上海事変 – 世界史用語集

「上海事変」は、狭義には1932年の第一次上海事変(いわゆる一・二八事変)を、広義には1937年の第二次上海事変(淞滬会戦)までを含む総称として用いられます。両者はいずれも近代アジア最大級の国際都市・上海を戦場にした日中衝突であり、1932年は満州事変直後の局地戦として、1937年は盧溝橋事件に続く全面戦争(支那事変/日中戦争)への入口として位置づけられます。英仏の租界と中国行政区が入り組む都市空間、海軍・陸軍・空軍が交錯する兵種運用、国際世論の圧力と国内政治の思惑が重なり、民間人に甚大な被害を与えた点で、両事変は性格を共有します。他方で、1932年は国際連盟・列強の仲裁で停戦に至り、1937年は長期の総力戦へ雪崩を打つという帰結の違いが際立ちます。本稿では、都市の構造と前史、1932年の第一次、1937年の第二次、そして影響と記憶という流れで、要点を整理します。

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舞台の理解――租界都市・上海の構造と前史

近代の上海は、黄浦江と蘇州河が合流する河港に、英仏などの治外法権区域(国際共同租界・仏租界)と、中国側の行政区(閘北=チャペイ、南市など)が隣接していました。租界は工部局が自治し、外国海軍の揚子江艦隊や租界警察が治安を担い、銀行・証券・紡績・造船などの近代産業が集積しました。他方で、中国側の行政区はナショナリズムの胎動と労働運動が盛んで、1925年の五・三〇事件以降、政治ストやデモが頻発します。こうした「二重都市」の境界に沿って、緊張と利害が日常的に積み重なっていました。

1931年の満州事変で日中関係は急速に悪化し、上海でも抗日ボイコットや学生運動が拡大しました。海軍の陸戦隊は日本人居留民保護の名目で増強され、中国側の治安当局は言論統制と集会規制を強化します。国際都市であるがゆえに、衝突は即座に世界のニュースになり、列強の利害と世論が事件の進行に影響を与える構造が出来していました。

第一次上海事変(1932)――一・二八事変と停戦協定

1932年1月、南京国民政府下の反日運動が昂進し、上海でも日本人僧侶襲撃事件などで緊張が極点に達しました。1月28日深夜、中国側の部隊(主力は十九路軍)が日本海軍陸戦隊の守備線に迫り、交戦が始まります。海軍第三艦隊は艦砲射撃と航空隊による支援で陸戦隊を援護し、戦場は閘北(チャペイ)一帯の市街へ広がりました。木造家屋の密集する地区での砲爆撃は大火を誘発し、多数の住民が被災・流離しました。

十九路軍は蔡廷鍇・蒋光鼐の指揮で善戦し、バリケードと市街地の防御を固めて粘りました。日本側は海軍中心の増援に陸軍部隊が加わり、二月中旬にかけて市街戦・渡河戦が続きます。列強は事態の拡大を恐れ、国際共同租界の外周に中立帯を設け、停戦斡旋に動きました。結果、5月5日に「上海停戦協定(淞滬停戦協定)」が成立し、上海周辺に非武装地帯を設定、国民政府軍の撤退、日本側の陸戦隊は租界防衛の範囲に限定することなどが取り決められました。こうして第一次事変は、一応の局地終息を見ます。

同協定は、国際連盟や列強の影響力がまだ機能していた証でもありました。しかし、非武装地帯は中国の主権と治安運用に恒常的な制約をかけ、日本側の居留地防衛という名のプレゼンスは維持されました。これは1937年の再衝突へ向けた「火種の固定化」でもあったのです。

第二次上海事変(1937)――淞滬会戦と全面戦争への転落

1937年7月の盧溝橋事件で華北が戦場化すると、蒋介石は「首都南京の前衛」であり対外的象徴でもある上海で抗戦の意思を示すことを選びました。8月13日、国民政府軍と日本海軍陸戦隊の間で銃撃戦が発生し、第二次上海事変が勃発します。当初は租界周辺の限定的交戦でしたが、双方が大兵力を投入して主戦場化しました。中国側は中央軍のエリート師団(第87・88師等)を投入して市街の要点を固守し、日本側は海軍陸戦隊の増強に加え、陸軍の師団と艦砲・航空戦力を動員しました。

8月14日には中国空軍の爆撃が誤爆となって国際共同租界に多数の民間人犠牲を出し、「ブラック・サタデー」と呼ばれる惨事となりました。以後も砲爆撃と火災で市街地は破壊され、避難民は蘇州河沿いや租界に殺到します。中国軍は四行倉庫の防衛戦などで奮闘し、国際社会へ抗戦の姿を可視化しましたが、10月以降、日本陸軍の大規模上陸(呉淞・宝山方面)と側背への回り込み、増援の連続投入で戦線は次第に崩れ、11月上旬までに上海の主要地区は日本側の手に落ちます。

上海陥落後、日本軍は長江沿いに進撃を続け、12月には南京を攻略しました(こののち南京事件が発生します)。第二次上海事変は、限定戦の枠を超えて日中全面戦争の長期化を決定づけ、国際都市が持つ避難・報道・外交の機能が全面戦の宣伝・プロパガンダの舞台へ転化する契機となりました。租界そのものは中立の枠組みを辛うじて維持しますが、事実上は日本軍の影響圏に置かれ、都市の生活は統制と欠乏へ向かいます。

影響・論点・記憶――国際政治、都市社会、戦争の可視化

第一次と第二次の事変を貫く論点は、(1)国際都市における治外法権と主権の衝突、(2)海軍・陸軍・空軍の合同運用と市街戦の悲惨、(3)国際世論と停戦・拡大の分岐、の三点です。1932年は列強の仲裁が働きましたが、1937年は欧州危機の深まりもあって実効的な抑止力を発揮できず、メディアが伝える惨禍が戦争の拡大を止められませんでした。とりわけ写真・ニュース映画・特派員の活躍は、上海を世界の「窓」にしましたが、その可視化は同時にプロパガンダ合戦を激化させました。

都市社会では、工場労働者・商人・外国人居留民・新聞社・宣教師・学生・ヤミ市場の仲買にいたるまで、あらゆる人が戦争の当事者に巻き込まれました。避難と復帰、失業と徴用、物価高騰と配給、空襲と防空壕、検閲と流言――近代都市の脆弱性と回復力が同時に露わになりました。第一次の停戦協定で設けられた非武装帯や権限配分は、平時の街路地図に「見えない境界」を刻み、第二次の大規模戦闘はその境界の脆さを暴きました。

軍事史的には、1932年の海軍主導の対地攻撃と市街防御、1937年の大兵力・長期市街戦・上陸作戦の連携が比較の軸になります。日本側にとって1932年は海軍の即応・航空の効果が目立ち、1937年は陸軍との統合作戦の限界(補給・指揮の混線)と、最終的な兵力差による押し切りが記憶されます。中国側にとって1932年は十九路軍の善戦が民心を鼓舞し、1937年は中央軍の決戦選好が人的損失を拡大する一方、国際同情を集める政治効果を生みました。

記憶の面では、上海の街路・河岸・倉庫・駅舎・写真が、近代戦争のイメージを規定しました。四行倉庫の跡地や記念施設、蘇州河沿いの旧防衛線、租界の建築群は、今日も戦争の痕跡を可視化します。日本・中国・欧米の教科書とメディアは、それぞれの物語を重ねますが、民間人被害と都市破壊の事実は共通です。上海事変を学ぶことは、国際都市が持つ栄光と脆さ、戦争が境界を曖昧にしながら生活の細部を侵食する過程を理解する手がかりになります。

総じて、上海事変は「都市が戦場になる」ときに生じる政治・軍事・社会の一体化を、鮮烈に示した事件でした。1932年は国際政治の梃子でいったん止まり、1937年はその梃子が折れて全面戦争へ転落しました。租界の街灯と黄浦江の水面、燃える閘北の家並、避難列車と検問、報道写真のフラッシュ――これらの断片は、20世紀アジアの分岐点としての上海を今も物語っています。