「イラン石油国有化」とは、1951年にイラン議会が英系資本のアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)の利権を全面的に国有化し、石油の主権を国家に取り戻そうとした一連の政治・経済過程を指します。中心人物はムハンマド・モサッデク首相で、国有化法の成立から英の禁輸・封鎖(アバーダーン危機)、国際司法裁判所での争い、そして1953年の政変によるモサッデク失脚と体制の再編までが連続した物語です。国有化は単なる産業政策ではなく、19世紀以来の不平等な利権構造への拒絶、議会主権と資源ナショナリズムの主張、冷戦下の外交ゲームが折り重なった出来事でした。のちにOPECの誕生や産油国の「資源主権」の理念へつながる出発点としても位置づけられますが、当時のイラン社会には経済封鎖や失業、政治的分断という厳しい代償ももたらしました。
前史と背景――ダルシー譲与から戦後の不満の堆積まで
イランの近代石油史は、1901年のいわゆるダルシー譲与にさかのぼります。英国人実業家ダルシーが広範囲な探鉱・採掘の権利を得て、1908年に南西部マスジェド・ソレイマーンで商業油田を発見しました。1909年にはアングロ・ペルシアン石油会社(のちのAIOC)が発足し、第一次世界大戦期には英国政府が同社の筆頭株主となって国家的戦略資産として位置づけます。アバーダーンに建設された巨大精油所は、20世紀前半の世界有数の規模を誇りました。
他方で、王権と会社の結んだ利権契約は、イラン側にとって利益配分や税制、監督権の面で著しく不利だと受け止められました。1933年にレザ・シャーの下で改定された新契約は期間短縮や投資拡大を約したものの、収益の透明性や労働条件、国内産業への波及に不満が残ります。第二次世界大戦中の連合国進駐(1941年)とレザ・シャー退位を経て、若いモハンマド・レザ・シャーの下で政治は議会と政党、宗教勢力、労働運動が活発化し、南部油田地帯では労働者のストや待遇改善要求が高まりました。世界で広がり始めた50/50利益配分モデル(産油国と会社の折半)も「比較対象」として意識され、AIOCへの不満は政治的な運動へと昇華していきます。
この時期、民族戦線(ジャブハ・エ・メッリー)を軸に、名望家政治家モサッデク、宗教指導者カシャーニー師、都市中産層や学生、労働者が「利権の是正」を求める大同団結を形成しました。議会内では、監査権の強化や税収の増額、国内精製能力の拡充を求める声が相次ぎ、やがて「国有化」こそが恒久的解決だという意見が主流になっていきます。
国有化の決定とアバーダーン危機――議会決議、モサッデク内閣、対英対立
1951年春、マジュレス(下院)と元老院は、イラン全土の石油産業を国有化する法律を可決しました。続いてモサッデクが首相に選出され、国有化の実施を統括するため〈イラン国営石油会社(NIOC)〉の前身となる機構が整えられます。モサッデク内閣は、AIOCとの補償交渉を進める一方、労働者の雇用維持とアバーダーン精油所の運転継続を目指しましたが、対立は急速に先鋭化しました。
英国政府とAIOCは、保険・海運・技術者の供給網を通じてイラン産原油の流通を事実上止める経済的圧力をかけ、アバーダーンからの撤収を段階的に進めました。英海軍の展開と周辺国での法的・外交的働きかけにより、イラン産原油を積むタンカーは保険や寄港の面で深刻な障害に直面します。世界最大級のアバーダーン精油所は原料確保と部材調達ができず、操業停止に追い込まれ、産油地の地域経済は失業と収入減に苦しみました。
英国はハーグの国際司法裁判所(ICJ)に提訴して国有化の不法を主張しましたが、1952年の判決は管轄権を否定し、イラン側の主張に軍配が上がりました。それでも実務面では禁輸の効果が勝り、イランは外貨収入の激減と財政の緊張に直面します。モサッデクは緊縮と通貨管理、徴税強化でしのぎつつ、国際世論に向けて「資源主権」の理念を訴え続けました。しかし、国内では王宮・議会・宗教勢力・左派(トゥーデ党)の間で思惑が分裂し、政治的基盤の維持が難しくなっていきます。
国内政治の揺らぎと1953年の政変――連立の崩壊、街頭と宮廷、外部関与
モサッデク政権の初期は広範な支持に支えられていましたが、禁輸長期化に伴う景気の悪化や失業の増大、行政改革をめぐる利害対立で、連立の綻びが目立ち始めました。国王の権限をめぐる憲法解釈、軍と治安機構の統制、宗教勢力との距離、左派の台頭への警戒など、複数の火種が同時に燃え上がります。モサッデクは非常権限の付与を議会に求め、王権の政治介入を抑えようとしましたが、これが反発を招き、カシャーニーら一部の同盟者とも袂を分かちました。
冷戦下で英米は、イランの政治的方向が自陣営に不利に傾くことを警戒していました。1953年夏、王室派・部族勢力の一部、治安機構内の反モサッデク派、街頭動員を担う暴力集団などが複雑に絡み合い、政変の力学が動き出します。8月の緊迫の中で国王はいったん国外に退避し、首都ではクーデター未遂と反クーデターが入り乱れる混乱が生じました。最終的に、軍と警察の中の反モサッデク派が主導権を握り、モサッデクは逮捕・裁判にかけられ、自宅軟禁に置かれます。これにより、国有化を旗印とした民主的改革の試みは頓挫し、王政の権威は回復され、議会・政党・メディアはより強い統制のもとに再編されました。
1953年の出来事には外部の情報機関の関与があったことが後年明らかになり、国内外の評価は今なお分かれます。ただ、政変の成否を決めた直接の舞台は、最終的には国内の軍・治安・街頭・宮廷・宗教勢力の相互作用だったことも事実で、外圧と内紛が絡み合った複合的危機として理解されます。
戦後処理と「コンソーシアム」――国営会社の存立、利権構造の再編、技術の国産化
政変後、イランは石油部門の完全な国有運営には戻れませんでしたが、国有化の法理自体が撤回されたわけでもありませんでした。1954年、新たな枠組みとして、イラン側に〈イラン国営石油会社(NIOC)〉を据えつつ、採掘・精製・販売の実務を国際石油会社の共同体(いわゆる「コンソーシアム」)が担う折衷モデルが成立します。英国系(BP)が大株主の一角を占め、オランダ系・仏系、米系主要会社が合計の大きなシェアを持ち、対価としてイランは税収・ロイヤルティ・利益分配を受け取る仕組みでした。
この新体制は、主権の象徴としてのNIOCを残しつつも、価格決定や市場アクセス、技術の移転などの核心に国際資本の影響力を温存させるものでした。他方、イラン行政と技術者層は、コンソーシアムの下で設備・操業・会計・貿易のノウハウを学び、石油大学や技術訓練を通じて中長期的な人材育成を進めます。アバーダーン精油所の再稼働と輸出の回復は、財政・社会に一定の安定を取り戻しましたが、国有化の理念から見ると「半歩後退・半歩前進」という複雑な評価になりました。
国際的には、この合意は50/50利益配分モデルの普及と、産油国が国営会社を持ちながらメジャーズと折衝する標準形の一つを示しました。1960年のOPEC創設へと続く流れの中で、イラン国有化の記憶は、多国間で価格・生産・税制を協議する産油国側の結束の論理資源として活用されます。
国有化をめぐる論点――法と正統性、経済の現実、社会の期待
イラン石油国有化は、国際法・契約法、経済政策、政治正統性の三つの面で論点を残しました。法の面では、旧契約の有効性、補償の方法、国際仲裁の射程が争われ、ICJの管轄権否定は「国家の主権的立法行為」の空間を一定程度確認した意義を持ちました。経済の面では、短期の禁輸と技術遮断がもたらす甚大なコストと、長期の資源主権確立の利益をどう天秤にかけるかが難題でした。政治の面では、議会主権と行政府、王権と政党・宗教、街頭動員と法治のバランスをどう保つかが問われ、ここでの失敗が政変の土壌となりました。
国有化のスローガンは社会の誇りと結びつき、都市の中間層や学生、南西部の労働者に強い共感を呼びました。他方、収入の途絶と失業、物価上昇は生活を直撃し、具体的な行政能力(税の徴収、補助金の配分、外貨の調達、物資の配給)が政治支持の生命線であることを示しました。これらの経験は、後の時代にイランが資源政策を設計する際の現実的な参照点となります。
その後への連続――OPEC、資源ナショナリズム、1970年代の再国有化の波
1950年代末から1960年代にかけて、産油国はOPECを通じて課税と価格決定への発言力を高め、1970年代には中東・北アフリカの諸国で国有化や支配権の拡大が相次ぎました。イランでも、1960年代の急速な工業化と「白色革命」を背景に、国家の関与と再分配は拡大し、1973年の高騰局面では産油国の財政余力が大きく増します。1979年の革命後、イランの石油部門は再び強い国有の枠組みの下に置かれ、制裁や戦争の環境でも国内運営能力の向上が図られました。1951年の国有化は、こうした長期の波の最初の大きな山として記憶され、資源をめぐる「主権」と「実務」の両立という課題を早期に可視化した前例となりました。
一方で、国際市場の相互依存性は、単独行動のコストの大きさを示し続けます。輸出先の多角化、精製・石化・ガスなどバリューチェーンの拡張、技術と人材の自立、金融・保険・海運の代替ネットワークの整備――いずれも国有化後に不可欠となる分野であり、イランは半世紀以上にわたって試行錯誤を重ねてきました。
アバーダーンの街と人びと――労働、都市空間、国有化が残した風景
国有化のドラマの舞台裏には、アバーダーンをはじめとする産業都市の日常があります。巨大精油所に付随する住宅・学校・病院・娯楽施設、民族・宗教の異なる人びとの混住、労働組織と福利厚生、会社町の規律と自治――こうした都市社会は、禁輸と操業停止で急激に揺さぶられました。賃金の未払い、移住の増加、非公式経済の膨張は、国有化のコストを最前線で引き受けた現実であり、国家の政策が現場でどう作用するかを鮮明に示しました。
労働運動と民族・宗派の関係も複雑でした。アラブ系住民の多いフーゼスターンでは、地域アイデンティティと階級的要求が交錯し、会社側の雇用慣行や行政の対応が緊張を高めることもありました。国有化後の雇用維持と技能継承は喫緊の課題で、技術者の流出と代替要員の育成、設備保全の知識移転は、政策の成否を左右する領域でした。
小括――国有化が示した「資源と主権」と「運営の技術」
イラン石油国有化は、資源をめぐる国家主権の主張が、国際経済・安全保障・法制度の網の目と正面からぶつかる典型例でした。理念の明確さと世論の熱気は、旧来の利権構造を揺さぶる原動力になりましたが、同時に、市場アクセス・技術・金融・人材という実務の不足が、国家を容易に窮地へ追い込みうることも示しました。1951年から1954年、さらに1970年代、そして21世紀へ――イランが歩んだ長い時間は、「主権の政治」と「運営の技術」をどう両立させるかという普遍的な課題を、何度も突きつけ続けているのです。

