外交革命(がいこうかくめい)は、18世紀半ばにヨーロッパ列強の同盟関係が従来の常識を裏切る形で組み替えられた出来事を指す通称です。最大の特徴は、長らく対立関係にあったフランスとオーストリアが接近・同盟し、逆に伝統的にオーストリアを支援してきたイギリスがプロイセンと結ぶという「同盟の逆転」が短期間に起きた点にあります。背景には、シュレージエン問題を抱えるハプスブルク帝国の危機感、植民地と海上覇権をめぐる英仏対立の激化、プロイセンの台頭に対する評価の分裂がありました。この逆転は1756年の二つの協定—英普の「ウェストミンスター協約」と仏墺の「ヴェルサイユ条約」—で制度化され、七年戦争(1756〜63)の総力的衝突へ直結します。結果として、プロイセンの大国化とイギリスの海洋・植民地覇権が確立し、ハプスブルクは内政改革へ、フランスは財政危機の深化へと、それぞれ異なる帰結を迎えました。外交革命とは、列強の対外目標が「大陸の均衡」から「海と植民地」へと重心を移しつつあった転換点であり、宮廷政治・世論・財政・軍事が絡み合う18世紀国際政治の生きた実例でもあります。
前史と動機—継承戦争の後始末、植民地競合、同盟幻想の崩壊
外交革命の起点は、オーストリア継承戦争(1740〜48)の後始末にあります。神聖ローマ皇帝を世襲してきたハプスブルク家は、カール6世の死で男子継嗣を欠き、娘マリア・テレジアの相続(プラグマティック・サンクション)を諸国に承認させていました。しかし、即位直後にプロイセンのフリードリヒ2世がシュレージエンに侵攻、英仏・西欧諸国も自国利益を求めて参戦し、ヨーロッパと海外に戦火が広がりました。1748年のアーヘン和約で戦争は終わりましたが、肝心のシュレージエンはプロイセンが保持し、マリア・テレジアの屈辱と対普復讐の意思は消えませんでした。
この時点での同盟図式は、伝統的に「英・墺」対「仏・西・普」に近い枠組みでした。イギリスは大陸でオーストリアを支えつつ、本丸は海上交通と植民地の維持であり、フランスは大陸でも植民地でもイギリスと競合していました。ところが、1740年代の経験は両国にとって教訓的でした。イギリスは大陸介入のコストと成果の乖離を痛感し、フランスは「オーストリア弱体化=国益」という教条に揺らぎが生じます。なぜなら、プロイセンの急伸がライン方面の安全保障に新しい不安をもたらしたからです。
オーストリア側では、国政改革を進めるマリア・テレジアと宰相カウニッツが新路線を構想しました。彼らの目標は二つ、第一にシュレージエン奪回、第二にオーストリアの大陸的地位の回復です。そのためには、英墺提携に安住せず、敵対してきたフランスとでも手を握る現実主義が必要だと判断しました。カウニッツは駐仏大使としてサロンと宮廷ネットワークを耕し、ポンパドゥール夫人を通じた宮廷外交も動員して、フランスの対墺観の転換を促します。
イギリス側の事情も重要です。北米(オハイオ流域)やインドでの英仏対立は激化しており、イギリス政府は海軍・植民地戦略に資源を集中したいと考えていました。そこで、「大陸でオーストリアに肩入れし続けるより、最大の陸上脅威=フランスをラインの向こうに縛り付け、ドイツではプロイセンに抑えさせる方が得策ではないか」という発想が力を持ち始めます。こうして、同盟図式の「逆転」の論理が各国で熟し、1750年代半ば、二つの協定が相前後して結ばれる空気が整いました。
同盟の反転—ウェストミンスター協約とヴェルサイユ条約、その内実と衝撃
1756年1月、イギリスはプロイセンとウェストミンスター協約を締結しました。表向きはハノーファー(英王家の領邦)防衛とドイツ内への仏軍進入阻止を目的とする相互保障でしたが、実質的には「英普接近」の宣言であり、イギリスがオーストリアよりもプロイセンをドイツ秩序の要とみなす方向転換を意味しました。イギリスの狙いは、フランスの大陸介入を牽制しつつ、自国は海洋戦に軸足を移すことにありました。
これに対抗するように、同年5月、フランスとオーストリアは第一次ヴェルサイユ条約(防衛同盟)を結びます。ここでは、フランスがオーストリアの領土保全を認め、対普戦争の場合の支援を約束する一方、オーストリアはフランスに対英・対普の戦略で協調することを確認しました。翌1757年には条約は攻勢同盟へ格上げされ、ロシア・スウェーデン・ザクセンなども反普連合に連なります。この新同盟網は、人々に「天地がひっくり返った(Renversement des alliances)」という印象を与え、後世の「外交革命」という通称の源になりました。
反転の仕掛け人としては、オーストリアのカウニッツがよく知られますが、フランス宮廷におけるポンパドゥール夫人の影響、ルイ15世の対英感情、さらにロシア宮廷での反プロイセン感情も見逃せません。ロシアはバルトとポーランド問題でプロイセンを牽制したく、ウィーンとパリの接近は良い口実でした。プロイセンのフリードリヒ2世は、この包囲網が完成する前に先制攻撃を選び、ザクセンへ侵攻して七年戦争の火蓋を切ります。
この反転は、単に宮廷の気まぐれではありませんでした。フランスにとって、最大の敵は海上で覇権を争うイギリスであり、大陸でプロイセンを抑えるなら、オーストリアと手を組む合理性がありました。オーストリアにとっては、シュレージエン奪回のために、プロイセンを二正面から圧迫する構図が不可欠でした。イギリスは「海と植民地」の優先で大陸の負担を減らし、プロイセンは英資金と戦略的連携で持久戦を選ぶ—この役割分担が外交革命の実体です。
七年戦争の展開と帰結—海で勝った英、陸で耐えた普、改革へ向かう墺仏
外交革命の真価は、七年戦争(1756〜63)の結果に表れます。海上と海外では、イギリスが主導権を握りました。北米ではウィリアム・ピットの指導の下、英海軍が制海権を確保し、ルイブール陥落(1758)、ケベック占領(1759)などで仏領カナダを制圧します。インドでもプラッシーの戦い(1757)以降、東インド会社と現地同盟勢力が優位となり、フランスの拠点は縮小しました。カリブや西アフリカ、地中海でも英海軍の通商破壊と封鎖が効果を上げ、フランスの財政は圧迫されました。
一方、大陸ではプロイセンが多方面からの攻撃に晒されます。西ではフランス、南ではオーストリア、東ではロシアとスウェーデンが圧力を加え、一時はベルリンが占領されるなど危機に陥りました。それでもフリードリヒ2世は、機動戦と内線作戦で戦線を持ちこたえ、ロスバッハ(1757)で仏・神聖ローマ連合軍に、ロイテン(1757)で墺軍に連勝して主導権を奪い返します。決定的だったのは1762年のロシア側の「外交革命ならぬ宮廷革命」で、ピョートル3世の即位により反普強硬路線が反転、露普は講和し、プロイセンは背後の脅威から解放されました(いわゆる「神の御業」)。
1763年のパリ条約・フベルトゥスブルク条約で戦争は収束します。イギリスは北米東部とインドで優越を確立し、フランスはカナダを失って経済・財政に深い傷を負いました。プロイセンはシュレージエンの保有を再確認され、列強の座を不動のものとします。オーストリアは奪回に失敗したものの、国政改革(行政・財政・軍制・教育)へと舵を切り、のちのヨーゼフ2世の啓蒙専制へ連なっていきます。外交革命は、単なる同盟の組み替えを超えて、各国の国内改革の方向性を決める契機にもなったのです。
七年戦争の長期的効果は広範です。イギリスは覇権と負債を手に入れ、北米では課税政策が植民地社会の反発を招き、やがてアメリカ独立革命への導火線となります。フランスは復仇と海軍再建に執着し、アメリカ独立戦争での対英支援に踏み切りますが、これは新たな財政悪化を招き、1789年のフランス革命の経済的背景の一部になりました。プロイセンは軍事官僚国家としての性格を強め、ポーランド分割時代の主役へと飛躍します。オーストリアは多民族帝国としての再編に取り組み、バランス外交の老練さを磨きました。
評価と意義—「革命」たるゆえん、宮廷・世論・財政の三位一体
なぜ「外交革命」と呼ぶのか。それは、単に条約の相手が変わっただけでなく、外交の「前提」が入れ替わったからです。17世紀的な王朝間ライバル関係(ブルボン対ハプスブルク)という固定観念が、18世紀半ばには「海と植民地」という地球規模の利害に再編され、同盟は王朝の伝統ではなく戦略合理性で組まれ直しました。フランスにとっては、オーストリア敵視よりも対英競争が優先され、イギリスにとっては、大陸への恒常的な重装介入よりも、海軍・資金融通・傭兵補助金で戦争をアウトソースする方が合理的でした。オーストリアは宿敵と手を結ぶ柔軟さで国益を追い、プロイセンは小国的機動で大国の包囲を捌きました。この切り替えの速さと規模が、「革命」と呼ばれる理由です。
もう一つの要点は、外交が宮廷サロン、世論、財政技術(国債・租税)と結びついて動いたことです。カウニッツの宮廷工作やポンパドゥール夫人の影響力は、女性や社交界が政治を動かす18世紀特有の様相を映しています。同時に、印刷物とサロンの世論が戦争動員の正当性を支え、国家は国債・租税で長期戦を賄いました。つまり、外交革命は「紙の上の条約」ではなく、「社交—世論—財政—軍事」という回路が組み替わった事件でもありました。
総じて、外交革命は七年戦争への前奏曲にとどまらず、近代国際政治の作法が形成される過程を可視化する窓です。地理的に離れた戦域(北米・インド・カリブ・ヨーロッパ)が単一の同盟網で連結され、資源の配分が大陸戦と海上戦で戦略的に最適化される。宮廷の心理と世論、財政の制約と技術革新が、同盟選択と戦争の持続可能性を左右する—そうした18世紀の政治経済の現実が、外交革命という言葉の内側には詰まっています。現代史を学ぶ私たちにとっても、目的・手段・同盟の柔軟な組み合わせが国際秩序をどう動かすかを考える手掛かりになる事例です。

