エドワード6世 – 世界史用語集

エドワード6世(在位1547〜1553)は、ヘンリ8世の唯一の嫡男としてチューダー朝を継いだイングランド王で、在位わずか6年ながら、イングランド宗教改革を一挙にプロテスタント化へと進めた転換期の君主です。本人は夭折した少年王でしたが、摂政政府(初期のサマセット公、のちノーサンバランド公)が主導して、ラテン語典礼から英語礼拝への切替、聖像の撤去、聖職者の独身制・教義の再定義など、国教会をローマ=カトリックから明確に区別する制度を整えました。他方で、通貨の品位劣化や農村の囲い込み、毛織物市況の悪化が重なり、1549年には西部で祈祷書反乱、東部ではケットの乱が勃発するなど、社会秩序は大きく揺らぎました。外交でも、スコットランドへの圧力(ピンキーの戦い)とフランスとの講和(ブーローニュ返還)を経て、ヘンリ8世期の膨張を縮小再編する局面に入りました。総じて、エドワード6世の時代は「急進的宗教改革の制度化」と「財政・社会のひずみの露呈」が同時進行した時代だったと言えます。

スポンサーリンク

継承と政体――少年王と摂政政治、サマセット公からノーサンバランド公へ

1547年、ヘンリ8世が没すると9歳のエドワードが即位しました。遺詔は複数名の遺言執行人・顧問による合議を想定していましたが、すぐに外戚のエドワード・シーモア(サマセット公)が主導権を握り、「護国卿」として摂政に近い権限を行使します。サマセットは王の叔父として人気があり、スコットランドへの軍事圧力(後述)と宗教改革の加速を同時に進めました。しかし社会経済政策で失点が重なり、1549年の反乱鎮圧後に失脚します。

後任として台頭したのがジョン・ダドリー(ウォリック伯→ノーサンバランド公)で、彼は軍人・行政家として政務の引き締めを図りました。ノーサンバランドは通貨政策の立て直し、対仏講和、宮廷派閥の抑制に努め、宗教面では大司教クランマーの改革をさらに制度化します。少年王エドワード本人は高い識字と敬虔さで知られ、日記や書簡から、教理に関心を払い統治に意欲を示した様子がうかがえますが、実権は終始摂政集団にありました。

宗教改革の加速――祈祷書・教会粛清・教義の再定義

エドワード期の宗教改革は、イングランド国教会の「教理と礼拝」を根本から作り替えました。まず1547年の王権勅令・勅許(Royal Injunctions)によって、聖像・聖遺物の崇敬が厳しく制限され、説教と聖書読解が重視されます。同年の「聖職祈祷基金没収法(Chantries Act)」では、ミサのための永代基金(チャントリー)が解体され、資産は王権財政に組み込まれました。これは財政措置であると同時に、煉獄や代祷の神学を否定する象徴的改革でもありました。

礼拝実務では、1549年に英語の『共通祈祷書(Book of Common Prayer)』初版が制定され、ラテン語ミサから英語礼拝への転換が全国一律で実施されます。この祈祷書は聖餐の理解に幅を残す折衷的文言でしたが、1552年改訂版ではキリストの実体化(実体変化)を否定し、会衆と説教中心のプロテスタント礼拝を明確化しました。聖卓の配置や祭服、十字架や燭台といった視覚要素も整理・撤去され、教会空間は説教台と朗読を中心とする簡素な様式へと再構成されます。

教義面では、トマス・クランマーが中心となって『説教集(Book of Homilies)』と教理書が整備され、最晩年の1553年には『四十二箇条条項(Forty-Two Articles)』が公布されました。これは後にエリザベス1世の下で『三十九箇条』に再編され、英国国教会の基準信条となります。司祭の妻帯容認や聖職者の教育規定、司教座の監督権の明確化なども進み、国王至上法(Supremacy)の実質化が図られました。

急進化に対する反発も強く、西南部コーンウォールやデヴォンでは1549年に「祈祷書反乱」が発生しました。住民はラテン語ミサと伝統儀礼の継続を求め、徴税や食糧価格への不満も重なって蜂起します。政府軍はこれを鎮圧しますが、反乱は「宗教と言語(英語礼拝)」をめぐる緊張が社会の深層に及んでいたことを示しました。

社会・経済と反乱――通貨品位・囲い込み・ケットの乱

エドワード期の国内最大の難題は、ヘンリ8世末から続く財政逼迫と通貨の品位劣化でした。戦費と宮廷費のために銀含有量を下げた鋳貨が流通し、物価上昇と賃金の実質低下を招きます。毛織物輸出の変調やアン特衛プ市場の不況も打撃となり、都市・農村双方で不満が高まりました。サマセットは「貧者の擁護者」を自任して囲い込み調査委員会を設けますが、実効性は乏しく、地代上昇と共同放牧地の私有化が進展します。

こうした不満が爆発したのが1549年の「ケットの乱」です。ノーフォークの実業家ロバート・ケットが、囲い込み撤廃と価格統制、公正な裁判を求めて群衆を組織し、ノリッジを占拠しました。反乱勢力は掟書を掲げて秩序を保とうとしましたが、最終的に政府軍が制圧し、多数の犠牲者を出して鎮圧されます。ケットの乱は、宗教改革の理念(聖書的正義・共同善)と社会経済の現実(市場化・囲い込み)が緊張関係にあったこと、そしてサマセット政権の統治力低下を露呈し、その失脚を早める要因となりました。

ノーサンバランド政権は引き締め策に転じ、1551年には通貨の品位劣化を停止し、財政の再建と歳出抑制を進めます。救貧対策では1552年の救貧法が制定され、各教区に貧民台帳の作成と施与管理を義務づけ、後のエリザベス救貧法へとつながる枠組みを提供しました。これは宗教改革で解体された修道院の救貧機能の代替として、世俗行政が貧困管理を引き受ける方向性を明確にした点で画期的でした。

外交と軍事――スコットランド戦役、ピンキーの戦い、ブーローニュ返還

対外政策の柱は、スコットランドへの圧力と対仏関係の整理でした。ヘンリ8世は、幼いエドワードとスコットランド女王メアリーの結婚で連合を目指す「ラフ・ウーイング(乱暴な求婚)」を仕掛けており、サマセットもこれを継承します。1547年のピンキー・クルーの戦いでイングランド軍は勝利し、海上・陸上からの圧迫でスコットランドを屈服させようとしましたが、メアリーはフランスに護送され、フランスの支援で英軍は各地で反撃を受けます。占領の持続可能性に乏しい状況で、ノーサンバランドは戦略を転換しました。

対フランスでは、ヘンリ8世が占領していたブーローニュを、1550年のブーローニュ条約でフランスに返還し、巨額の金を受け取って講和します。これにより戦費の重圧が軽減され、海峡の緊張もいったん収まります。対外的な膨張から内政整備への軸足移動は、宗教改革の制度化と財政再建を優先するノーサンバランドの現実主義を物語っています。

継承問題と夭折――ジェーン・グレイ擁立、エドワードの死

宗教政策をめぐって、エドワードは母方の異母姉メアリー(のちの「血まみれメアリー」)がカトリック復帰に動くことを強く警戒していました。1553年初頭、病が悪化するなかで、彼は王位継承を「男子優先」原則に沿って再解釈し、プロテスタントの継承を確保するために従妹のジェーン・グレイ(ノーサンバランドの息子ギルフォード・ダドリーと結婚)を指名する文書(Devise for the Succession)を作成しました。

しかし、エドワードが1553年7月に16歳で崩御すると、宮廷とロンドン市、地方の支持は急速にメアリーへと傾きました。ジェーンは9日間だけ「女王」として即位しましたが、まもなく退位させられ、メアリー1世が王位につきます。こうしてエドワード期のプロテスタント化は一時的に反転し、メアリー治世でカトリック復帰と迫害が進むことになります。

評価と意義――制度として残った宗教改革、行政国家への橋渡し

エドワード6世の時代は、個人のカリスマや軍事的栄光ではなく、制度・文書・礼拝書が政治の中心に座った時代でした。祈祷書・説教集・条項といったテキストは、エリザベス朝で再編集されながらも英語礼拝と国教会の基礎として残り、今日のアングリカン共同体にまで連なります。救貧法や教区単位の社会管理は、宗教共同体の役割を国家行政へと接続し、近世イングランドの「地方自治—中央統制」モデルの原型を与えました。

一方で、通貨の劣化・囲い込み・輸出不況がもたらした社会的亀裂は、宗教改革が「信仰と秩序の再設計」であっただけに、いっそう痛切に現れました。祈祷書反乱やケットの乱は、改革のスピードと手法が地域社会の受容力を超えた場合のリスクを映し出します。ノーサンバランドの講和・財政再建は短期的に効果を上げましたが、継承問題での政治操作は王権の信頼を損ない、結果的にメアリー即位を容易にした側面も否めません。

総括すると、エドワード6世の治世は「宗教改革の急進化」と「行政国家への移行」を加速させたが、社会の支持基盤と政治的持続性を十全に確保できなかった時代でした。少年王の短い統治は、多くの未完を残しつつも、英語礼拝・教義・救貧・通貨・外交再編といった制度的成果を次代へ受け渡しています。そのため、歴史叙述ではしばしば「中間の時代」と見なされますが、実際には、イングランドという国家が宗教・社会・経済・外交の各装置を再設計し、長い16世紀の最も敏感な転換点を駆け抜けた濃密な6年間だったのです。