女性解放(トルコ) – 世界史用語集

「女性解放(トルコ)」とは、オスマン帝国末期からトルコ共和国時代にかけて進められた、女性の権利拡大と社会的地位向上の動きを指す言葉です。とくに建国指導者ムスタファ・ケマル・アタテュルクのもとで行われた世俗化・近代化改革は、イスラーム世界の中でも早い時期に、法律上の男女平等や女性参政権を実現した例として知られています。一方で、都市と農村、エリート層と庶民、世俗派と宗教的価値観を重んじる人びととの間には大きな差があり、「女性解放」が一気にすべての女性の生活を変えたわけではありませんでした。

トルコの女性解放を考えるときには、「イスラームだから女性の地位が低かった、それが近代化で急に解放された」という単純な図式では捉えきれません。オスマン帝国の社会には、イスラーム法にもとづく家族制度やベール・ハーレムといったイメージに象徴される女性観があった一方で、スルタンの母后や宮廷内の女性たちが政治に影響力を持つケースもあり、地方社会では女性が経済活動を担う場面もありました。また、19世紀後半には、オスマン帝国内部でも「女性教育」や「女性雑誌」を通じて、新しい女性像を模索する動きが始まっていました。

その上で、第一次世界大戦と帝国の崩壊、西欧列強との戦争といった大きな歴史の転換を経て、「新しい国家トルコをどう作るか」という文脈のなかで、女性の位置づけが改めて問い直されます。アタテュルク政権は、トルコを「世俗的で近代的な国民国家」に変える象徴として、女性の服装・教育・法律上の地位・政治参加を積極的に変えていきました。こうした改革は、同時期の多くのイスラーム圏と比べてもかなり先進的なものであり、「トルコの女性解放」はしばしばその代表例として語られます。

以下では、まずオスマン帝国末期における女性の位置づけと「女性問題」の現れ方を見たうえで、トルコ共和国建国期のアタテュルク改革と法律的な女性解放の内容を整理します。続いて、教育・服装・社会進出といった日常生活の変化、そして20世紀後半以降のトルコ社会における女性の状況と課題についても、歴史の流れの中で考えていきます。

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オスマン帝国末期の女性と「女性問題」の登場

トルコの女性解放を理解するためには、前身であるオスマン帝国の社会構造を知っておくことが大切です。オスマン帝国はイスラームを国教とする多民族帝国で、家族法や相続・婚姻などは基本的にイスラーム法(シャリーア)にもとづいて運用されていました。イスラーム法の枠の中では、女性は財産を所有する権利や離婚を求める一定の権利を持っていましたが、実際の社会生活では父親や夫、男性親族の権限が非常に強く、婚姻の決定権や教育の機会において女性が制約されることが多かったです。

都市の上層階級の女性は、ハーレム(女性専用の生活空間)で暮らし、公的な場に姿を見せることは少なかった一方で、家の内部や宮廷の権力関係の中では大きな影響力を持つこともありました。スルタンの母后(ヴァリデ・スルタン)が政治に介入したり、后妃たちが後継者争いに関わったりした事例はよく知られています。農村や都市下層の社会では、女性が家事と育児だけでなく畑仕事や家業にも従事し、経済的に重要な役割を担っていましたが、その活動は「正式な公的領域」としてはあまり認められていませんでした。

19世紀後半になると、オスマン帝国も「タンジマート」と呼ばれる近代化改革を進め、ヨーロッパ型の法制度や教育制度の導入が試みられました。この過程で、「女性教育」の必要性が議論されるようになります。都市部では女子学校が設立され、一部の中産階級・上層階級の娘たちが読み書きや外国語を学ぶ機会を得ました。また、イスタンブルなどの都市では、女性向けの雑誌が発行され、家事や育児の話題とともに、「妻としてだけでなく、人格を持つ個人としての女性」という新しいイメージが少しずつ紹介されていきます。

この時期、オスマン知識人たちは、西欧列強の進出に直面しながら、「なぜ自国が遅れをとっているのか」「どうすれば強くなれるのか」を熱心に議論していました。その中で、「女性の教育と地位の向上が国家の強さにつながる」という考え方も登場します。つまり、女性の解放は単に個人の権利問題としてではなく、「近代国家建設の一部」として位置づけられ始めたのです。

とはいえ、19世紀末の段階では、女性の社会的地位が大きく変わったわけではありません。女子教育はまだ限られた階層にとどまり、結婚・離婚・相続などは依然としてイスラーム法にもとづく枠組みの中で処理されていました。「女性の問題」は意識されはじめたものの、それを本格的に制度改革につなげる大きな転換点は、第一次世界大戦と帝国崩壊後に訪れることになります。

アタテュルク改革と法律上の女性解放

第一次世界大戦後、オスマン帝国は敗戦国となり、領土の分割と占領の危機にさらされました。このなかでムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク)が独立戦争を指導し、1923年にトルコ共和国が成立します。新国家は「世俗的(ライック)で近代的な国民国家」をめざし、スルタン制とカリフ制を廃止し、宗教と政治の分離を進めました。この大きな改革の一部として、女性の地位向上も積極的に進められます。

1920年代から30年代にかけてのアタテュルク改革の中で、とくに重要なのは、家族法・民法の大幅な改正です。トルコ共和国は、イスラーム法にもとづく旧来の家族制度を改め、スイス民法などヨーロッパの民法典を参考にした近代的な民法を導入しました。これにより、一夫多妻制は廃止され、民事婚(役所での結婚登録)が原則となり、男女の離婚や相続における権利は大幅に平等化されました。法の上では、妻は夫の「所有物」ではなく、「権利を持つ個人」として位置づけられるようになったのです。

さらに、女性の政治参加も徐々に認められていきました。1930年には地方選挙への参加権が与えられ、1934年には国政レベルの選挙権・被選挙権が女性にも拡大されます。これは、当時の多くのヨーロッパ諸国と比べてもかなり早い時期の女性参政権付与であり、トルコ共和国が「女性解放」を国家プロジェクトの一環として重視していたことを示しています。1935年の国会選挙では、複数の女性議員が当選し、「女性も国民の一員として政治に参加できる」というメッセージが国内外に向けて発信されました。

アタテュルク自身も、演説や写真などを通じて、「近代トルコ女性」のイメージを積極的に提示しました。ベールを脱ぎ、欧米風の洋装をまとい、学校や職場で活動する女性の姿は、「旧来のイスラーム世界」と「新しい世俗国家」との違いを象徴するものとして広く宣伝されました。トルコ共和国は、国内向けには「女性も教育と労働を通じて国家建設に参加すべきだ」と訴え、対外的には「イスラーム圏でも女性の地位向上は可能だ」というショーケースとなることを目指しました。

ただし、こうした改革は、主に都市部や教育を受けた層を中心に進められたものであり、農村部や保守的な地域では、旧来の慣行や宗教的価値観が強く残り続けました。法律上は一夫多妻制が禁止されても、実態としては非公式の複数婚や、家族による結婚の決定が続く地域もありました。形式上の権利と、日常生活の現実とのギャップは、トルコの女性解放を考えるうえで避けて通れないポイントです。

教育・服装・社会進出と日常生活の変化

法律の改革と並んで重要なのが、女性の教育と社会進出、そして服装をめぐる変化です。トルコ共和国は建国当初から、男女共学の制度を整え、女子教育の普及に力を入れました。初等教育の義務化とともに、女子も男子と同じ学校で学ぶことが推奨され、都市部では女子高校や女子大学教育の機会も広がっていきます。教育を受けた女性たちは、教師や看護師、公務員、専門職などとして社会に進出し、「職業を持つ女性」のモデルケースとなりました。

服装の面では、「ベール」と「洋装」が象徴的なテーマになりました。アタテュルク政権は、男性に対してフェズ帽を廃止させて洋風の帽子をかぶることを奨励したように、女性にも顔を覆うベールや全身を隠す伝統的な衣装から、ヨーロッパ風のドレスやスーツに近い服装へ移行することを奨励しました。ただし、トルコでは一部の他の国のように「ベールを法律で全面禁止する」といった極端な措置は取られず、実際には地域や階層によって多様なスタイルが共存しました。

都市の中産階級・上層階級の女性の間では、洋装と短いベール、あるいはまったくベールを着けないスタイルが広まり、「モダンガール」としてのトルコ女性の姿が雑誌やポスターに登場しました。一方、農村部や都市の下層では、宗教的・伝統的な価値観を重んじて、ヘッドスカーフやゆったりとした伝統服を保つ女性も多くいました。このように、服装は単なるファッションではなく、「近代化・世俗化」と「伝統・信仰」とのあいだの選択と折り合いを象徴する要素になっていきます。

社会進出の面では、1930年代以降、女性教師や女性医師、女性弁護士など、専門職に就く女性が少しずつ増えていきました。彼女たちは、実務面で活躍すると同時に、「女性でも高等教育を受けて職業人として働ける」というロールモデルとしての意味を持っていました。また、都市の文化サロンや芸術活動の場では、女性作家や画家、音楽家も登場し、トルコ社会の文化的近代化に貢献しました。

ただし、こうした変化の恩恵を受けられたのは、多くの場合、都市部の一定以上の教育を受けた階層に限られていました。農村部では、家事・農作業・子育ての負担が重く、女子の就学率も都市に比べて低い状態が続きました。早婚や親同士の取り決めによる結婚、家族の名誉を重んじる価値観などが、女性の選択肢を狭める要因となりました。トルコの女性解放は、「国家の掲げる理想」と「社会の多様な現実」とのあいだで、常に揺れ動いてきたと言えます。

20世紀後半以降のトルコ女性と課題

第二次世界大戦後、トルコは多党制民主主義を導入し、軍事クーデタを挟みながらも、選挙と政党政治を続けてきました。このなかで、女性の社会参加も量・質ともに変化していきます。都市化と産業化が進むと、多くの人びとが農村から都市へ移住し、女性も工場労働者やサービス業従事者として労働市場に参入する機会が増えました。高等教育を受ける女性の割合も増加し、大学生や研究者、企業幹部、公務員として活躍する女性も現れました。

政治の世界でも、女性議員や女性大臣が登場し、「女性も政策決定の場に立つべきだ」という意識が広がっていきます。さらに近年では、女性運動やフェミニズムの視点から、家庭内暴力や名誉殺人、職場での差別など、法律上の権利があるにもかかわらず実際には残っている問題に対して、積極的に声をあげる団体や活動家も増えました。国際的な人権・女性権利の枠組みのもとで、トルコ政府も一定の法改正や政策を進めています。

一方で、トルコ社会は都市と農村、世俗派と宗教保守派、エリート層と庶民層のあいだに大きな分断を抱えており、その緊張は女性の服装や生活様式をめぐる議論にも現れます。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、大学や官公庁でのスカーフ着用をめぐって激しい論争が起こり、「スカーフ禁止」は世俗主義の象徴とされる一方、「信仰にもとづく服装の自由を認めるべきだ」と主張する勢力もありました。この議論は、「女性解放」と「宗教的自由」が必ずしも同じ方向を向かない場合があることを示しています。

また、経済統計や雇用データを見ると、女性の就労率や管理職比率は依然として男性より低く、家事・育児の負担の多くが女性に偏っているという現実もあります。法的には男女平等が宣言されていても、職場の慣行や家族内の役割分担の中で、女性が不利な立場に置かれる場面は少なくありません。農村部や保守的地域では、少女の早婚や教育機会の不足、家庭内暴力の問題なども根強く残っています。

このように、トルコの女性解放は、共和国成立期のアタテュルク改革によって一気に実現した「完結した過去の出来事」ではなく、その後も社会の変化とともに形を変えながら続いている長いプロセスだと見る必要があります。近代化と世俗化のもとで築かれた法的平等と、宗教的価値観や伝統の中で暮らす人びとの意識のあいだには、今もなお調整すべきギャップが存在します。

「女性解放(トルコ)」という用語を学ぶときには、アタテュルクによる先進的な改革と、その影で残され続けてきた課題とを両方あわせて思い浮かべることが大切です。イスラーム世界の中で早くから女性参政権や民法上の平等を実現した国としての側面と、多様な地域・階層にわたる現実の女性たちの生活とのあいだのズレを意識すると、トルコ社会の複雑な姿がより立体的に見えてくるようになります。