三国時代(朝鮮) – 世界史用語集

朝鮮の三国時代は、おおむね紀元前後から7世紀後半までのあいだに、高句麗・百済・新羅という三つの王国が、朝鮮半島とその周辺を舞台に競い合い、連携し、最終的に新羅が半島南部を統一するまでの長い過程を指す呼び名です。加えて、洛東江流域には鉄生産で知られる伽耶(加羅)諸国が並立し、中国(漢・魏晋南北朝・隋唐)や日本列島(倭)との交流が絶えず続きました。誰にでも伝わる言い方をすれば、「北の高句麗、南西の百済、南東の新羅が、地理と資源と人材を武器に競い合い、ときには大国と手を結びながら、半島の政治と文化を大きく発展させた時代」です。英雄の戦いや城の攻防だけでなく、税や土地制度、身分秩序、宗教や学問、海陸の交易が複雑に絡み合って動いたことを押さえると、三国時代の全体像がぐっと見通しやすくなります。

高句麗は北方の山岳・平原と満州方面に広い行動半径をもち、百済は漢江流域から南西の海へ開いた海上ネットワークを活かし、新羅は慶州平野を中心に内陸の結束と唐との同盟をてこに勢力を伸ばしました。7世紀、隋・唐の登場で東アジアの国際秩序が再編されると、半島の三国は外交と軍事の両輪で生存を賭けることになります。660年に百済が、668年に高句麗が相次いで滅び、新羅は唐と対立しつつ半島南部の主導権を確立しました。そののち北方では、旧高句麗系の渤海が勃興し、半島北部から満州にかけての地域が新たな歴史段階に入ります。以下では、時代区分、政治と社会の仕組み、国際関係と戦争、文化・宗教・技術の順に、物語的な名場面に頼りすぎずに三国時代の実像を説明します。

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時代区分と政治地図の変化

三国時代は、便宜上「原三国時代」「三国鼎立期」「統一新羅期(半島南部)」の三段階で理解すると整理しやすいです。まず紀元前後から3世紀頃までを原三国時代と呼び、漢四郡(楽浪・玄菟など)の影響下で諸勢力が台頭しました。やがて高句麗・百済・新羅が国家として整い、各王国は都城整備・法制度の導入・仏教受容などを通じて王権の基盤を固めます。4~6世紀には三国鼎立が本格化し、伽耶諸国は鉄資源と海上交易で存在感を示しつつも、最終的には562年に新羅に併合されました。

高句麗(前37~668年頃)は、初期の都を集安付近(国内城・丸都山城)に置き、5世紀に平壌へ進出して南下政策を強めました。広開土王・長寿王期には満州から半島北中部へ勢力を拡大し、対外的にも北魏や倭、百済、新羅との軍事・外交で主導権を握りました。百済(前18~660年頃)は、漢江流域の慰礼城(ソウル周辺)から熊津(公州)、さらに泗沘(扶余)へと都を移しながら、南西部の農耕地帯と西海(黄海)航路をつないで発展しました。新羅(前57~935年)は慶州(金城)を中心に内陸勢力を固め、真興王期に領土を大きく拡張し、7世紀には唐と連動しながら半島統一へ踏み出します。

地理は各王国の性格を形づくりました。高句麗は山岳と平原の境界地帯を押さえ、騎兵・歩兵の機動と山城網で防御を固めました。百済は河川交通と海上ネットワークに強みを持ち、対外交流に敏感でした。新羅は内陸の結束と山城・土木の積み重ねで粘り強い国力を養い、唐との協調で戦略的な跳躍を実現しました。伽耶は洛東江の水運と鉄鉱・製鉄技術に依拠し、倭との関係でも重要な役割を果たします。

政治制度・社会のしくみと王権の演出

三国はそれぞれ独自の政治制度を整えました。新羅では、貴族身分を骨格づける「骨品制」が著名です。王族の聖骨・真骨に続き、各貴族が骨品(等級)によって官職や婚姻、衣服の規制を受ける仕組みで、政治参加の範囲が明確に序列化されました。統一後の新羅は「九州五小京」などの地方行政単位を整備し、中央の官司と地方の都督府・州県を結ぶ体系で支配を深めます。

百済は、佐平を頂点とする官僚制と評としての地方区画を持ち、文武の官を序列化しました。外交に長け、宋・梁など南朝との交流で先進文物を受容し、仏教・儀礼・書記の整備が早期に進みます。宮廷のしつらえや礼制、工芸の洗練は、後世の発掘品—たとえば百済金銅大香炉など—にも象徴されます。

高句麗は、大加・小加などの貴族評議を基盤にしつつ、王が軍事を掌握する体制でした。地方は五部・国内五部などの分割で把握し、国境地帯には多数の山城・関塞を整備しました。軍事貴族が有力で、王権はしばしば貴族間の均衡と遠征の成功に支えられました。

社会の下では、農耕を担う平民、工人・商人、地方の在地豪族が層を成し、戦時には徴発・動員が繰り返されました。伽耶は鉄の大量生産で知られ、鉄製武器や農具の供給によって周辺に影響力を持ちました。鉄は税や交易の媒体としても価値があり、海上ルートを介して倭や九州北部へ流れました。都市では市が立ち、塩・布帛・魚介・陶器が流通し、王都には官衙・寺院・市場・貯蔵施設が並びました。

王権の演出は、建築と儀礼で視覚化されました。新羅の皇龍寺(黄竜寺)に伝わる九層木塔(伝承上)は、国家護持の象徴として語られ、のちの仏国寺・石窟庵のような石造建築は統一新羅期の宗教美術の集大成です。百済は弥勒寺や王都の宮城・仏寺群に洗練が見られ、伽藍配置や木塔・金銅仏は東アジア的な共通性と地域的な個性を併せ持ちました。高句麗は広大な墳墓群と壁画で知られ、騎射・舞楽・日常生活の情景が鮮やかに描かれています。

国際関係・戦争と外交のダイナミクス

三国時代の動力は、国内の制度整備とならんで、対外関係の巧拙にありました。まず中国側では、漢四郡が影響力を及ぼしたのち、魏晋南北朝の分裂期を経て、隋・唐が半島への関心を強めます。高句麗はしばしば北朝と通好しつつ、南進する中国王朝の圧力に対し国境線で奮闘しました。598年の隋の出兵や612年の大遠征で、高句麗は乙支文徳の指揮により薩水で大勝するなど、地の利と戦術で大国を退けました。唐の太宗は645年に安市城(安市城)を攻めるも陥落できず、長期戦の消耗が続きます。

7世紀中葉、新羅は唐との同盟を本格化させ、金庾信らの指揮で半島再編に踏み出しました。660年、黄山原(黄山伐)の戦いで百済の名将階伯が奮戦するも敗れ、百済は唐・新羅連合により滅亡します。百済遺民は熊津都督府の統治下に置かれつつも復興運動(義慈王の遺児や鬼室福信ら)を展開しましたが、最終的には挫折しました。668年には、唐と新羅が連携して高句麗を攻略し、国内の政争と消耗に苦しんでいた高句麗は崩れます。

しかし、勝利した新羅はすぐに唐と対立に向かいます。唐は半島支配のため安東都護府などを設置しようとしましたが、新羅はこれを拒み、676年頃までの一連の戦闘で唐軍を押し返して、鴨緑江から漢江以南—すなわち半島南中部—に独自の秩序を築きました。この結果、統一新羅は内政に専念できる条件を手にしました。一方で、旧高句麗勢力は満州・沿海州方面で渤海(698~926年)を建て、唐・新羅と並ぶ北東アジアの一角を占めます。半島は南北で異なる文明圏の交差点となり、国際関係は三極構造へと移行しました。

倭(日本列島)との関係も多層的でした。外交使節や学僧・工人の往来が盛んで、技術・仏教・儀礼・文字文化が海を渡りました。百済は早くから日本に仏教や宮殿建築の技術を伝え、寺院伽藍や仏像様式に影響を与えました。伽耶は鉄資源の供給で倭と結び、婚姻・移住を通じた人的ネットワークも形成されました。新羅は唐との同盟で勢威を強めると、対馬海峡の管理や沿岸の城柵整備により海上秩序を主導しようとしました。

宗教・文化・技術と日常生活

三国時代の文化を一言でいえば、外来要素の積極的な受容と、地場の感性による再創造の組み合わせです。仏教は国家護持の宗教として受け止められ、王権の権威付けに大きく寄与しました。新羅の善徳女王・真徳女王・真平王から文武王にかけて、寺院の造営や仏教儀礼の整備が進み、統一後には仏国寺・石窟庵のような総合芸術へと結実します。百済は洗練された工芸と穏やかな微笑をたたえる仏像で知られ、柔らかい線と均整の取れた美意識が光ります。高句麗の壁画は、当時の服飾・楽器・馬具・宴飲・狩猟を生き生きと伝え、貴族文化のダイナミズムを感じさせます。

文字文化では、漢字の実務使用が官僚制とともに普及し、木簡・墨書土器・碑文などが行政・軍事・流通の現場で活躍しました。教育は貴族子弟の家学や寺院を通じて行われ、経書の素読とともに、暦法・地理・医薬など実用知も蓄積されました。楽人・舞人・工匠・鍛冶などの専門職は王都に集められ、宮廷儀礼や宗教行事を支えました。

技術面では、伽耶の製鉄、百済の木工・漆工・金工、新羅の土木・石造技術が突出しています。山城や長城式の防御施設、堤防や用水路、道路・駅伝の整備は、戦時の動員と平時の経済に不可欠でした。海では、沿岸航法と造船技術が発達し、半島・中国沿岸・日本列島をつなぐ航路が整備されました。陶器は灰青色土器から土師器・須恵器へと連続し、窯の構造や焼成技法の改良が生活の質を高めました。

日常生活に目を移すと、衣服は貴族の礼服から庶民の実用着まで多様で、騎射や馬具の普及は乗用と軍事の両面に影響しました。住居は木造平屋に高床式の倉、集落は堀や柵で守られました。市では塩・穀物・布・漁具・陶器・金属品が取引され、課税と検察の仕組みが整備されるとともに度量衡の統一が進みました。葬送は墳墓の形制に王国差があり、高句麗の積石塚・壁画古墳、百済の石槨塚、新羅の天馬塚に代表される積石木槨墳など、権威を示すモニュメントが景観を形づくりました。

7世紀終盤に半島南部の統一が達成されると、新羅は唐風の制度や文物を取り込みつつ、国内統治の深掘りに踏み切ります。九州五小京の行政網、国学の整備、仏教諸宗の展開、貴族間の婚姻ネットワークの管理などがその表れです。他方、外縁部では渤海が国際交易と仏教文化で頭角を現し、北東アジアは多元的な文明の交差点として成熟していきました。三国時代は、こうした次の時代への布石を周到に準備した、連続性の高い時期でもあったのです。