近郊のノール・ジュルファに移住させ、彼らに貿易活動を担わせました。この政策は経済的な利益をもたらすと同時に、宗教的多様性を一定程度許容する姿勢を示しています。
アッバース1世の歴史的意義
アッバース1世はサファヴィー朝を再建し、その全盛期を築いた君主でした。彼の軍事改革によって王権は安定し、オスマン帝国やウズベクに対抗して領土を拡張しました。経済政策と国際貿易の振興により、サファヴィー朝は豊かな繁栄を享受し、首都イスファハーンは世界有数の都市となりました。宗教的にはシーア派国家としての性格を強化し、イラン社会の宗教的基盤を形成しました。
同時に、彼の政策は強権的な側面を持ち、クズルバシュの勢力を抑える一方で、新たに創設した軍事組織への依存を強めました。彼の死後、サファヴィー朝は次第に弱体化し、18世紀初頭に滅亡へと至ります。しかし、アッバース1世の治世に築かれた遺産は、イランの歴史と文化に深く刻まれています。
総じてアッバース1世は、軍事・政治・経済・文化のあらゆる面においてペルシアを「黄金期」へと導いた偉大な君主であり、その存在は中東史のみならず世界史においても特筆されるべきものです。

