「三・一独立運動(サミル運動)」は、1919年3月1日に朝鮮半島で広範に展開した反植民地・独立要求の大衆運動です。京城(現ソウル)での独立宣言朗読と万歳示威から始まり、都市から農村へ、学生・宗教者から商工民・農民へと波状的に拡大しました。運動は非暴力・平和示威を旨としましたが、鎮圧過程で流血を伴い、多数の死傷者と逮捕者を出しました。短期的には日本の統治は続きましたが、国際世論に朝鮮の独立意志を可視化し、上海の大韓民国臨時政府の樹立、朝鮮総督府の統治方針転換(いわゆる「文化政治」)を誘発するなど、政治・社会・国際関係に大きな波紋を及ぼしました。以下では、背景と導火線、当日の展開と全国拡大、鎮圧と被害、国際反応と臨時政府、統治の変化と社会の動き、研究上の論点を順に整理します。
背景と導火線――第一次世界大戦後の国際環境と内在的エネルギー
1910年の韓国併合以後、朝鮮半島は日本の総督府による武断統治の下に置かれていました。警察・憲兵の網、言論・出版・結社の統制、土地調査事業や産業政策の変化は、社会の不安と反発を蓄積させました。第一次世界大戦の終結は、ウィルソンの民族自決のスローガンとともに、被支配民族に新たな期待を抱かせました。ロシア革命の衝撃、東アジアにおける中国の五四運動の萌芽など、国際環境は「帝国秩序の動揺」を示していました。
直接の契機として、1919年1月の高宗(旧大韓帝国皇帝)の葬儀(国葬)が挙げられます。各地からの参列と弔問は人の移動と情報交換を活性化し、秘密裏に準備されていた独立宣言の公表に適したタイミングを生みました。また、その少し前の2月8日には、東京在住の朝鮮人留学生が「二・八独立宣言」を発しており、青年層の自発的組織化と宣伝網の存在が確認されていました。宗教界では天道教(旧東学系)・キリスト教・仏教の関係者が連携し、広い社会基盤へのアクセスを担保しました。
3月1日の発火点と全国拡大――宣言、万歳示威、ネットワーク
1919年3月1日午後、京城のパゴダ公園(タプコル公園)周辺で、民族代表33人(天道教・仏教・キリスト教の宗教者が中心)が独立宣言を読み上げる計画でした。実際には当局の警戒を避け、近隣の太和館など私的空間で署名・朗読が行われ、外では学生らが「独立万歳」を唱えて群集を先導しました。宣言文は迅速にビラ・回覧で複製され、都市の市場・学校・教会・寺院から農村の集会所まで伝播しました。
運動の核は、非武装の示威・集会・万歳の連呼、独立旗(太極旗)の掲揚、店舗の休業、学校の授業停止、地方役場への請願などでした。学生・青年が先導役を担い、宗教者が拠点を提供し、商工業者が資金と物流を支え、農村では里単位の共同体が参加しました。地方によっては警察署や面事務所を取り囲むなど緊張が高まり、局地的衝突や放火が生じた事例もありますが、運動の理念としては非暴力が繰り返し強調されました。
ネットワークの面では、宗教組織(教会・天道教堂・寺院)、学校の同窓会・学生組合、都市の職能団体、地方の里・面の自治的結束が情報と人の流れを支えました。宣言文の口語化・要約版、王城と地方を結ぶ郵便・鉄道・人力移動の併用、女性の参加(伝令・炊き出し・署名集め・示威への参加)、未成年者の積極関与など、多様な主体が「運動の担い手」でした。柳寛順(ユ・グァンスン)に代表される若い女性の行動は象徴的に記憶されています。
鎮圧、死傷、裁判――非暴力と暴力のねじれ
示威は数週間から数か月にわたり断続し、総督府は警察・憲兵を中心に鎮圧にあたりました。逮捕・拘束・取調べの過程では、暴行・拷問の証言も多く残されています。地方では、群集との衝突の末に発砲が行われ、多数の死傷者が出ました。興宣(現在の華城)付近の堤岩里(ジェアムニ)事件など、住民が教会に押し込められ焼き討ちされたとされる事例は、運動の記憶に深い傷として刻まれています。
統計数字は史料により差異がありますが、数千人規模の死傷者、数万人規模の検挙・投獄というスケールであったことは概ね一致します。裁判では治安警察法違反、新聞紙法違反、騒擾罪などが適用され、多くの被告が懲役刑を受けました。裁判記録は、宣言文の所持・配布、万歳の先導、集会の呼びかけなど具体的行為の列挙を通じて、運動の実態を逆照射する一次史料となっています。
非暴力を掲げた運動が暴力的結果を招くというねじれは、当時の植民地統治の性格と、群集心理・地域権力構造の複雑さを浮かび上がらせます。参加者の側にも、示威の昂揚の中で投石や破壊が発生した局面があり、鎮圧側の過剰武力と相互作用して事態が悪化しました。運動史の叙述では、「非暴力の理想」と「現場の暴力」の両面を併記する姿勢が重要です。
国際反応と臨時政府――上海の組織化、パリ講和会議の影
三・一運動は、海外在住の朝鮮人社会や宣教師ネットワーク、外国紙の通信員を通じて国際社会に伝えられました。パリ講和会議(1919)において朝鮮の独立問題が正式議題化されることはありませんでしたが、民族自決の語彙が世界を席巻する中で、朝鮮の訴えは在外コミュニティとメディアの関心を集めました。米国内の教会紙・人権団体の声明、上海・満洲・沿海州の韓人社会の集会や募金は、運動の「外部支援」を形成しました。
同年4月、上海で大韓民国臨時政府が樹立され、幅広い勢力が参加しました。臨時政府は共和政を掲げ、外交・財政・軍事(義烈団や独立軍支援)・教育宣伝の機能を整備し、国際社会への請願・宣伝を継続しました。三・一運動は、臨時政府の正統性の歴史的根拠の一つとして位置づけられ、その後の独立運動(武装闘争、文化運動、教育・企業・メディア活動)の多様な路線にエネルギーを供給しました。
統治の転換と社会の変化――「文化政治」、出版・教育・経済
日本側では、運動の衝撃を受けて総督府の統治方針が見直されました。斎藤実総督期などに進んだ「文化政治」は、憲兵警察の縮小、言論・集会の部分的緩和、新聞・雑誌の発刊許可や私立学校の拡充、朝鮮人官吏の登用拡大、服制の緩和や象徴政策の変更などを含みました。とはいえ、検閲は依然として強く、治安維持法体制の下で政治運動は厳しく抑え込まれ続けました。
社会面では、運動後に出版・教育・宗教活動が活性化し、青年・女性・児童を対象とする近代的組織・雑誌が相次いで誕生しました。企業・協同組合・金融組織の整備、文化運動(雑誌『開闢』『東亜日報』などの登場)、スポーツや演劇の普及が、都市文化とナショナル・アイデンティティの新しい形を育てました。運動の指導層や参加者の中には、のちに教育・経済・宗教・芸術の各分野でリーダーとなる人物も多く、三・一はエリート養成の起点としても作用しました。
また、運動は婦人運動・児童運動の覚醒を促しました。女性は宣言文の印刷・伝達、示威の先導、救護・炊き出し、弁護資金の調達など多様な役割を担い、運動後には女性団体の結成や女子教育の拡充に繋がりました。世代面では、留学生・青年が果たした役割が大きく、学校と地域を結ぶ運動のモデルが確立しました。
他地域への波及と連関――中国・日本・植民地世界との響き合い
三・一独立運動は、ほぼ同時期の中国「五四運動」(1919年5月)と並んで、アジアにおける反帝国主義的大衆運動の嚆矢としてしばしば対比されます。両運動は、学生が先導し、市民が広く参加し、反植民地・反帝国の言語を共有した点で共通し、相互に刺激し合いました。日本国内では、朝鮮人留学生・労働者の活動、キリスト教系・社会主義系の人的ネットワークを通じて情報が共有され、警戒と共感が交錯しました。台湾では翌1921年の文化協会の活動など、文化運動の活性化に連なる面も指摘されています。
国際的には、アイルランド独立戦争、エジプトの1919年革命、インドの非協力運動など、同時代の反帝国運動と比較されることが多いです。非暴力の理念、宗教者と世俗エリートの連携、亡命政府の樹立、宣伝と外交の重視といった共通要素が見られ、三・一運動は世界史的文脈の中で再評価されています。
史料・数字・評価をめぐる論点――運動の性格をどう捉えるか
三・一独立運動の研究では、参加者数や死傷者数、地域別の運動の強度、女性・少年の参加比率、宗教組織の役割、暴力の態様などをめぐり、史料の読み方に応じて見解が分かれます。総督府統計は系統的ですが、鎮圧側の自己正当化のバイアスが入りうる一方、運動側の回想は英雄化・悲劇化の叙述が混ざります。裁判記録・新聞・宣教師報告・外国公文書・写真・地方法院の登記・墓碑銘・口述史など、多角的照合が求められます。
運動の性格についても、宗教運動か民族運動か、非暴力か暴力か、エリート主導か大衆自発か、といった二分法を越えて、重層的な性格を認める見方が主流です。宗教者がネットワークを担い、学生が起爆剤となり、都市の商工民が資金・物流を支え、農村共同体が動員の基盤を提供しました。非暴力の理念は運動の規範でしたが、現場には衝突と破壊が混入し、鎮圧の暴力と絡み合って複雑な結果を生みました。エリートの宣言と庶民の実践が相互に補完・緊張しながら歴史を動かしたのです。
最後に、三・一は記憶の政治とも深く結びついています。韓国・北朝鮮・日本・在外韓人社会では、記念日の儀礼、教科書の叙述、映画・文学・美術による表象が、それぞれ異なる文脈で運動を再解釈してきました。記憶の相違はしばしば外交的緊張の要因にもなりますが、一次史料に立脚した具体的理解は、対立の言説に流されない歴史認識の基盤を提供します。
総じて、三・一独立運動は、帝国秩序が揺らいだ世界史の転換点において、宗教・学生・市民が協働した全国的な非武装運動でした。即時の独立には至らなかったものの、国際世論への訴求、臨時政府の樹立、統治様式の変容、社会文化の活性化など、多方面に長い尾を引く波紋を生みました。その実像を掴むには、理念・組織・地域・暴力・記憶という複数のレンズを重ねて観察する姿勢が重要です。

