シク教徒の反乱は、一般に1848〜1849年にパンジャーブで発生した対英武力抵抗を指し、結果として英東インド会社がシク王国を解体しパンジャーブを併合する契機となった出来事です。創建者ランジート・シングの死後に続いた後継争いと宮廷抗争、巨大化した常備軍(ハルサ軍)の統制不全、財政逼迫、周辺地域の不満が蓄積するなか、ムルターンの蜂起を発端として戦線が拡大し、第二次英シク戦争へと発展しました。シク側は勇戦しつつも、指揮の分裂や一部上層の動揺、英軍の砲兵・補給優位に押され、1849年のグジャラート決戦で敗北します。直後に東インド会社はパンジャーブを併合し、幼王ダリープ・シングは退位・流寓、「コ・イ・ヌール」を含む王権の象徴は英側へ移されました。この反乱は、シク王国が築いてきた多宗教・多言語の統治と欧州式近代軍制を備えた地域国家が、指導中枢の崩壊と帝国圧力のもとで瓦解するプロセスを象徴します。以下では、背景・展開・軍事と社会の諸相・併合後の変化に分けて詳しく説明します。
背景――王国の安定から動揺へ:権力の空白と統制の緩み
パンジャーブのシク王国は、ランジート・シング(在位1801〜1839)のもとで最盛期を迎え、ラホールに宮廷を置いて行政・軍事の近代化を進めました。欧州人将校の招聘により歩兵・砲兵・工兵が整備され、ペシャーワルやムルターンを含む要地の確保、ヒマラヤ方面への進出など、対外政策でも主導権を握りました。王のカリスマと巧妙な均衡外交が、英東インド会社・アフガン勢力・山地勢力の板挟みのなかで国を支えたのです。
しかし、1839年に王が没すると、直系後継者の相次ぐ死去(カラク・シング、ノウ・ニハール・シング)と、シェール・シングの暗殺(1843年)を経て、宮廷は大貴族・宰相家(ドグラ家、サンドハーンワリア家など)の権力闘争の場と化します。幼王ダリープ・シングの下で王太后ジーンド・カウルが摂政となると、宮廷内の派閥対立は軍制にも波及し、巨大化したハルサ軍の俸給・補給を巡る不満が高まりました。ラホール政庁は軍を抑えるために譲歩を重ね、逆に統率を失っていきます。
外交的には、1809年のアムリトサル条約以降、サトレジ川を軸とする英勢力との緩衝が保たれていましたが、王国の内紛は東インド会社側に介入の口実を与えました。第一次英シク戦争(1845〜46)での敗北は、領土割譲・賠償・英代表のラホール駐在を強いられ、国家主権を著しく制限します。さらに1846年のアムリトサル条約では、カシミールがドグラ家のグラーブ・シングに割譲され、王国の領域は大きく削がれました。こうして、政治・軍事・財政の三要素が同時に劣化する条件が整っていきました。
発端と戦局の推移――ムルターンの蜂起から第二次英シク戦争へ
1848年4月、ムルターンでの税務・行政をめぐる対立が激化し、英国の支援で任命された新知事(ディーワーン)らが襲撃される事件が起こります。これが広域蜂起の信号弾となり、パキース・カーンら地方有力者や旧将兵が呼応、パンジャーブ各地で英・ラホール政庁への反抗が連鎖しました。ラホールの摂政閣僚は当初、英側と距離を置き中立を装いましたが、やがてハルサ軍の一部が反英戦線へ合流し、戦争は不可避となります。
英東インド会社は、ベンガル軍管区・ボンベイ軍管区から部隊を集め、パンジャーブへ進撃しました。1848年末から1849年初頭にかけて、戦闘はチリアンワラ(Chillianwala)・ラームナガル(Ramnagar)などで苛烈を極め、特にチリアンワラでは双方が大損害を出し、英軍は一時的に苦境に立ちます。シク軍は砲兵の火力と歩兵の規律で健闘し、伝統の騎兵突撃と野戦築城を組み合わせて戦いましたが、統一指揮の不在、補給の不足、上層部の意思不統一が足枷となりました。
決定打となったのが、1849年2月のグジャラート(Gujrat)決戦です。英軍は豊富な砲兵と周到な補給でシク陣地を砲撃・突破し、敗走する部隊を追撃します。ここでの敗北は戦略的抵抗の核を失わせ、降伏が連鎖しました。主だった将校が降り、砲列が接収されると、組織的戦闘は終息へ向かいました。戦後処理は迅速かつ容赦なく、東インド会社は王国の軍事・行政構造を解体し、幼王ダリープ・シングの退位を宣言、ラホール城の宝物庫から王権の象徴が移送されました。
軍事・社会の諸相――近代化した常備軍、補給・財政、地域社会
シク側の軍事的強みは、ランジート・シング期に整えられた常備軍の遺産にありました。西欧式訓練を受けた歩兵、強力な砲兵、工兵の活用、要塞化技術、そして勇敢な騎兵。チリアンワラで英側が手痛い損害を受けたのは、シク軍が野戦での火力運用と地形利用を的確に行ったためです。しかし、戦争は兵站の戦いでもあります。戦線が広がるにつれ、物資輸送・弾薬補給・給与支給の遅延が顕著になり、士気の維持が難しくなりました。軍内派閥の争いは指揮命令系統を混乱させ、現場の機動力を削ぎました。
社会面では、都市と農村の利害のずれが火種になりました。戦時の徴発や増税、商業税の扱い、土地収奪への恐怖は、地方名望家・商人・村落共同体の態度を揺らし、必ずしも一枚岩の反英戦線を形成できませんでした。ムスリム、ヒンドゥー、シクが混居する地域では、宗派横断の提携と不信が同時に存在し、宮廷抗争で打撃を受けた行政は調停能力を失います。こうして、反乱は「王国の再建」を目指す統一運動になりきれず、局地戦の連なりが決定的局面で集中力を欠く結果を招きました。
一方、英側の強みは、持久戦を支える統合的な補給体制、軍医・工兵・測量の支援、そして広域動員力にありました。砲兵の量と質の差、鉄砲・砲弾の安定供給、地図作成と橋梁工事による機動、通信・命令系統の一元化は、局地的に優勢なシク軍の粘りを総合力で上回りました。英側が一度の敗北で瓦解しないのに対し、シク側は敗北が直ちに政治的危機へ波及しやすい構造に置かれていたのです。
併合とその後――パンジャーブの英領化、軍・土地・宗教空間の再編
1849年の併合後、パンジャーブは「パンジャーブ委員会」による直接統治のもとで再編されました。ハルサ軍は解散し、武器の接収と軍人の再就職政策が進められ、治安部隊・警察・測量局などへの編入が行われます。土地制度は測量と地税の再評価が実施され、灌漑事業が拡張される一方、土地の細分化・抵当化が進み、農村社会の階層分化が進展しました。交通インフラ(道路・橋・のちに鉄道)の整備は市場統合を促し、都市の工芸・商業は新たな需要に対応して再編されます。
宗教空間では、黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)とアカル・タクトが共同体の精神的支柱として存続する一方、施設管理の権限をめぐる争いが続き、20世紀初頭のグルドワーラー改革運動へ伏線が張られました。英当局は宗派間バランスを意識して統治し、シク共同体の軍務参加を奨励する政策をとります。パンジャーブ連隊の中核として多くのシク兵が帝国軍に組み込まれ、のちの世界大戦でも重要な役割を果たすことになります。
教育・法域の面では、英語教育や新法典の導入が進み、近代職業エリートが育ちました。他方で、伝統的権威と新中間層の間で価値観の摩擦が生じ、宗教改革と社会改革の運動(シン・サバー運動)が勃興します。聖典中心主義の強調、慣行の整理、禁欲と禁忌の再確認は、共同体の再編を進めると同時に、新しい公共空間の形成へつながっていきました。
反乱と併合の記憶は、やがて「失われた王国」と「忠勤な兵」の二つの物語として定着します。一つは、ランジート・シングの秩序と栄光を回想するナショナルな記憶であり、もう一つは帝国軍務を通じた社会的上昇と世界への窓の物語です。これらはしばしば緊張しながらも、パンジャーブの近代を特徴づける二重の経験として、ディアスポラの歴史意識にも刻まれました。
総括すれば、シク教徒の反乱は、一国の権力中枢の崩壊と地域社会の分節化、そして帝国の軍事・財政・行政の総合力が交差した地点に生まれた歴史的事件でした。反乱は英軍の圧力だけでなく、統治の危機と補給の破綻、政治的統一の失敗が重なって敗北に至り、パンジャーブは帝国の一州として再編されました。その後の宗教改革・教育拡大・軍務参加・ディアスポラ形成など、近代パンジャーブの長い展開は、この挫折の上に築かれていくことになります。

