ジェームズ2世 – 世界史用語集

ジェームズ2世(James II, 在位1685–1688/スコットランドではジェームズ7世)は、スチュアート朝最後のカトリック君主として、宗教寛容の名のもとに王権の特権(dispensing power=法の停止・免除権)と常備軍を拡張し、議会・国教会・都市エリートとの信頼を損ねて「名誉革命(グロリアス・レボリューション)」を招いた人物です。兄チャールズ2世の後継として即位した彼は、対外的にはフランスのルイ14世と接近し、対内的にはテスト法(公職就任に国教徒資格を要する法)の実質的骨抜きを進め、カトリック解放を押し切ろうとしました。1688年に王子(ジェームズ・フランシス・エドワード)が誕生してスチュアート王朝のカトリック継承が確実視されると、与党・軍・都市の支持は急速に離反し、オランジ公ウィリアム(妻メアリーはジェームズの娘)を招請する動きが結実、ジェームズはフランスへ退去しました。彼の短い治世は、王権・議会・宗教・軍の関係を再設計する契機となり、1689年の権利の宣言/権利章典(Bill of Rights)と1701年王位継承法(Act of Settlement)へ続く立憲君主制の骨組みを生み出しました。

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出自と前史――ヨーク公時代、海軍・植民・宗教をめぐる経験

ジェームズはチャールズ1世の次男として1633年に生まれ、清教徒革命期の亡命を経て、王政復古後はヨーク公として海軍総監(Lord High Admiral)を務めました。第二次・第三次英蘭戦争では艦隊を率いて戦い、海軍行政の再建や造船・補給の近代化に関与しました。この経験は、後に常備軍・海軍の常設を当然視する軍事志向につながります。

植民と商業の面では、王立アフリカ会社(Royal African Company)の総裁を務め、西アフリカの交易と大西洋奴隷貿易の拡張に深く関与しました。ニューネザーランド征服後にニューヨークと改称されたのは、ヨーク公への献名です。北米ではニューイングランド自治を制限する「ニューイングランド自治領(Dominion of New England)」構想が進み、総督アンドロスの専制的統治が反発を招きました。これらは、彼の王としての統治スタイル――上からの行政一体化と規制強化――の前触れでした。

宗教では、1660年代後半にカトリックへ改宗したと見なされ、議会の反カトリック感情を煽りました。1678年の「教皇派陰謀」騒動を背景に、議会多数派は彼の継承を阻む排除法案(Exclusion Bill)を提起しますが、チャールズ2世はこれを退け、ヨーク公派(トーリ)と排除派(ホイッグ)の党派対立が固定化しました。排除危機の収束後、ジェームズはスコットランド総督としてカヴェナンター弾圧など強権的統治に関与し、治安優先の姿勢を強めます。

即位と初期の統治――モンマス反乱、常備軍、テスト法をめぐる衝突

1685年、チャールズ2世の死で即位すると、前年に画策されていた反乱が動き出します。庶子モンマス公が西部に上陸して王位僭称を試みますが、セジムーアの戦いで鎮圧され、判事ジェフリーズの「血の裁判」で厳罰が下されました。これにより王権の威信は一時的に高まり、議会(1685年議会)は増税と常備軍拡充を承認します。

しかし、ジェームズは軍事力の常設化・中央集権化を急ぎ、国教会(アングリカン)司祭団からの警戒を招きました。テスト法により公職は国教徒に限定されていたにもかかわらず、彼はdispensing power(個別免除権)を援用してカトリック将校を登用し、法の一般拘束力を王権の裁量で迂回しました。さらに、王室直轄の常備軍にカトリック部隊を組み込み、国教会優位の軍の性格を変えようとしました。これらは法治と均衡の原則に反するとして、トーリの中核まで離反させます。

地方統治でも王権は自治を侵食しました。ロンドン市の自治憲章を取り消して忠誠派で固め直し、大学(オックスフォードのマグダレン・カレッジ)の人事に介入してカトリック化を進め、選挙管理(選挙権・被選挙資格の操作)で議会多数派の組成を試みました。これらは「寛容」の名目を掲げながら、実態としては国教会と自治の基盤を掘り崩す施策として受け止められました。

信教の自由宣言と「七司教」裁判――寛容の言語と専制の実践

1687年と1688年、ジェームズは二度にわたり信教の自由に関する宣言(Declaration of Indulgence)を発しました。これは礼拝法や刑罰法の適用を停止して、カトリックと非国教徒(ピューリタンを含む)に寛容を与えるというもので、宗教寛容という理念を前面に出した点で先駆的でもありました。しかし、停止の法理は議会制定法の一方的棚上げであり、王権神授説に基づく超法規的措置と理解されました。

ジェームズはこの宣言を聖職者に朗読させるよう命じ、これに抗議したカンタベリー大主教サンフトやロンドン主教ら「七司教」を投獄・起訴します。ところが1688年、ロンドン塔から出廷した七司教は陪審により無罪評決を獲得し、王権に対抗する法の支配と陪審制度の威信が劇的に示されました。国教会はこの瞬間に、宗教寛容の是非ではなく、法手続と議会主権の擁護に合流し、王と教会の絆は決定的に切れます。

「名誉革命」への坂道――王子誕生、ウィリアム招請、軍の瓦解

1688年6月、王妃メアリー・オブ・モデナが男子(ジェームズ・フランシス・エドワード)を出産し、王位継承がカトリック直系で固定化される見通しとなりました。これに危機感を強めた政治・教会・都市の有力者は、オランダ総督であり王女メアリーの夫であるウィリアム・オブ・オレンジに上陸を要請します。10月の「不朽の七人」の招請状は、王の法外な権限行使と自治の破壊を列挙し、王の行為を「国家契約」の違反と位置づけました。

11月、ウィリアムは艦隊と遠征軍を率いてイングランド西部に上陸します。ジェームズは軍を動員するも、王女メアリーやアン王女の夫を含む将校・貴族が次々に寝返り、常備軍は求心力を失います。ロンドンでは金融・商人層が暴騰する不確実性に備えて資金をウィリアム側へ回し、地方でも治安判事が王令の執行を渋りました。ジェームズは一度は交渉を試みるものの、王妃と王子を仏へ脱出させ、12月に自らもテムズへレガリアを投げ捨てて退去を図ります。拘束・帰還・再退去という混乱ののち、彼は「玉座放棄」とみなされ、議会はウィリアムとメアリーを共同君主に迎えました。

アイルランド戦役とジャコバイト運動――ボイン川、アイルランドの和議、スコットランド蜂起

亡命後も、ジェームズは王位回復を諦めず、ルイ14世の支援を得てアイルランドへ上陸します。1689年、カトリック多数のアイルランド議会を召集して宗教・土地の回復を約し、ロンドンデリー包囲など攻勢に出ましたが、1690年のボイン川の戦いでウィリアム3世の軍に敗北し、翌1691年のリメリック条約でアイルランド戦線は収束します(条約はのち反故にされ、カトリック抑圧法が強化されました)。

スコットランドではジャコバイト蜂起(ヴィサウンドの戦い、キリクランキ―でのクレヴァー豪の戦死など)が起こるも、長期化はせず鎮圧されました。以後、ジェームズの名は「ジャコバイト(ヤコブ派)」運動の象徴となり、1715年・1745年の蜂起まで、ハノーヴァー朝に対する反体制の旗印として生き続けます。

亡命生活と死、評価――ルイ14世宮廷、修道院、そして遺産

フランスではサン=ジェルマン=アン=レー宮に居を与えられ、ルイ14世の庇護下で宮廷生活を続けました。晩年は敬虔を深め、修道院滞在や慈善に時間を使い、1701年に死去しました。王太子ジェームズ・フランシス・エドワード(いわゆる「老僭王」)は父の王位請求を継承し、さらに孫の「麗しの王子チャールズ」へと系譜が続きます。

評価は二層的です。一方で、彼は宗教寛容を掲げ、少数派の公民権回復を試みた先駆者でした。他方、その手段は議会主権と法の支配を迂回する王権による停止・免除であり、常備軍と官僚制で社会を上から再編する専制的傾向を強めました。宗教寛容の理念と立憲主義の手続的正統性を両立させられなかったことが、最大の失敗でした。

制度的帰結――権利章典、王位継承法、軍の統制、財政革命と帝国統治

ジェームズの退位は、イングランドの統治原理を組み替えました。1689年の権利章典は、王の法停止・課税・常備軍維持を議会の同意なしに行うことを禁じ、言論の自由(議会内)や請願権、残虐刑の禁止などを確認しました。1689年寛容法は非国教徒の礼拝を条件付きで容認し、カトリックは除外されたものの、宗教と国家の関係を実務的に緩めました。王位継承法(1701)はカトリックの王位継承を排し、司法権の独立や官吏の外国年金受領禁止など、政体の安定条項を盛り込みます。

軍事・財政では、常備軍の維持にミューティニー法(軍律の年次更新)と予算の年次査定を課し、軍を法律的に議会の手の内に置きました。政府信用の確立、国債市場、のちのイングランド銀行の創設など「財政=軍事国家」の制度化は、ジェームズが恐れられた専制の技法を、議会統制の下で利用する形へ転換したものとも言えます。植民地では、ニューイングランド自治領の崩壊後も王領化・海事裁判所・航海法の執行強化が進み、帝国統治はより制度的・財政的性格を帯びていきました。

スコットランドとアイルランドの視角――複王国統治の難題

ジェームズの治世は、単に「イングランドの立憲革命」の物語に還元できません。スコットランドでは、司教制強制と国教会化に反発する長老派との軋轢が続き、名誉革命後の宗教体制(長老派国教)確立と連合法(1707)への道に影響しました。アイルランドでは、土地没収・宗派法が19世紀に至るまでカトリック社会を拘束し、ジェームズの名が「失地回復」の夢と結びつく一方、ボイン川の敗北はプロテスタント同盟主義の記憶となりました。複王国の統治は、宗教と所有の配列を国ごとに異なる形で安定させるという難題であり、ジェームズはここで調停者ではなく当事者として振る舞ったがゆえに、反動の波を自ら呼び込みました。

総じて、ジェームズ2世は「寛容」を掲げながら、法と代表制の外側に立つ王権の特権でそれを実現しようとして失敗した君主でした。彼の退位が生んだ制度は、武力を持つ国家を議会と法の枠に繋ぎ止め、宗教多元性を漸進的に認める回路を用意しました。したがって、ジェームズの治世は敗者の短篇ではなく、立憲君主制の設計図が描かれた実験の章でもあります。王がなぜ倒れたかを問うことは、国家の力を誰がどう制御するのか――その問いに、近代イングランドが与えた答えの出発点を確かめる作業にほかなりません。