ガンディー(モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー、1869–1948)は、英国植民地下のインドで、武力に頼らず民衆運動を組織し、独立獲得の大きな推進力となった人物です。彼の名前は「非暴力」と結び付けて語られることが多いですが、単に暴力を否定したのではなく、「真理を手放さない力(サティヤーグラハ)」と「自己を鍛え抑制する力(セルフ・ルール=スワラージ)」を軸に、人びとが恐れずに立ち上がる方法を提示した点に特徴があります。差別や不正に対して沈黙せず、しかし相手を打ち負かすことを目的にしない態度は、植民地当局の暴力性を可視化し、国内外の世論を動かしました。ガンディーは弁護士としての実務能力、宗教的な内省、生活実践(糸車や粗衣・菜食・禁欲)を結びつけ、政治・倫理・日常を一つの線で貫こうと試みました。本稿では、彼の生涯の要点、理念と方法、主要な運動の展開、評価と論点、そして暗殺と遺産について、分かりやすく整理して説明します。
生涯の概観—インドからロンドン、南アフリカを経て
ガンディーは1869年、インド西部グジャラート地方の港町ポールバンダルに生まれました。家は行政官を輩出するヴァイシュナヴァ系の敬虔な家庭で、母からの宗教的影響は強かったと伝えられます。青年期の彼はロンドンで法学を学び、ヴィクトリア朝のイギリス社会に触れて見聞を広めました。菜食主義や自律的生活への関心、さまざまな宗教文献の読書は、この頃に深まりました。
1893年、彼は弁護士として南アフリカへ渡り、鉄道の車内で「非白人」という理由で一等から追い出される事件を経験します。この屈辱は、のちの活動の原体験になりました。南アでは、インド系住民に課された通行証法や人頭税など差別的制度に抗して、ガンディーは地域社会を組織し、請願、ボイコット、集会、断食などを組み合わせた抵抗運動を指導しました。ここで「サティヤーグラハ(真理把持)」という概念が形をとり、暴力に訴えず、違法と信じる法には服従しない良心的違法(シビル・ディスオビディエンス=市民的不服従)の手法が練り上げられました。
第一次世界大戦後、1915年にインドへ帰国すると、彼は農村や工業労働者の現場を歩き、地主制や課税、労働争議の問題を視察しました。その過程で、地域の小さな争いを全国的な課題へとつなぎ直す構図を作り、インド国民会議(INC)の大衆化に寄与しました。都市のエリート中心だった政治に、農村や被差別層、女性、商人・職人など多様な人びとを巻き込むため、衣服・食事・日用品・儀礼に至るまで、日常の選択を政治化する工夫が重ねられました。
理念と方法—非暴力・サティヤーグラハ・スワラージ
ガンディーの方法は、単なる「暴力の不使用」ではなく、倫理的・政治的な積極性を持っていました。サティヤーグラハは、真理(サティヤ)と執着的な力(アグラハ)を合わせた造語で、相手の良心に訴え、自らの苦難の引き受けを通して相手の変化を促す実践です。彼にとって真理は宗教的な理念であり、嘘や憎悪に頼らずに行動することが不可欠でした。暴力で相手に勝つことより、暴力に訴えたい衝動を自分の内に抑え込むことが、より高い力の証明だと考えました。
スワラージ(自己統治)は、単なる政治的独立だけを意味しません。個人が欲望や恐怖に支配されず、共同体が自給と自治を高め、外国製品や中央集権への依存を減らすことも含まれます。象徴的な実践が「糸車(チャルカ)」でした。輸入綿布の不買(スワデーシー)と手紡ぎ・手織りの奨励は、帝国の産業構造に対する経済的抗議であると同時に、貧困層に仕事をもたらし、共同体の尊厳を立て直す手段でもありました。粗衣・禁欲・菜食・少食・断食は、政治的演出だけでなく、自己訓練として位置づけられました。
市民的不服従の技法では、法の正当性を吟味し、良心に反する法には公開の場で違反し、その罰を受けることで権力の不当性を明らかにします。秘密結社や暴力の準備は、運動の正統性を損ない、拡大を阻害すると彼は判断しました。新聞や集会、巡回説法を通じ、運動は透明なルールの下で行われ、挑発や暴力が発生した場合は即座に運動を停止し、自己点検と沈静化を優先するのが原則でした。
主要な運動—非協力運動から塩の行進、個人サティヤーグラハへ
1920–22年の非協力運動は、第一次世界大戦後の苛烈な統治とアムリットサルの虐殺(1919年)の衝撃を背景に展開しました。ガンディーは英国の学校・法廷・官製称号・商品からの離脱を呼びかけ、群衆は外国布のボイコットと国産布の使用、行政への協力拒否、地方自治の強化を進めました。しかし、チャウリチャウラでの群衆暴力(1922年)を受け、彼は運動の停止を決断します。これは「暴力の兆しが出たなら、たとえ政治的機会を逃しても止める」という彼の一貫した姿勢を象徴します。
1930年の「塩の行進(ダンディー・マーチ)」は、彼の象徴的行動の白眉です。植民地政府が塩に税をかけ、製造・販売を独占していたことに対して、彼はアーメダーバード近郊のサバーラマティー修道場から海岸のダンディーまで約380キロを歩き、海水から塩を作る行為で法への公然たる違反を示しました。日々の生活に不可欠な塩を選んだことで、階層を超えた共感が生まれ、インド全土に不服従のうねりが広がりました。英国は多くの活動家を逮捕しましたが、暴力によらない抗議の姿は国際世論を強く動かしました。
第二次世界大戦中、1942年に国民会議は「クィット・インディア(インド放棄)」運動を宣言し、ガンディーも逮捕・収監されます。彼は高齢と病を押して抗議を続けましたが、戦争と内外政治の複雑さの中で運動は弾圧と自発的蜂起が交錯しました。戦後、英国内世論と財政的限界、インドの政治的現実は、独立の不可避性を示し、1947年に英領インドはインド連邦(のちインド共和国)とパキスタンに分離独立します。
1940–41年の「個人サティヤーグラハ」は、戦時下における限定的・象徴的抗議として設計され、各地の指導者が順番に「真理の名において」政府に反対の意見表明を行い、逮捕に身を委ねました。大規模動員ではなく、個々の良心の強さを示す方式は、暴力化のリスクを抑えつつ抗議の火を絶やさない知恵でした。
宗教・社会観—多元性と差別へのまなざし
ガンディーの宗教観は、ヒンドゥー教に根ざしながら、イスラーム、キリスト教、ジャイナ教、仏教などに開かれたものでした。彼は宗教を「真理への道」と捉え、各宗教の核心に道徳的一致があると考えました。共同体間暴力が激化した時期には、彼は暴動の現場へ赴き、断食をもって和解を迫りました。断食は自己罰ではなく、共同体の良心に訴える最後の手段と位置づけられました。
不可触民(彼の用語ではハリジャン=「神の子」)に対しても、寺院への参拝解禁や教育の機会拡大、衛生向上など、社会的包摂を推進しました。一方で、階級・カースト制度の構造的批判や、女性の権利拡張については慎重・保守的だとの指摘もあります。彼の禁欲主義、生殖や家族観をめぐる発言は、後世のフェミニズムや人権論の観点から議論の対象となっています。
経済観では、重工業化による集中と環境破壊を警戒し、村落共同体の自給と分権を重視しました。小生産と手工業、地域通貨、協同組合的組織が理想像として掲げられ、巨大国家と大企業の力を倫理的基準で制御しようとする発想が見られます。これは現代の適正技術やサステナブルな発展論にも通じますが、人口増大と近代化の圧力の中で現実的なのかという批判もつきまといました。
評価と論点—戦略の限界、政治との齟齬、そして暗殺
ガンディーの運動は、国際世論と国内の倫理的覚醒を動かしましたが、すべての局面で有効だったわけではありません。植民地国家の強権、宗派対立、経済的利害が絡む場面では、非暴力の均衡が崩れ、暴動や分断が生じました。彼は運動の停止や路線の修正を行いましたが、「機会を逃した」「現実政治に弱い」という批判も受けました。スバス・チャンドラ・ボースのように、国外から武力を含む手段を模索した指導者との対立は、その象徴です。
独立交渉では、全インド・ムスリム連盟のジンナーらとの妥協が進み、パキスタン分離を巡る対立が先鋭化しました。ガンディーは統一の理想を最後まで捨てませんでしたが、分離は現実となり、独立と同時にパンジャーブやベンガルで大規模な宗派暴力が発生しました。彼は暴動鎮静のため現地で断食・説得を続けましたが、1948年1月、ニューデリーでヒンドゥー至上主義者ナトゥーラム・ゴードセによって暗殺されます。彼の死は、宗教的寛容と非暴力の理念への支持と反発が、同時に存在していたことを痛烈に示しました。
評価の面では、非暴力が「弱者の戦略」ではなく、権力の暴力を抑制し、道徳的優位を担保する「強さの実践」であることを彼が示した点が重視されます。同時に、国家権力の運営や経済開発の具体論になると、彼の理想主義は現実政治との調停が難しいとの指摘も根強くあります。とはいえ、倫理と政治を切り離さない構想、個人の修養と社会変革の接続は、20世紀の運動史に特異な光を投げかけています。
遺産—世界への波及と今日的関連
ガンディーの方法は、米国の公民権運動でキング牧師に受け継がれ、モンゴメリー・バス・ボイコットやワシントン大行進など非暴力直接行動の知的骨格となりました。南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動、ポーランドの連帯、フィリピンのエドゥサ革命、東欧の民主化運動、ミャンマーや香港など、多くの地域で彼の語彙が再解釈されて用いられています。市民的不服従、ボイコット、ストライキ、象徴的行動は、民主主義の圧縮局面でとくに力を持つ技法です。
教育・市民社会の分野でも、非暴力コミュニケーションや対話型の紛争解決、真相究明委員会などの仕組みが、暴力の連鎖を断ち切る方策として注目されています。デジタル時代には、情報の透明性、オープンな意思決定、フェイクニュースへの倫理的対処など、新しい課題が生まれていますが、「手段が目的を裏切らない」ことを重視するガンディーの遺産は、方法の選び方を問い直す規範として生き続けています。
インド国内では、彼の肖像や記念日が公的空間に残る一方、経済開発や宗教ナショナリズムの高まりの中で、理念の受け止め方は揺れています。糸車の象徴は、スタートアップやマイクロ・エンタープライズの支援、農村の自助と相互扶助の再評価など、新しい文脈に置き換えられています。農村の衛生運動、トイレ整備やごみ分別のキャンペーンなど、生活改善と倫理の接点にも、彼の方法論の影響が見られます。
総じて、ガンディーは政治家であると同時に、生活者・修行者・コミュニティ組織者でした。暴力に魅せられがちな権力の論理に対して、彼は自らの身体と日常を差し出すことで対抗し、民衆の参与を回復させる「政治の再魔術化」を試みました。成功も挫折も含めて、彼の歩みは、手段と目的、倫理と効果、個人と社会の関係を、私たちに具体的な問いとして突き付け続けています。

