実権派(走資派) – 世界史用語集

「実権派(走資派)」は、主として中国の文化大革命(1966〜76年)期に用いられた政治的レッテルで、党・国家・軍のポストにあり実際の権限(当権)を保持しつつ、「資本主義の道」を歩むと疑われた指導者・幹部層を指す語です。とくに毛沢東の路線に批判的、または異なる経済運営・組織管理を志向した者を、革命的群衆運動(造反派)や急進派指導者が攻撃する際の標的名称となりました。ここでいう「実権派」は当権派(在任で実権を持つ者)という中立的な語と重なりつつ、文化大革命の文脈ではしばしば〈打倒されるべき敵〉として用いられ、同時に「走資派(走資本主義道路者)」という思想的非難ラベルが組み合わされました。代表的に、劉少奇や鄧小平が全国的なスローガンの下に「走資派」として糾弾され、各省・市・県レベルでも幹部が同様に名指しされました。本稿では、用語の定義と由来、運動の展開の中で果たした役割、具体的事例、そして用語の後世的な整理を解説します。

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定義と語源――「当権派」と「走資派」の結合

文化大革命の政治語彙では、「当権派(実権派)」は字義どおり〈現在、権力を掌握している者〉を意味します。これ自体は価値中立的な概念ですが、文革の対立構図の中では、旧来の党・政府・機関・学校・工場・地方の指導層一般を指して使われやすく、とりわけ「官僚主義」「保守主義」「階級路線の逸脱」の象徴とみなされました。

一方の「走資派(走資本主義道路者)」は、毛沢東が1950年代末以降、ソ連の「修正主義」批判や国内の経済運営をめぐる論争の中で用いたイデオロギー用語です。集団化・公有制・計画の原則に背き、利益第一・官僚化・専門家偏重・私的利得の追求などを通じて「資本主義の道に走る」傾向を指弾するもので、特定の政策や人事への不信・対抗を正当化する装置として機能しました。文化大革命では、この二つが結合し、「走資派の当権派」「当権走資派」といった表現で、権力を握りつつ資本主義に傾くとされた敵対勢力を指示する語となります。

このレッテルは、法的に定義された犯罪名ではなく、政治的・宣伝的カテゴリーでした。したがって、適用対象や基準は地域・機関・時期によって大きく揺れ、路線闘争の進行に応じて「誰が走資派とされるか」は頻繁に変化しました。中心的スローガンは「走資派を徹底批判せよ」「走資派を一掃せよ」といった形で各組織に浸透し、選別・粛清・再教育の根拠とされました。

運動の展開と機能――標的指定、造反、軍の介入、革命委員会

1966年の文革発動は、まず北京の大学・中学校での大字報(壁新聞)運動と紅衛兵の形成から始まり、「資産階級反動路線の代表」と名指しされた校長・党委員会・市の指導者が「実権派・走資派」として批判されました。中央レベルでは、北京市党委第一書記の彭真、国務院副総理の羅瑞卿、文化部の呉晗などが初期に標的化され、やがて国家主席の劉少奇と党中央総書記の鄧小平が全国的な糾弾の中心に置かれます。彼らは「ブルジョワ権威主義」「専門家偏重」「指令経済と実利主義の癒着」などの罪状で攻撃され、職務停止・監査・隔離審査に置かれました。

各地では、造反派と呼ばれる群衆組織が既存の党委・政府・工会・共産主義青年団などの指導部を攻撃し、工場・鉱山・鉄道・学校・研究機関の運営に介入しました。この過程で、職場の管理者や技術者、地方の幹部が「実権派」「走資派」とされ、批判闘争(批判大会、批斗)・連坐・自白の強要・屈辱的儀礼・監禁にさらされる事件が多発しました。生産や教育の混乱は深刻化し、秩序回復の必要から、1967年以降は人民解放軍が介入し、軍・幹部・革命派の「三結合」による革命委員会が各地で権力機構の代替として設置されます。

1969年の第九回党大会で林彪が毛沢東の「親密な戦友」として序列2位に躍り出ると、いったん中央の権力構図は固定化しましたが、やがて1971年の林彪事件を契機に再編が進みます。林彪派と結びついた急進派の攻撃は抑えられ、毛は旧来の幹部の一部を復帰させて均衡を図りました。1973年以降、鄧小平が段階的に復活し、経済・教育の回復を主導すると、急進派(のち「四人組」と総称)は再び「実権派復活」への警戒を強め、「批林批孔(林彪・孔子批判)」などの政治運動を通じて知識人や幹部を突き上げました。

このように、「実権派(走資派)」というレッテルは、中央—地方、党—群衆、文官—軍、急進—調整の各勢力が綱引きする中で、誰を排除し誰を引き上げるかを可視化するための「標的の名札」でした。標的の範囲は拡大・縮小を繰り返し、しばしば同一人物が、時期によって走資派と評価されたり、逆に秩序回復の推進者として復権したりする可変性を示しました。

スローガンの運用と具体事例――劉少奇・鄧小平、地方幹部、知識人

劉少奇は、1950年代の国家建設と計画経済の整備を主導した中心人物の一人でしたが、大躍進後の調整路線や現実的な経済運営が、毛の理想主義的路線と対立し、「中国のフルシチョフ」とのレッテルで攻撃されました。文革期には「党内最大の走資派」とされ、厳しい隔離審査と病中放置の末、1969年に非業の死を遂げます。鄧小平は、組織管理と経済の合理化を重視する実務家として知られ、1966年に失脚、1973年に復帰、1976年の「四五運動」後に再び失脚、1977年に復権という浮沈を経験しました。彼に対する非難は「実権派の代表」「白猫黒猫論(実利主義)」などのキーワードで表現されましたが、1978年以降は改革開放路線の指導者として再評価が進みます。

中央の主要人物以外にも、各省・市・県・学校・工場の指導部で、多くの幹部が「実権派」「走資派」とされました。たとえば都市の工場管理者は、生産効率や技術者重視の方針が「専門家尊重=走資派」と決めつけられ、労働者の造反派組織と対立しました。地方の党委書記や県長は、穀物供出・配給・水利・交通の実務を担っていたため、混乱期には秩序維持のための措置(配給の厳格化、統制の復活)をとると「旧体制への回帰」と糾弾される一方、治安悪化・物資不足が深刻化すると、今度は彼らの復帰や軍の管理が求められるという矛盾に晒されました。

教育・研究機関では、学長・教授・研究者が「権威主義」「学閥」「特権」の象徴とされ、「走資派」批判の対象となりました。入試制度の停止、出身成分重視の推薦、長期の下放(労働改造・農村での体験)などが広がり、知識の継承が阻害されました。1970年代中盤以降、秩序回復のための再教育・補講・入試の段階的復活が始まると、今度はそれが「実権派の巻き返し」との批判を招くなど、文革語彙の自己循環的性格が露わになりました。

後世の整理――レッテルの政治性、用語の使い分け、再評価の過程

1976年の毛沢東死去と「四人組」逮捕(十月事件)を経て、文化大革命は「重大な混乱と損失をもたらした時期」と評価されるようになり、文革語彙も再検討の対象となりました。劉少奇は名誉回復され、鄧小平ら多くの幹部が復権し、制度再建と経済改革が進められます。この過程で、「実権派(当権派)」は中立的な行政・党務用語としての性格を取り戻し、「走資派」は歴史的概念として扱われることが一般化しました。すなわち、走資派は特定時期の政治運動における宣伝用語であり、法的・制度的なカテゴリーではなかったとの位置づけです。

用語の使い分けという点では、(1)当権派/実権派=在任の権力保持者(価値中立)、(2)走資派=資本主義的傾向を持つと非難された者(価値判断のレッテル)、(3)当権走資派=権力保持と資本主義的傾向の結合として標的化、という整理が有効です。文化大革命のテクストやスローガンを読む際は、これらの語が〈誰によって、誰に対し、いつの段階で〉使われたのかを確認することが不可欠です。なぜなら、同じ人物が時期によって全く逆の評価を受けるという事態が頻発したからです。

また、「資本主義の道」の意味も、時代により可変でした。1950年代には公私合営の度合い、農業の集団化、計画対市場の配分といった制度設計の問題として論じられ、1960年代の文革期には、政治的忠誠・階級闘争の強調・専門家と群衆の関係といったイデオロギー論争の素材となりました。1978年以降の改革開放では、計画と市場の関係が再定義され、市場メカニズムの導入が「社会主義的市場経済」として正当化されるに至ります。結果として、文革期の「走資派」レッテルと、改革期の政策選択の合法化との間には、大きな断絶が生じました。

国際的な文脈では、文化大革命の語彙は東アジアの新左翼運動や第三世界の革命運動にも影響を与え、同様のラベリング(「修正主義者」「官僚主義者」など)が輸入されました。他方で、研究の進展は一次史料・口述史・地方の事例研究を通じ、レッテル貼りの実態、標的化のプロセス、被害規模、組織の再編成などを具体的に明らかにしてきました。今日では、「実権派(走資派)」は、特定の歴史局面で使用された政治的言語として位置づけられ、その機能と効果、被対象の多層性を読み解くための分析概念として用いられています。

総じて、「実権派(走資派)」を理解するには、(a)誰が権力を握っていたのかという制度的側面、(b)何が「資本主義の道」とされ、どのような政策や態度が槍玉に上がったのかという思想的・政策的側面、(c)スローガンが現場でどのように運用され、人事や組織をどう動かしたのかという運動論的側面、の三つを重ねて考えることが役に立ちます。これらを重層的に追うことで、単なる善悪二分の物語では捉えきれない、文化大革命の複雑な権力力学が見えてきます。