ジョージ1世 – 世界史用語集

「ジョージ1世」は、1714年に即位したイギリス王で、ハノーヴァー朝(ハノーヴァー家)最初の国王です。ドイツ北部ハノーヴァー選帝侯家の出身でありながら、スチュアート朝の血筋を通じてイギリス王位を相続し、「イギリスにやってきたドイツ人の王様」として知られています。即位当時のイギリス社会では、「英語もろくに話せない外国人の王」が受け入れられるのかという不安や反発もありましたが、その一方で、議会政治と王権の関係を再整理し、立憲王政が進んでいくきっかけを作った人物とも評価されています。

ジョージ1世が即位した背景には、名誉革命以来の「プロテスタント王統を守る」というイギリスの政治的選択があります。前王家スチュアート朝にはカトリック系の継承者もいましたが、議会は王位継承法によってそれらを排除し、遠縁ながらプロテスタントであるハノーヴァー家のゾフィアとその子孫に王位を継がせる道を選びました。その結果、ドイツ出身のジョージ1世がイングランド王・スコットランド王(のちグレートブリテン王)として迎えられたのです。

ジョージ1世自身は、イギリス国内政治の細部に積極的に介入しようとしませんでした。その代わり、議会内の有力政治家たちが国政運営の中心を担うようになり、のちに「首相」と呼ばれる役職の前身も形成されていきます。つまり、彼の時代は「王が絶対的に政治を動かす」時代から、「王は象徴的な存在となり、実務は議会と閣僚が担う」方向へと転換していく重要な過渡期でした。

以下では、まずジョージ1世の出自と即位の経緯をたどり、そのうえで彼の治世における国内政治(ジャコバイトの反乱やウォルポールの台頭など)、外交とハノーヴァー領との関係、そして立憲君主制の発展における位置づけについて、もう少し詳しく見ていきます。

スポンサーリンク

ドイツ諸邦の君主からイギリス王へ―出自と即位の経緯

ジョージ1世(George I, 1660〜1727年)は、ドイツ北部に位置するハノーヴァー選帝侯領(正式にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領)の君主、ゲオルク・ルートヴィヒとして生まれました。彼の家系は神聖ローマ帝国の諸侯の一つであり、当時のヨーロッパでは中堅クラスの領邦君主にあたります。若い頃の彼の関心や活動の中心は、あくまでドイツの領地の経営と帝国内での地位向上にあり、イギリス王位を継ぐことは、当初は現実的な選択肢とは考えられていませんでした。

状況が変わったのは、イングランド側の事情によります。17世紀のイングランドでは、清教徒革命と王政復古、そして1688年の名誉革命を経て、「議会が主導し、プロテスタントの王を戴く」という新しい政治原則が形づくられていました。名誉革命で即位したウィリアム3世とメアリ2世、ついでアン女王までは、この枠組みの中で王位が継承されましたが、アン女王には子どもが育たず、後継問題が深刻化します。

このとき、議会は「王はプロテスタントでなければならない」という原則を強く打ち出しました。1701年の王位継承法(Act of Settlement)では、カトリック信仰を持つ王位継承者を排除し、プロテスタントであるハノーヴァー選帝侯夫人ゾフィア(スチュアート家の血を引くジェームズ1世の子孫)とその子孫が、アン女王の後継者になることが決められました。ゾフィアはアンよりも長生きすることを期待されていましたが、実際にはアン女王より先に亡くなってしまい、その息子ゲオルク・ルートヴィヒが王位継承者となります。

1714年、アン女王が死去すると、この王位継承法に基づき、ゲオルク・ルートヴィヒがイングランド・スコットランド・アイルランドの王として迎えられました。これがジョージ1世の即位です。この時点で、旧王家のスチュアート朝にもジェームズ2世の子孫(いわゆる「王位請求者(プリテンダー)」)が存在していましたが、彼らはいずれもカトリックであったため、議会はあえて遠縁のハノーヴァー家を選んだのです。ここには、「宗教的にプロテスタントであること」が、血筋の近さより優先されるという、イギリス特有の政治的判断がありました。

こうして、ドイツの諸侯であったジョージ1世は、突然「グレートブリテン王」として新たな役割を担うことになりました。彼自身は英語にあまり堪能ではなく、宮廷ではドイツ語やフランス語を用いることが多かったとされています。このため、イギリス国内には「外国人の王」に対する距離感や疑念が存在し、それがのちのジャコバイト運動(スチュアート家復活をめざす運動)の土壌ともなりました。

ジャコバイトの反乱と国内政治―議会との関係

ジョージ1世の即位後、イギリス国内で最初に大きな政治的試練となったのが、1715年のジャコバイト反乱です。ジャコバイトとは、名誉革命で退位したジェームズ2世とその子孫による王位の正統性を主張する人びとのことで、主にスコットランド高地地方の氏族や一部のアイルランド人、保守的なトーリー党の政治家などが支持基盤でした。彼らは、ハノーヴァー家の即位を「正統なスチュアート王家からの簒奪」とみなし、機会を見ては反乱を企てていました。

1715年の反乱では、「大僭称者」と呼ばれたジェームズ2世の子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ3世を自称)が支持者の蜂起を促しました。スコットランドやイングランド北部で武装蜂起が起こり、一時的には政府軍を脅かしましたが、最終的には軍事力と組織の差によって鎮圧されます。この反乱の鎮圧は、まだ不安定だったハノーヴァー王朝の地位を、一定程度安定させる契機となりました。

ジョージ1世の治世において重要なのは、こうした内乱を乗り越える中で、「王」と「議会」と「政党」の関係が再整理されていったことです。ジョージ1世は、前王家に近い保守的なトーリー党を信用せず、主にホイッグ党の政治家たちに政権運営を任せました。このため、彼の時代はしばしば「ホイッグ寡頭政」と呼ばれます。ホイッグ党は、名誉革命の原則やプロテスタント王統の維持、議会の権限を重視するグループであり、ジョージ1世の即位を強く支持していました。

ジョージ1世自身は、母語がドイツ語であり、イギリス議会の討議を直接理解するのが難しかったこともあって、議会での討論や細かい政争に積極的に関わろうとはしませんでした。その結果、実際の政権運営は、内閣を構成する大臣たち、特にホイッグ党の有力者の手に委ねられるようになっていきます。王は内閣の人事や大まかな方針に口を出すことはあっても、日常的な政治運営は、議会多数派を背景にした大臣が取り仕切る、というスタイルが徐々に定着しました。

この中で頭角を現したのが、ロバート・ウォルポールです。ウォルポールはホイッグ党の有力政治家として、財政や議会運営で腕をふるい、ジョージ1世およびその後継者ジョージ2世の信任を得て、事実上の「首相」として長期にわたり政権を担うことになります。形式上、「首相」という役職名はまだ確立していませんでしたが、後世から見れば、ウォルポール期はイギリスにおける首相制・内閣責任制の萌芽期といえます。

このように、ジョージ1世の治世は、王の力が相対的に弱まり、議会・政党・内閣の力が増していく過程そのものでした。彼が積極的に憲法改革を行ったわけではありませんが、彼の性格と出自、そして当時の政治状況が重なり合うことで、「立憲君主制イギリス」の枠組みが現実の政治慣行として形を取り始めたのです。

外交とハノーヴァー領―二重の立場がもたらした影響

ジョージ1世の治世を考えるうえで特徴的なのは、彼が「イギリス王」と同時に「ハノーヴァー選帝侯」でもあったという、二重の立場です。彼にとってハノーヴァー領は、生まれ育った故郷であり、家門の本来の領地でした。そのため、彼はイギリス在位中もしばしばハノーヴァーに長期滞在し、ドイツにおける自らの地位と領土の防衛・拡大に強い関心を持ち続けました。

この二重の立場は、イギリスの外交政策にも影響を与えました。ジョージ1世は、ドイツ北部におけるハノーヴァーの安全保障を重視し、オーストリアやプロイセン、ロシアなどとの関係を調整しながら、自らの領地を守ろうとしました。その一方で、イギリスとしては、フランスとの勢力均衡や海上覇権、植民地競争も重要な課題でした。つまり、イギリス王としての国益と、ハノーヴァー選帝侯としての家門の利益が、時に重なり、時に微妙にずれる可能性があったのです。

たとえば、スペイン継承戦争後の国際秩序や、バルト海・北海地域での勢力争いなどでは、ハノーヴァー領の安全が優先されているのではないかと、イギリス国内で疑念が持たれることもありました。「王はイギリスよりも自分のドイツの領地のほうが大事なのではないか」という批判は、ジョージ1世の評価を複雑にしています。

しかし逆に言えば、ハノーヴァーを通じてドイツ諸邦の情勢に直接触れていたことが、イギリスの大陸政策に独自の視野を与えた面もあります。18世紀のヨーロッパでは、フランスとオーストリア、プロイセン、ロシアなどのあいだで勢力均衡が絶えず揺れ動いていましたが、イギリスはしばしば「海洋帝国」として、直接の領土拡大よりもバランス維持と貿易の利益を重視する戦略をとりました。ジョージ1世〜ジョージ2世の時代に形づくられたこの「バランス・オブ・パワー」外交は、その後のイギリス外交の基本線ともなります。

また、イギリスに住む人びとにとって、ドイツ出身の王の存在は、ヨーロッパ大陸との文化的・人的なつながりを意識させる要素にもなりました。音楽家ヘンデルがロンドンで活動し、宮廷音楽やオペラ文化が花開いた背景には、ハノーヴァー出身の王とドイツ系文化圏とのつながりがありました。こうした文化的交流の側面も、ジョージ1世の時代のイギリス社会を彩る一要素です。

ジョージ1世の評価と立憲君主制への道

ジョージ1世は、カリスマ性に富んだ英雄的な君主というより、むしろ堅実で慎重、やや地味な人物として描かれることが多いです。性格面でも、華やかな宮廷文化を好んだ先代たちと比べて質素で実務的であり、家庭生活や人間関係では問題を抱える一面もありました。そのため、文学や大衆文化の中ではあまり人気のある王ではなく、「英語も話さない、国にあまり関心を示さない外国人の王」として批判的に語られることも少なくありません。

しかし、政治史の視点から見ると、彼の治世は非常に重要な意味を持ちます。第一に、プロテスタント王統と議会主導の政治という、名誉革命以来の原則を確実に定着させたことです。ジャコバイト反乱を抑えこみ、スチュアート朝の復活を防いだことで、イギリスは「議会が選び、議会に制約される王」のもとで安定した体制に向かうことができました。

第二に、ジョージ1世が国内政治に深く立ち入らなかったことが、結果として議会と内閣の自立を促した点です。もし彼が強い個性と権力欲を持つ王であれば、議会と激しく対立したり、再び専制的な王権強化を目指したりした可能性もあります。実際にはそうならず、ホイッグ党優位のもとで議会政治が進展し、ウォルポールのような「首相」役の政治家が、国政の舵取りを担うようになりました。これは、立憲君主制・議院内閣制へ向かう長い道のりの重要な一歩でした。

第三に、ハノーヴァー朝の開始は、イギリスがヨーロッパ大陸、とくにドイツ世界と独特の関係を結ぶ出発点でもありました。ジョージ1世・2世の時代を通じて、イギリスはドイツ諸邦との結びつきを保ちながら、フランスとの対抗と植民地拡大を進めていきます。この構図は、七年戦争やその後のイギリス帝国の発展に通じる国際関係の土台ともなりました。

総じて言えば、ジョージ1世は「大改革を行った王」ではなく、「すでに始まっていた変化を、無理に逆行させることなく受け止めた王」として位置づけられます。彼個人の能力や人気には限界があったとしても、その在位期間に進んだ議会政治の定着と王権の役割変化は、近代的な立憲君主制国家イギリスの形成にとって欠かせないプロセスでした。その意味で、ジョージ1世の名前は、世界史において「ハノーヴァー朝の開始」と「議会政治への移行期の象徴」として記憶され続けています。