シク戦争(Sikh Wars)は、19世紀半ばの北インド・パンジャーブを舞台に英東インド会社とシク王国(パンジャーブ王国)が二度にわたり衝突した一連の戦争を指します。第一次英シク戦争(1845〜1846)と第二次英シク戦争(1848〜1849)から成り、前者は王国の大幅な譲歩と英側の政治介入を招き、後者は最終的にパンジャーブの併合とシク王国の消滅に帰結しました。背景には、創建者ランジート・シング死後の後継争いと宮廷抗争、常備軍(ハルサ軍)の肥大化と統制の動揺、財政逼迫、英露対立の波及や英東インド会社の戦略的意図が複雑に絡み合っていました。戦争は、欧州式に訓練された歩兵と強力な砲兵を擁するシク軍の粘り強い戦いぶりと、補給・指揮統一で勝る英軍の総合力の対決という性格を持ち、チリアンワラやグジャラートなど流血の激戦を残しました。要するにシク戦争は、地域国家の近代化努力と帝国の拡張が北インドの要衝で正面衝突し、インド近代史の地政学的秩序を塗り替えた節目だったのです。
背景と開戦への道――ランジート・シング後の権力空白と国境の緊張
シク王国は、1801年にマハラジャとして即位したランジート・シングの統率の下で、ラホールを都にパンジャーブ一帯を統合し、対外的にはアフガン勢力を押し返してペシャーワルを確保、英東インド会社とのあいだには1809年のアムリトサル条約を結んでサトレジ川流域を境とする勢力均衡を保ちました。彼はフランス人・イタリア人など欧州人将校を雇い、歩兵の操典・砲兵運用・工兵技術を取り入れて常備軍を整備し、財政・行政の改革を伴う「ハイブリッド近代」を実現しました。
1839年のランジート・シングの死は、王国の均衡を崩しました。直系の王子たちが相次いで急死・暗殺に見舞われ、1843年にはシェール・シングまで倒れて、幼王ダリープ・シングと王太后ジーンド・カウルの摂政体制に移行します。宮廷ではドグラ家やサンドハーンワリア家など有力家門が宰相職と軍権をめぐって争い、巨大化したハルサ軍は俸給と影響力を梃子に政治へ介入を強めました。ラホール政庁は軍の暴発を恐れて譲歩を重ね、逆に統制力を失っていきます。
英東インド会社はこの動揺を注視しつつ、パンジャーブ国境に兵力を集結させ、外交・通商・情報工作を通じて介入の余地を広げました。第一次アフガン戦争後の再編や英露対立の気配も、パンジャーブを「北西の関門」と見なす発想を後押しします。こうして、ラホールの政治的空白、ハルサ軍の独走、英軍の対処体制という三条件が揃い、国境の緊張はついに臨界点へ達しました。
第一次英シク戦争(1845〜1846)――四大会戦とラホール条約
1845年末、サトレジ川を挟んで対峙していた両軍は、相互の不信と挑発の応酬の末に開戦へ雪崩れ込みました。戦役は、ムドキー(Mudki)、フェローゼシャー(Ferozeshah)、アリーワル(Aliwal)、ソブラオン(Sobraon)の四大会戦で推移します。ムドキーとフェローゼシャーでは英軍が苦戦しつつも陣地を保持し、アリーワルでは英軍が側面機動で優位に立ちました。決定的だったのは1846年2月のソブラオンで、英軍は橋頭堡と舟橋を砲撃で破壊し、退路を断たれたシク軍は大量の損害を被って崩れました。
戦後のラホール条約(1846年)は、シク王国に厳しい条件を課しました。第一に広大な領土の割譲(ジャランドハル・ドアーブなど)、第二に高額の賠償金、第三にラホールにおける英代表(レジデント)の常駐と駐留軍の受け入れ、第四に軍備制限と要塞の明け渡しです。さらに同年のアムリトサル条約により、カシミールはドグラ家のグラーブ・シングが英側から買い受ける形で分離され、王国の地理的・財政的基盤は決定的に弱体化しました。形式上の王政は維持されたものの、実質は半ば保護国化です。
この講和は、ハルサ軍の誇りと地域社会に深い屈辱感と不満を残しました。王国の統合機構は空洞化し、宮廷の派閥抗争も収まらず、英代表のラホール常駐は政治の主導権が外部に移ることを意味しました。こうして、平穏は嵐の前の静けさにすぎなかったのです。
第二次英シク戦争(1848〜1849)――ムルターン蜂起、チリアンワラ、グジャラート、そして併合
第二次戦争の火蓋は、1848年4月のムルターンにおける行政当局襲撃事件でした。税制と人事をめぐる対立から武力衝突が起こり、これがパンジャーブ各地の反英・反ラホール政庁の動きを刺激します。当初、摂政政府は曖昧な態度を取り、ハルサ軍の一部部隊が独自行動で戦列に加わると、もはや収拾不能となりました。英東インド会社は各管区から兵力を集結して反乱鎮圧を開始し、戦線はパンジャーブ全域へ拡大します。
1848年末から1849年初頭にかけて、ラームナガル(Ramnagar)渡河戦、チリアンワラ(Chillianwala)の大激戦が続きました。チリアンワラでは英軍が森林と塹壕に拠るシク軍の前に突撃を繰り返し、多数の死傷者を出しました。シク側は砲兵の集中運用と歩兵の粘着戦で健闘し、英軍は一時的に後退を余儀なくされます。しかし、補給・指揮の統一・予備兵力で勝る英軍は持久で上回り、最終局面のグジャラート(Gujrat)決戦で圧倒的砲撃と機動でシク陣を崩しました。
グジャラート敗北後、シク軍の降伏は連鎖し、砲列は接収、指導層は投降または国外逃避を選びました。1849年3月、英東インド会社はパンジャーブ併合を宣言し、幼王ダリープ・シングは退位、王権の象徴であった宝玉「コ・イ・ヌール」もロンドンへ移されます。ラホール城のトシャカーナ(宝物庫)は開封され、王国の制度は解体されました。こうして、半世紀足らずのシク王国の国家としての生は幕を閉じます。
軍事・政治・社会の論点――ハイブリッド近代の成果と限界
シク戦争は、近代化した地域国家と帝国の総力戦がぶつかった稀有な事例です。軍事面では、シク軍は歩砲協同・野戦築城・砲兵の集中といった欧州式要素を取り入れ、騎兵の機動力と結合させて戦いました。チリアンワラで英軍が被った手痛い損害は、シク軍の戦術的適応力と兵士の士気を示します。しかし、軍制の中枢に横たわる政治的分裂――将軍間の不信、補給線の混乱、俸給遅延――は、戦場の成果を戦略的勝利へ昇華することを阻みました。
政治面では、ランジート・シング時代の「合議(パンチ)と君主制の併置」という精妙なバランスが、カリスマの不在と派閥対立で崩れました。ハルサ軍は王国の柱であると同時に、財政と政治を拘束する圧力団体とも化し、宮廷の決断は常に軍の動向に翻弄されます。英側はこの脆弱性を突き、講和条項と駐在政治を通じて主権を掘り崩していきました。結果として、第一次戦争の講和は第二次戦争の前哨であり、統治機構の空洞化を加速させたのです。
社会面では、都市商人と農村共同体の利害、宗派横断の協力と不信、徴税・徴発の負担など、多層的な亀裂が戦時に露呈しました。ムスリム、ヒンドゥー、シクが混住するパンジャーブでは、宗派の枠を越える連帯が形成される一方、宮廷抗争・地元名望家の思惑・英側の統治工作が絡み、反英運動の統一は困難でした。戦後、英当局は灌漑・道路・のちの鉄道整備で市場の再編を進め、同時にパンジャーブ連隊など軍務参加を通じてシク社会を帝国体制に組み込みます。
国際政治の観点からは、英露の「グレート・ゲーム」状況のもとで、パンジャーブを押さえることは英にとってアフガン・中央アジアへの防衛線強化に直結しました。シク王国の存続は英にとって緩衝地帯として有用であり得たものの、制御不能と判断されれば、併合による直接統治に転じることは必然でした。シク戦争は、その方針転換の決定版となったのです。
文化・記憶の面では、王国解体は「失われた栄光」としてパンジャーブの歴史意識に刻まれ、黄金寺院の歴史画や口承、詩歌に残りました。一方、英領下での軍務・教育・ディアスポラ形成は、新たな社会的上昇の回路を開き、20世紀の宗教改革運動(シン・サバー)やグルドワーラー改革へ接続します。シク戦争の記憶は、抵抗と適応という二つの物語として、現代まで重層的に語り継がれているのです。
総じて、シク戦争はパンジャーブの政治地図を塗り替えただけでなく、インド亜大陸の軍制・統治・社会の近代化に複雑な影響を残しました。欧州式軍事技術の受容と在来社会の統治機構の結合が、カリスマの欠落と帝国の圧力の前でどのように脆くなるのか――その教訓は、地域国家が大国間競争の縁辺に立つときの普遍的問題を映し出しています。

