シケイロス – 世界史用語集

シケイロス(ダビッド・アルファロ・シケイロス, 1896–1974)は、メキシコ壁画運動(ムラリスモ)の急進的旗手であり、公共空間における美術の社会的使命を徹底して追求した芸術家です。革命後メキシコの国家建設期に、ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコと並ぶ「三大壁画家」の一人として活躍しました。工業塗料(ピロキシリン)やスプレーガン、写真・投影・フォトモンタージュなど当時の最先端技術を導入し、観客の移動に応じて見え方が変わる「多角的遠近(ポリアングラリティ)」や、壁面をまるごと空間彫刻のように扱う「エスクルト・ペインティング(彫刻・絵画一体)」を提唱した点で、20世紀美術の技法革新に抜きんでています。政治的にも共産主義運動に深く関与し、スペイン内戦への参加、トロツキー襲撃事件への関与、再三の投獄と亡命を経験しました。これらは彼の画面に宿る闘争性と群衆のエネルギー、反帝国主義、労働者の連帯といった主題群に直結しています。シケイロスは、壁画を「博物館の外に解放された集団の芸術」と定義し、都市の壁・公共建築・広場を劇場へと変えることで、「誰のための芸術か」を20世紀に問い直したのです。

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生涯と時代背景――革命の世代から世界戦争の世紀へ

1896年、メキシコ中部チワワ州カマルゴ近郊に生まれたシケイロスは、首都メキシコシティのサン・カルロス美術学校で学ぶ一方、1910年代のメキシコ革命に感化され、若くして軍務に就きます。革命後、国家は教育相ホセ・バスコンセロスのもとで文化政策を展開し、読み書き教育とナショナル・アイデンティティの形成に芸術を動員しました。ここで政府委嘱の公共壁画が大量に発注され、シケイロスもこの潮流に飛び込みます。1920年代にはヨーロッパ訪問やアメリカ滞在を重ね、フェルナン・レジェらのキュビスム後の構成主義、ソビエトのプロレタリア芸術、写真・映画のモンタージュ感覚から刺激を受けました。

1923年、画家・彫刻家・工員の同盟(後の芸術家労働者組合)による〈宣言〉に署名し、「芸術は人民のものである」「宮殿や豪邸のためではなく、工場や学校、公共の壁に描かれるべきだ」と宣言します。1930年代にはアメリカ合衆国西海岸・ロサンゼルスで〈アメリカ・トロピカル〉(1932)を制作しましたが、反米・反帝国主義的内容が問題視され、のちに白塗りされる憂き目を見ます(近年は保存・部分公開)。その後ニューヨークでは実験工房(Experimental Workshop, 1936–37)を主宰し、工業塗料の流し掛けやスプレー、吹き付け、滴りを用いた新技法を探究しました。参加者の中には若きジャクソン・ポロックらが含まれ、後のアクション・ペインティングへの技術的示唆を与えたとされます。

政治的にはメキシコ共産党に所属して活動し、1937年にはスペイン内戦の人民戦線側に参加、帰国後の1940年にはトロツキー邸襲撃事件に関与したとして追及され亡命を余儀なくされます(のち帰国)。戦後は断続的な拘禁を受けながらも、メキシコ国内外で大規模壁画を手掛け、晩年にはメキシコシティ南部に〈ポリフォルム・カルチュラル・シケイロス〉(Polyforum Cultural Siqueiros, 1966–71)を建設して代表作〈人類の行進(La Marcha de la Humanidad)〉を完成させました。1974年に没しますが、彼の「公共美術の総合舞台」という発想は、その後のコミュニティ・アート、政治壁画、グラフィティ文化に至る広い流れへと接続されます。

壁画運動と理念――公共空間・集団制作・視覚政治

シケイロスが掲げた壁画論の核心は三点に集約できます。第一に、〈公共性〉です。美術館の白い壁から解き放たれ、工場・学校・官庁・労働組合会館など、生活の現場に作品を設置すること。第二に、〈集団性〉です。壁画は巨大であり、足場、左官、電気、写真など多領域の協働が不可欠であるため、個人天才の神話を相対化する力を持ちます。第三に、〈視覚の政治〉です。壁は宣伝でもポスターでもないが、社会矛盾を直視させ、歴史の主体としての民衆を描く「可視化の闘争」である――これが彼の持論でした。

1920年代の壁画運動は、国家の統合と教育の事業と並走しましたが、シケイロスは国家に従属するのではなく、時に対立しながら「人民のための公共美術」という基準を譲りませんでした。ディエゴ・リベラが寓意と古代的図像、写実と装飾を巧みに統合した「秩序ある広叙詩」を得意としたのに対し、シケイロスはダイナミックな斜角構図、強烈な陰影、金属光沢を帯びる工業塗料の質感で「闘争の瞬間」を描きます。オロスコのニヒリズムや反英雄的視点とも異なり、彼は階級的主体の形成をストレートに描き出しました。

技法革新――ピロキシリン、スプレーガン、写真・投影、ポリアングラリティ

シケイロスは現場の物理条件から技法を組み立てる実験家でした。油絵具は乾きが遅く屋外に不向きだとして、車両用の工業ラッカー〈ピロキシリン〉(硝化綿ラッカー)を採用し、速乾・耐候性・金属的光沢を得ました。圧縮空気で吹き付けるスプレーガンにより、広い面積のグラデーション、霧化した影、爆発的なハイライトを短時間で実現します。砂や大理石粉を混ぜて肌理を作り、壁面に凹凸を付けることで、光線の角度によって陰影が変化する「時間性のある面」を獲得しました。

制作過程では、写真・コラージュ・プロジェクター投影を用いて構図を検証しました。新聞写真やプロパガンダの構図を引用・再構成し、巨大な壁へ等倍投影して輪郭を転写、そこから噴霧・筆致・ローラーを組み合わせる。こうしたプロセスは、絵画と印刷メディアのハイブリッドであり、20世紀の情報環境に即した「拡張絵画」でした。

さらに重要なのが〈ポリアングラリティ(多角的遠近)〉です。伝統的な一点透視ではなく、観客が壁の前を移動する際に、視点が次々切り替わって空間が展開するように設計します。湾曲壁、折れ壁、天井への回り込みを利用し、階段の上り下り、ホールの回廊歩行と同期して、人物が迫り、崩れ、集合し、解放へ突き抜ける。この「身体と構図の同期化」は、後年の没入型インスタレーションの先駆とも言えます。彼はまた、壁の端部や柱を彫刻的に扱い、浮彫(レリーフ)と塗装を一体化した〈エスクルト・ペインティング〉を実践しました。

主要作品とそのコンテクスト――ロサンゼルスからメキシコシティ、チリへ

『アメリカ・トロピカル』(1932, ロサンゼルス):オルベラ街の屋外壁に描かれた本作は、密林の中で鷲に磔にされた先住民の身体、上空には米国の鷲、周囲に反乱のゲリラという、痛烈な反帝国主義の寓意です。公開直後に白塗りで覆われ、長らく不可視化されましたが、のちに保存公開が進み、検閲と公共美術の関係をめぐる記憶装置となりました。

『ブルジョワジーの肖像』(1939–40, メキシコ電気労組会館):労働組合のための壁画として、ファシズム・資本・軍需がからみ合う巨大装置に対し、反乱する大衆を描く構図。歯車・配電盤・飛行機・機銃座といったモチーフをキネティックに組み合わせ、機械時代の暴力と支配を可視化しました。ジグザグに走る視線誘導は、建物内部の階段・踊り場の動線と合体し、観客は画面の内部機構に巻き込まれていきます。

『新しい民主主義』(1945, ベジャス・アルテス宮):第二次世界大戦後、反ファシズムの勝利を讃える中央パネル。拘束を破る女性像を中心に、左右に「苦難」「兵士と民衆」が展開します。ここでは、ピロキシリンの鈍い光沢と赤錆色、青黒い影が、硬質で緊張した解放の瞬間を作り出しています。

『ポルフィリオ独裁から革命へ』(1957–66, チャプルテペク城・国立歴史博物館):階段室と天井へ回り込む大規模連作で、ディアス独裁、農民蜂起、革命軍、革命後の再建へと至る国民叙事詩を、斜めの構図と上昇運動で貫きました。曲面壁・折れ壁を駆使したポリアングラルな設計の典型です。

『人類の行進』(1965–71, ポリフォルム・カルチュラル・シケイロス):彼の集大成とも言える全方位型壁画。十二角形の建築外壁・内壁・天井・床までもが画面と化し、人類の抑圧と解放、技術と自然、都市と砂漠、女と男、老いと若さ、戦争と平和が、圧倒的なスケールで交錯します。観客は回転する舞台のような内部空間を歩きながら、絵画空間に包まれ、群衆のエネルギーの渦に呑み込まれます。

『侵略者に死を(Muerte al invasor)』(1941–42, チリ・チジャンのメヒコ小学校):チリ大地震へのメキシコの支援に対する返礼として制作。ラテンアメリカの連帯、反ファシズムの国際主義を鮮烈に謳い上げ、アンデスの地形と群衆の身体がひとつの波として描かれます。

このほか、スペイン内戦を主題にした油彩『叫びの反響(El eco de un grito)』(1937)、UNAM(メキシコ国立自治大学)の建物群における作品群など、彼の仕事は中南米・北米・欧州に広く残り、その多くが政治史・都市史・保存史と密接に絡み合っています。

政治と美術――トロツキー事件、亡命、検閲、刑務所内制作

シケイロスの名は、しばしば政治的スキャンダルと結びついて語られます。1940年、メキシコに亡命していたトロツキーの邸宅への銃撃事件に関与したとして指名手配され、キューバやチリに亡命。帰国後もストライキ支援や発言で当局と対立し、1950年代には投獄されます。しかし彼は獄中でも制作を続け、鉄格子の影、狭い天井、コンクリートの冷たさを逆手に取った、簡潔だが力強いフォルムを描きました。ロサンゼルスの〈アメリカ・トロピカル〉の白塗りは、公共空間での反体制的イメージの受容限界を示す事件であり、同時に半世紀後に保存・復元が進む過程は、「記憶の政治」における美術の役割が時代とともに変わることを教えます。

彼の文章〈わたしたちの道以外に道はない(No hay más ruta que la nuestra)〉は、形式実験と政治的立場が対立するのではなく、むしろ互いに駆動し合うべきだと主張します。工業技術の採用は、労働の現代化を反映し、集団制作は、社会的連帯の具体的訓練となる。こうした論理は、アバンギャルドの美学と左翼政治がしばしば齟齬を来す20世紀において、稀有な統合を試みるものでした。

比較と影響――リベラ/オロスコとの差異、抽象表現主義への迂回路

三大壁画家の比較で言えば、リベラは古典的構成力と寓意の豊かさ、オロスコは人間存在の悲劇性と諷刺が特長で、シケイロスは技術革新と集団的身体のダイナミズムに卓越します。シケイロスの実験工房に参加したポロックは、エナメル塗料の流し掛け、床置きキャンバス、身体を回転させて線を投げ込む方法を学び、のちに自らのドリッピングへと発展させました。もちろん、ポロックをシケイロスの直系とみなすのは単純すぎますが、具象壁画の技術実験が、抽象絵画の身体性へと「横滑り」した事例として興味深い連関を持ちます。

また、ストリート・アートやコミュニティ・ムラルの系譜において、シケイロスは「公共空間で権力のイメージを上書きする」実践の先駆者です。アメリカ合衆国のチカーノ・ムラル運動、南米の政治壁画、現代の社会運動における大型バナーや壁画が、彼の発想から直接・間接に学びました。湾曲壁を生かしたイマーシブな構成は、今日の建築一体型メディア・ファサードやプロジェクション・マッピングにも通じる視覚設計の原理を提供しています。

保存と修復、公共美術の権利――時間と都市とともに生きる

屋外壁画は、紫外線・排気ガス・雨水・塩害・地震・都市改造といったリスクに晒されます。シケイロスの作品も、塗膜剥落や下地の膨れ、支持体のひび割れと戦い続けてきました。保存では、塗料の化学分析、同等の代替材の選定、可逆的な補彩、排水・日射のコントロールなど科学的手法が不可欠です。また、壁画は所有権・著作権・都市景観条例・住民合意の交差点にあるため、〈誰が決めるのか〉という手続設計が重要です。ロサンゼルスの『アメリカ・トロピカル』をめぐる保存と公開のプロジェクトは、壁画が単なる絵ではなく、都市に根ざした社会的プロセスであることを示しました。

キーワードと学習の手掛かり――用語・年表・代表作

用語整理:ムラリスモ(メキシコ壁画運動)/ピロキシリン(工業ラッカー)/スプレーガン/ポリアングラリティ(多角的遠近)/エスクルト・ペインティング(彫刻・絵画一体)/実験工房(NY 1936–37)/人民戦線/反帝国主義/公共美術。

年表の目安:1896生→1910年代革命期に参画→1923〈宣言〉署名→1932『アメリカ・トロピカル』→1936–37NY実験工房→1937スペイン内戦→1939–40『ブルジョワジーの肖像』→1940トロツキー事件・亡命→1945『新しい民主主義』→1957–66『ポルフィリオ独裁から革命へ』→1965–71『人類の行進』→1974没。

代表作の観察ポイント:斜めの運動線、金属光沢を帯びた暗い赤・青・黒の調子、群衆の身体の連鎖、機械・武器・配電盤の象徴性、曲面壁の使い方、観客の歩行と画面展開の同期。

まとめ――壁を越える壁画家

シケイロスは、壁に描くという行為を、空間・身体・政治・技術を横断する総合芸術へ押し広げました。彼の作品は、国家や都市の矛盾を正面から受け止めたがゆえに、しばしば検閲や破壊の対象となりましたが、それでも公共空間を「見る/見られる/見せない」の力学から解放しようとする企ては、今なお現在形の課題です。工業塗料の輝きと群衆のうねり、曲面壁に沿って走る斜線、手作業と機械の協働――そのすべてが、20世紀の技術文明と民主主義の可能性・危機を一身に担った、稀有な美術家の肖像を形作っています。シケイロスを学ぶことは、芸術がどのように共同体の時間と空間を作り替え得るか、公共の名のもとに何が闘われ、何が開かれてきたのかを知る近道なのです。