上海クーデター(一般に「四・一二事件」「上海虐殺」とも呼ばれる、1927年4月の蒋介石による反共クーデター)は、第一次国共合作の終焉を画し、中国革命の進路を都市の労働運動中心から「農村包囲・武装闘争」へと大きく転換させた事件です。北伐軍の上海入城に合わせ、国民党右派・地方軍閥・秘密結社(青幇)・租界警察・上海資本家層などが複合的に連携し、中国共産党と労働組合・左派市民の組織を暴力的に解体しました。数千人規模の死傷・逮捕と、白色テロの全国展開は、武漢の国民政府(左派)と南京の国民政府(右派)の対立を決定づけ、以後の中国政治を長く規定します。本稿では、背景(国共合作と北伐・上海の都市構造)、経過(3月〜4月の労働運動と4月12日の武装弾圧)、波及(南京政府の成立・白色テロの拡大)、論点(青幇と資本家、租界当局、コミンテルン方針)、歴史的意義(中華民国の国家形成・中国共産党の戦略転換)を、できるだけわかりやすく整理します。
背景――国共合作下の北伐と、租界都市としての上海
第一次国共合作(1924–1927年)は、孫文の提唱とコミンテルンの斡旋により、中国国民党と中国共産党が反帝・反軍閥の旗の下で協力した枠組みでした。広東の黄埔軍官学校で育成された将校と、ソ連軍事顧問の支援、労働者・学生の動員が三位一体となり、1926年夏から北伐が開始されます。北伐軍は湖南・湖北・江西を突破し、長江流域の諸都市へ勢力を伸ばしました。
上海は、英・仏の租界を中心に近代産業と金融が集中した巨大港湾都市です。紡績・機械・船舶・印刷・食料加工など多様な工場が密集し、労働者階級が厚みを増しました。ここでは1925年の五・三〇事件以降、労働運動が急進化し、紡績労働者・海員・車夫などのストライキが連鎖します。共産党は総工会を通じて組織化を進め、北伐軍の接近に合わせて「第三次武装蜂起(1927年3月)」を成功させ、工人糾察隊が市内の交通・治安の一部を掌握するに至りました。
しかし、国民党内部では右派と左派の亀裂が広がっていました。ソ連の支援を受ける武漢政府(汪兆銘・唐生智系)と、江西・浙江・江蘇の財界・地方勢力と結ぶ蒋介石の南京系が対立し、上海の秩序と利害をめぐって緊張が高まります。上海の資本家・商工業者は、労働争議の激化に強い危機感を持ち、租界の治安機構と非合法勢力(青幇)に保守秩序の回復を期待しました。蒋介石にとっても、上海の金融・税収・関税収入を握ることは北伐の継続と自派の国家形成に決定的でした。
経過――3月の蜂起から4月12日へ、労働組織の解体と白色テロ
1927年3月、総工会は第三次武装蜂起を成功させ、市内の警察署や要地を掌握、軍閥孫伝芳の残余勢力を圧迫しました。北伐軍本隊の上海入城は目前に迫り、労働者側は「革命政権」の樹立を期待します。しかし蒋介石は、労働者武装を自派の統制下に置くことを優先し、上海への入城を遅らせて軍警・青幇・商人団体との調整を進めました。青幇の杜月笙・黄金融らは、金融・流通・港湾労働への影響力を通じて、右派との利害一致を確認します。
4月12日未明、転回点が訪れます。青幇の私兵と警察、右派系の兵士が一斉に総工会・労働組合事務所・糾察隊の拠点を襲撃し、バリケードは機関銃と迫撃で破られました。逮捕・拉致・銃撃が連鎖し、同日から数日にわたって左派の拠点は掃討されます。租界当局は、表向き「秩序回復」を理由に中立を装いつつ、実務では右派側の行動を黙認・便宜供与し、負傷者・逃亡者の収容や引き渡しでも複雑に関与しました。共産党・総工会の指導者層は地下化を強いられ、一部は処刑、一部は租界や内地へと脱出します。
同時期、蒋介石は南京に拠点を置く国民政府の確立を急ぎ、左派色の強い武漢政府への対抗軸を明確化しました。上海制圧は、関税収入・外資との交渉・金融徴発・兵站調達を自派の手に引き寄せる意味を持ち、南京政府は「中国唯一の合法政府」を自称する行政的基盤を獲得します。4月下旬から5月にかけ、上海を皮切りに各地で共産党員・労働運動家・学生への弾圧が広がり、いわゆる「清党」作戦が展開されました。これが全国規模の白色テロの起点となります。
波及――武漢政府との決裂、国共分裂の確定と共産党の戦略転換
上海クーデターは、国共合作の実質的な終焉を意味しました。武漢政府は当初、蒋介石の行動を非難しつつも、軍事的現実とソ連の対中方針の揺れに翻弄され、最終的に7月には共産党員の政府・軍からの排除(「七一五破裂」)へと傾きます。こうして、国民党全体が反共路線へ収斂し、共産党は都市の公開活動の場を失いました。
壊滅的打撃を受けた共産党は、都市総罷業・都市武装蜂起を中核とするコミンテルンの最初の路線から、農村での根拠地建設と武装闘争へと戦略を移します。1927年秋の南昌起義、秋収起義、広州起義などは、直接には失敗に終わりながらも、各地の武装部隊と農民組織の糸口を残しました。毛沢東は湖南の農民運動報告で農村の革命主体を強調し、井岡山での根拠地づくりへ踏み出します。周恩来・朱徳・彭徳懐らの軍事・政治幹部も、游撃戦・根拠地戦略に徐々に合流し、後の長征を経て「農村から都市を包囲する」長期戦の構想が固まっていきました。
一方、蒋介石の南京国民政府は、上海を財政・外交のハブとして軍事と行政の再編を進め、関税自主権の回復交渉、関税・塩税の抵当による借款調達、鉄道・電信の統制強化、通貨制度の整備を進めます。浙江財閥(宋家・陳家など)や江蘇の実業家、外国資本と連携した「国家・市場・租界」の三者均衡が、1930年代前半の南京十年の基盤となりました。ただし、軍閥残余との内戦(中原大戦等)や満洲事変後の対日問題は、国家形成を重ねて阻む外在的要因として続きます。
上海という舞台――租界警察・青幇・資本家層の役割と都市空間
上海クーデターの特質は、近代大都市が持つ制度と非制度の両側面が動員された点にあります。英仏租界の治外法権体制、国際共同租界の工部局(Municipal Council)と警察、税関(海関)と波止場の労務統制は、表向き「公共秩序」の名の下に行動し、他方で青幇や民団といった非合法組織は、暴力の外注先として機能しました。青幇は阿片・賭博・運送・港湾労務の利権ネットワークを背景に、動員・情報・恐喝の三点で右派に貢献し、事件後も上海の「影の秩序」を担います。
資本家層は、ストライキによる損害と生産の中断からの速やかな回復を望み、右派との交渉で同盟を結びました。工場主・銀行家・輸出入商は、寄付名目の政治献金や「治安費」の拠出を通じてクーデターのコストを分担します。結果として、労働条件の改善要求は後退し、組合活動の自由は大きく制限されました。一方で租界当局は国際世論と利権のバランスを取り、露骨な政治介入の否定と、実務的協力の両立を図る「二枚舌」の姿勢を貫きました。この都市政治の在り方は、以後の上海統治の型を決定づけます。
論点――蒋介石の動機、コミンテルンの誤算、暴力の委託構造
歴史学上の主要論点は三つに整理できます。第一に、蒋介石の動機と決断過程です。彼の視点からすれば、上海の財政・外交資源を確保しない限り北伐と国家統一は不可能であり、労働運動の自立化は国家形成の脅威でした。右派・資本家・青幇との同盟は、短期に秩序と資金を得る合理的選択だった、とする解釈があります。他方で、この選択が国民党の社会的基盤を狭め、長期の内戦への道を開いたという批判も強いです。
第二に、コミンテルンの路線と共産党の都市戦術の誤算です。都市蜂起と労働者同盟に賭けた方針は、上海の特殊な租界体制と右派の動員力を過小評価していました。統一戦線内での政治的安全装置(たとえば租界内の拠点の防衛、情報戦、逃走経路の確保)が脆弱で、武装糾察隊は重火器と継戦能力で大きく劣勢でした。とはいえ、この失敗が逆に農村路線の確立を促したという、歴史の皮肉も指摘されます。
第三に、暴力の委託構造です。国家・租界・秘密結社の三者が、暴力の実行を分担し、責任を拡散させる仕組みを持っていたことが、事件の特徴でした。表向きの法秩序を維持しつつ、外注先に物理的排除をさせるモデルは、近代都市における非合法統治の典型であり、上海の経験は他地域の都市政治を理解するうえでも示唆的です。
意義と帰結――国家形成の現実主義と革命の再編
上海クーデターの直接の帰結は、南京国民政府の成立と国共分裂の確定でした。より長い時間軸で見れば、(1)中国の国家形成が都市財政・租界・外国資本の連立によって推進されたこと、(2)中国共産党が都市中心の革命から農村包囲の長期戦へ戦略転換したこと、という二つの構造的変化を導きました。1930年代の上海は「近代中国のショーウィンドウ」として栄えますが、その背後では労働の統制と政治的抑圧が制度化されました。同時に、共産党は江西ソビエト区・長征・延安整風を経て独自の国家観・軍民関係を育て、1949年の人民共和国成立へ至ります。
事件はまた、連合・統一戦線の難しさを教えます。戦略目標が一致しても、社会秩序と利害調整の方法が一致しなければ、同盟は脆い。上海のケースでは、都市の特殊な制度環境(租界と国際資本)が、その脆さを決定的に拡大しました。今日の視点からは、暴力のエスカレーションと情報戦の管理、国際都市における多主体調整の難易度、社会運動の安全保障と倫理の問題を考える素材にもなります。
総じて、上海クーデターは「国家の現実主義」と「革命の再編」が正面衝突した瞬間でした。クーデターの即効性は、国家の短期的統合を進めた一方、別の形の革命を山間の村落へ押しやり、より長く激しい内戦の時代を用意しました。上海の工場とバリケード、租界の街路灯、黄浦江の波、青幇の影、南京の公文書――それらの断片は、近代中国が選び取った困難な道のりの輪郭を今も照らし出しています。

