ギリシア人(Hellenes/Έλληνες)は、エーゲ海世界を中心にギリシア語を共有し、神話・宗教・風習・競技・文字文化などを通じて独自の共同性を培ってきた人びとを指す用語です。古代のポリス市民からヘレニズム期の地中海・オリエントの住民、ビザンツ帝国の臣民、オスマン帝国の「ルーム(ローマ人)」共同体、そして近代以降のギリシャ共和国と世界のディアスポラに連なる長い連続性があります。血統や外見で一線を引くよりも、言語・宗教・法慣習・記憶の共有が共同体の核を成してきた点が特徴です。以下では、名称と起源、古代の形成と拡張、ローマ/ビザンツ/オスマン期の継承と変容、近代国家とディアスポラという流れで、ギリシア人という歴史的主体の輪郭をわかりやすく整理します。
名称と起源:ヘレーネスという自己称と「ギリシア人」
ギリシア人の自称は「ヘレーネス(Ἕλληνες)」です。神話的にはデウカリオンの子ヘレーンを祖とする諸部族(ドーリス、アイオリス、イオニア、アカイア)が広がったと説明されますが、歴史学的には、前2千年紀末のミュケナイ文明の崩壊後に各地の方言共同体が再編され、地理的・文化的に近接する諸集団が次第に「ヘレーネス」という広い帰属意識を育てたと理解されます。外称としては、ラテン語のGraeci(グラエキ)が中世ラテン語・諸国語を経て「ギリシア人/Greeks」となり、日本語の慣用もこれに従います。自称と外称の二重性は、彼らが自分たちをどう定義し、周囲からどう見られたかを考える鍵になります。
共通のしるしは、第一にギリシア語です。アイオリス・イオニア・ドーリスなどの方言差はありましたが、アルファベットで書かれた叙事詩・抒情詩・演劇・哲学・歴史叙述が、互いに読まれ引用されることで文化圏を結びました。第二に、宗教と祭礼です。オリュンポス十二神への信仰、デルフォイの神託、全ギリシア的競技(オリンピア・ネメア・イストミア・ピュティア)への参加は、ポリスの違いを超えて「ヘレーネスであること」を可視化しました。第三に、生活技法と規範の共有です。ポリスの公民としての教育(パイデイア)、議論と説得の技法、戦法(重装歩兵のファランクス)や居住の様式が、相互模倣と競争の中で洗練されました。
同時に、ギリシア人は一枚岩ではありませんでした。山海が多い地形は地域分化を促し、ポリスごとの制度(スパルタの寡頭制、アテナイの民主政など)や生活倫理はしばしば対照的でした。内戦や同盟抗争(ペロポネソス戦争)は、「ヘレーネス同士」の相克を浮き彫りにし、他方で、対ペルシア戦争のような外敵への共同抵抗は、〈ヘラス〉の自己意識を高めました。こうした緊張と連帯の両面が、古代ギリシア人の政治文化を形づくりました。
古代の形成と拡張:ポリス、植民、市民という枠組み
前8~6世紀、ポリス(都市国家)が各地に形成され、アゴラ(広場)を中心とする政治共同体が整いました。市民は軍役・参政の義務と権利を共有し、奴隷・在留外人(メトイコイ)・女性は限定的な地位に置かれました。アテナイではソロン・クレイステネスの改革を経て、前5世紀に直接民主政が成熟し、民会・評議会・民衆裁判所が公的意思決定を担いました。スパルタでは少数の市民戦士に支えられた混合政体が維持され、厳格な教育と共同食事が身分秩序を固めました。これらの多様な制度実験は、ギリシア人の政治的想像力の広がりを示します。
この時期、ギリシア人はエーゲ海を超えて植民(アポイキア)を進め、黒海沿岸、シチリア、南イタリア(マグナ・グラエキア)に新都市を建てました。植民は単なる人口移動ではなく、母市の制度・宗教・言語を移植しつつも、新天地の地理・隣人・交易に応じて柔軟に変化しました。海上交易のネットワークは、ワイン・オリーブ油・陶器・金属製品とともに文字・度量衡・芸術様式を運び、拠点間の往来が共通文化を厚くしました。他方、先住民との摩擦や同化、他民族との婚姻・共存も進み、「ギリシア人であること」は境界の外側に向けて交渉的に定義され続けました。
知の世界では、自然哲学・数学・医術・歴史記述・演劇・修辞学が開花し、「問うこと・議論すること」が市民生活の中核に置かれました。ホメロスの叙事詩は英雄的価値を歌い、ヘロドトスは民族誌的関心で世界を記し、トゥキュディデスは権力と人間性を冷徹に描きました。ソクラテス・プラトン・アリストテレスの系譜は、倫理・政治・形而上学・論理学を体系化し、アテナイの公民生活と学知が密接に連動していたことを物語ります。芸術では、神殿建築・彫刻・陶器の図像が共同体のアイデンティティを視覚化しました。
アレクサンドロス大王の遠征(前4世紀末)は、ギリシア人の世界を一変させました。コイネー(共通語)を媒介に、エジプトからメソポタミア、バクトリアに至る広大な領域で、ギリシア語文化が官僚制・都市計画・学術機関とともに広がります。アレクサンドリアのムセイオンと図書館に象徴される知の統合、彫像・絵画・演劇の新様式、混合宗教(セラピス信仰など)は、ギリシア人が異文化と交渉しつつ多中心的世界に適応した姿でした。ローマの支配下でも、東地中海ではギリシア語が学知と商業の言語として優位を保ち、「ギリシア人」は文化的職能集団として帝国全体に影響を与えました。
継承と変容:ローマの〈ギリシア人〉、ビザンツの〈ローマ人〉、オスマンの〈ルーム〉
ローマ帝国はギリシア世界を征服しましたが、文化面では「ギリシアに征服されたローマ」と称されるほどギリシア文化の影響を受けました。教育・医療・芸術・哲学の専門家としてギリシア人は重用され、上流層の教養(パイデイア)はギリシア語文献の素養と不可分でした。帝国の東半では行政・司法・教会でギリシア語が優越し、やがてビザンツ帝国(東ローマ)において公用語として定着します。ここで重要なのは、ビザンツの人びとが自らを「ローマ人(Ῥωμαῖοι)」と称しつつ、言語と信仰の面で明確にギリシア的伝統を継いだことです。市民としての正統信仰(ギリシア正教)は、異端・イスラム・ラテン世界との境界を画し、共同体の核となりました。
1453年のコンスタンティノープル陥落後、ギリシア人はオスマン帝国の統治下で「ルーム(ローマ人)」として宗教共同体(ミッレット)に編成され、総主教座が民事・宗教の自治を担いました。交易・金融・航海の技能を活かし、エーゲ海・黒海・地中海の港市に商人ディアスポラが広がります。ファナリオットと呼ばれるコンスタンティノープルのギリシア人エリートは、通訳・行政官として帝国に仕え、同時にギリシア語教育と印刷・学知の復興を支えました。オスマン秩序は、ギリシア人の社会的上昇と抑圧の双方を内包し、地域ごとの多様な生の形を生みました。
この長い時代のあいだに、「ギリシア人」の境界は言語と宗教の二重の輪で描かれました。ギリシア語話者であること、正教徒であることが、たとえトルコ語・スラヴ語・アルバニア語が日常語であっても、自己認識の核を成す地域もありました。小アジア西岸、ポントス(黒海南岸)、カッパドキアなどには、方言の多様性(ポントス語、カッパドキア・ギリシア語、ツァコン語)を維持する共同体が残り、都市と農村、海と山で経済基盤の違いが分化しました。ユダヤ人・アルメニア人など他のディアスポラとの共生と競争も、近世のギリシア人の経験の一部でした。
近代国民国家とディアスポラ:独立、拡張、縮約、そして世界へ
18~19世紀、啓蒙と商業ネットワーク、ディアスポラの資本が結びついてギリシア独立運動が高まり、1821年に蜂起、列強の介入と内戦を経て、1830年に独立国家が成立しました。新国家は古典ギリシアの記憶を国民の物語に組み込みつつ、言語政策(カタレヴーサとディモチキ)、教育制度、正教会の独立(コンスタンティノープル総主教座からの自立)を通じて「ギリシア人」を再編しました。19~20世紀初頭には「大ギリシア主義(メガリ・イデア)」の下で領域拡張を目指し、イオニア諸島、テッサリア、マケドニア南部、クレタなどを併合しますが、小アジアでのギリシア=トルコ戦争(1919–22)の敗北により、アナトリアのギリシア人社会は壊滅的打撃を受けました。
1923年のローザンヌ条約にもとづく強制的住民交換は、アナトリアの正教徒約100万人とギリシアのムスリム約40万人を本国へ移動させ、近代ギリシア社会の民族宗教構成を一変させました。ポントスやスミルナ(イズミル)、コンスタンティノープル周辺で栄えたギリシア人コミュニティは縮小し、ギリシア本土の都市・農村に新住民が流入、経済・文化に長期の影響を残しました。第二次大戦と内戦は社会を分断しましたが、戦後は都市化・教育普及・海外移民が進み、ドイツ、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに大規模なギリシア系ディアスポラが形成されました。彼らはレストラン、海運、建設、学術・芸術など多様な分野で活躍し、宗教(正教会)・言語学校・文化祭を通じてアイデンティティを維持しています。
現代のギリシア人を特徴づける要素は、(1)言語の連続性(古典語語彙を含む標準現代ギリシア語と地方方言の共存)、(2)宗教と儀礼(洗礼・聖人祭・復活祭などの年中行事)、(3)家族・地域の結束(移民ネットワークや村落共同体の互助)、(4)地中海的食文化(オリーブ油・ワイン・魚介・野菜とハーブ)、(5)海と都市の二重性(海運・観光・サービスと工芸・農業)の組み合わせにあります。EU加盟後は、経済危機や難民流入、地域外交の緊張などに直面しつつ、欧州の中の小国としての政策選択と、ディアスポラを含む広い文化圏の維持のあいだでバランスを取っています。
「だれがギリシア人か」という問いは、時代ごとに定義が揺れました。古代はポリス市民資格、ヘレニズム以降は言語と教養、ビザンツとオスマンでは宗教共同体、近代は国籍と教育、現代は多重の帰属(国籍・言語・文化実践)の重ね合わせで理解されます。血統や遺伝学の単純化に依拠せず、歴史的経験・制度・文化実践の積層として捉えることが、誤解を避けるうえで重要です。
総じて、ギリシア人とは、エーゲ海世界に根を下ろしながら、移動と交易・征服と被征服・信仰と教育・国家とディアスポラの往還の中で、言語と記憶を継いできた人びとです。古典の栄光だけでなく、ローマ人としての千年、オスマン下の幾世代、移民としての新天地という多様な局面を見通すとき、「ギリシア人」の姿は、固定された民族像ではなく、連続と変容をともに生きる歴史的主体として立ち上がって見えてきます。

