三省 – 世界史用語集

「三省」とは、中国の隋・唐を中心に整備された中央官制の枢要部門である中書省・門下省・尚書省を指す名称です。皇帝独裁のもとにありながら、政策の立案(中書)・審議と諫否(門下)・執行と行政管理(尚書)を分掌させ、相互に牽制と補完を行うことで、巨大帝国の意思決定と日常行政を効率化し、かつ誤謬を抑制する仕組みでした。三省制は、魏晋南北朝期の官制的蓄積を踏まえて隋で制度化され、唐で完成度を高め、以後の宋・遼・金・元・明・清や朝鮮王朝、日本の律令制など東アジアの官僚制に深い影響を与えました。今日の行政学でいう「政策形成・審査・実施」の分業とチェックの原理を、前近代の帝国が独自に設計した例として理解すると、その意義がわかりやすいです。

三省を理解する近道は、(1)いつ・どのように成立したか、(2)それぞれの部門が具体的に何を担ったのか、(3)皇帝権力と三省の関係が実務でどう運用されたのか、(4)王朝交替の中でどのように変容したのか、(5)周辺地域へどう伝わり、どのように受容・変形されたのか、という五つの視点を押さえることです。以下では、これらを順にたどり、用語だけでは見えにくい運用の実像を、史料の用語や官職名を交えながら立体的に説明します。

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起源と成立—魏晋南北朝の前史から隋唐の制度化へ

三省の源流は、後漢末から魏晋南北朝にかけての官制の分化に求められます。後漢の尚書台は詔勅の起草・審査・施行を一手に担う中心機関でしたが、権限の集中は政治の停滞や独走の危険を孕みました。魏の曹魏政権では、中書監・中書令を長とする中書省(中書台)が台頭し、機密詔の起草・政策立案の権能を獲得します。さらに、東晋・南朝では黄門郎や門下省の系譜が発達し、詔勅の審議・封駁(差し戻し)機能が意識されるようになりました。北朝側でも、北魏・北斉・北周が独自の改革を重ね、詔命起草と審査、行政執行の分業が漸次整っていきます。

この長い前史を総括し、統一王朝のもとで整序したのが隋でした。文帝(楊堅)は、軍政・財政・司法の統合に加え、中央官制の枢構として中書・門下・尚書を明確に位置づけ、皇帝—三省—六部の垂直分業を設計しました。煬帝の時代には、広域的土木事業・対外戦争・統一国家運営の実務負担が激増し、制度上の分業と相互牽制の必要性はさらに強まりました。唐に入ると太宗・高宗期に制度の磨き込みが進み、『永徽律令』『開元礼』など法令に三省の職掌が整理され、名称・定員・階層が整えられていきます。

三省の職掌—中書・門下・尚書の分業と人事

中書省(ちゅうしょしょう)は、皇帝の意思を法令文書(詔勅・制・勅)にまとめ、政策の草案を作成する機関でした。長官は中書令(位階は高位だがしばしば欠員)で、実務の中心は中書侍郎・中書舍人・給事中などが担いました。草案の作成は単なる文言の整えではなく、諸司からの情報整理、前例・法令の照合、予算や人員の裏づけ確認など、政策デザインの中核作業でした。文案は朱書・墨書を経て次段階へ送付され、場合によっては皇帝の「批答(朱書)」が加わります。

門下省(もんかしょう)は、文字通り宮城の門の下で詔勅の是非を審査し、違法・不当・不急と判断した文書を「封駁(ふうばく)」する権限を持つ機関でした。長官は納言・黃門監などの称が知られ、実務では門下侍郎・給事中・起居郎・起居舎人などが参与します。門下の給事中は、詔勅の条目に朱点(緑点)を入れて異議を示し、皇帝に再考を促すことができました。これにより、突発的な感情や情報不足に基づく命令の暴走を抑える「ブレーキ」が制度化されていたのです。

尚書省(しょうしょしょう)は、政策の実施と日常行政の総元締めでした。長官は尚書令(多くは名誉職で欠)で、実務の中心は左右僕射(ぼくや)と左右丞(じょう)です。尚書省の下には六部—吏部(人事)・戸部(戸籍・財政)・礼部(礼制・科挙)・兵部(軍政)・刑部(司法)・工部(土木・工匠)—が置かれ、それぞれ侍郎・郎中・員外郎・主事などの職階が編成されました。尚書省は、三省の中で最大の人数と文書量を抱え、上からの命令を法規・式・令に落とし込んで具体の執行に移す「行政機械」として機能しました。

この三者の関係は、直線の上下関係ではなく、起草(中書)—審査(門下)—執行(尚書)という横並びの工程管理に近いものでした。皇帝は、三省の長官(中書令・侍中=門下長官・尚書令/僕射)を「同中書門下三品」「同中書門下平章事」などの同平章事(宰相職)に任命し、複数名で政務会議(政事堂)を運営させます。宰相は特定省の人でありながら、省際的に政務を統括する「機能横断」の役割を負いました。

運用と均衡—皇帝権力、政事堂、科挙、外廷と内廷

三省制の肝は、皇帝の意思決定を補佐しつつも、過度な集中と恣意を抑えるバランスにあります。政務は通常、政事堂での合議をへて皇帝に上奏され、皇帝の裁可・批答が下ると、中書が文案を整え、門下が審査し、尚書が執行するという流れを取ります。重大案件では、詔勅の形式(制・詔・勅)や印璽の用い方、日付の置き方に厳格な規範があり、格式の乱れは政治過程の逸脱と見なされました。

しかし理想どおりに稼働するとは限りません。外廷(朝廷)とは別に、皇帝の近侍—中書省の舍人・尚書省の高官—や、やがて唐中期以降に重くなる宦官(権力化した内侍省)・翰林学士(翰林院、制詔起草の中枢)などの内廷が、政務に影響を及ぼします。とくに玄宗期以降、翰林学士が機密詔起草の独占に近づくと、中書省の権限は相対的に低下し、門下の封駁が形骸化する局面も生まれました。他方、科挙制度の整備により、吏部・礼部が担う人材選抜ルートと、三省の高官任命(制置使・節度使の兼帯等)が絡み合い、外戚・宦官・朋党の抗争が行政運営に影を落とします。

それでも、三省の分掌は、皇帝が特定集団に依存し過ぎることを防ぐ「制度的緩衝材」として働きました。門下の封駁や諫議大夫の諫言は、政策決定に法理的・倫理的基準を持ち込み、尚書の六部運営は、広域帝国の課題—戸籍・税・兵役・刑罰・土木—を専門分化した官僚機構へと接続しました。唐代の法典『唐六典』は、三省・六部・九寺・五監などの相互関係を明文化し、ガバナンスの「見取り図」を示しています。

変遷—宋・遼・金・元・明・清における三省の改編

宋代には、唐の三省制を踏まえつつも、皇帝親政を強めるための改編が進みました。中書門下(中書省と門下省の統合)に同中書門下平章事が置かれ、これが事実上の宰相職となります。一方で、尚書省は形式的機関として残りつつ、実務は枢密院(軍政)・三司(財政)・中書門下(文官政務)が分立する二府三司体制へとシフトしました。ここでは、三省の「立案—審査—執行」の直線は緩み、文武の分権と合議が強調されます。

契丹の遼や女真の金でも、漢地統治部分では三省・六部を導入し(遼の南面官、金の国朝官)、自らの伝統制度と折衷した二重行政を敷きました。元代(モンゴル帝国の中国支配)では、中書省が広域統治の総理機関として肥大化し、江南等に行中書省(行省)を設置して地方統治を担わせる画期的な制度を生みます。これがのちの「省(省級行政区)」の語源であり、中国の地方制度史に決定的な影響を与えました。門下省は早くに廃され、尚書省も形骸化し、中央の実権は中書省と枢密院に集中しました。

明代初期、洪武帝は宰相職(中書省)を廃止して皇帝親政を貫徹し、六部を皇帝に直属させる体制に転換します(胡惟庸の獄を契機)。以後、三省は中央から消滅し、政策の企画・審議・執行の分業は、内閣・大学士・六部・都察院・錦衣衛などの新たな組み合わせで代替されます。清代も基本は明の体制を継承しつつ、軍機処による機密決裁と皇帝の裁量を強めました。こうした経緯は、三省が「不可欠の唯一解」ではなく、皇帝権力と官僚制のバランス設計の一選択肢であったことを示しています。

周辺への影響—朝鮮・日本・ベトナムと三省イメージの変奏

高麗・朝鮮王朝は、唐宋の官制を参照しつつ、中書門下・尚書省相当の機構(高麗の中書門下省、門下侍中、三司など)を整備しました。とくに高麗では、中書門下省が最高機関として政務を統括し、尚書省は六曹(六部)を統括する実務府として機能しました。朝鮮王朝では三政丞(議政府)・六曹直啓制など、明の影響を強く受けた再編が進みますが、中書—門下—尚書の三段分業の理念は制度意識に残り続けました。

日本の律令制(飛鳥・奈良)における太政官は、唐制を移植したものの、三省をそのまま置かず、太政大臣・左右大臣・大納言の合議の下に八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)を配置する枠組みを採りました。ここでは、三省という言葉は登場しませんが、政策立案(弁官局や蔵人所以降の内裏機関)・審議(太政官の評定)・執行(諸省)という機能分担は意識され続けます。ベトナム(大越)でも、宋・元・明の影響を反映した三省六部型の官制が整備され、皇帝—宰相—六部という構造が長く維持されました。

このように、三省は単なる漢字語の輸出ではなく、東アジア各地で自国の政治文化・王権構造に合わせて翻案されました。移植の過程で、門下の封駁が弱められたり、宰相権が強化・弱体化されたりする変奏が生まれ、結果として多様な「東アジア版官僚制」のレパートリーが形成されます。

史料・用語・実務の手触り—三省を読み解くポイント

三省の実像は、『旧唐書』『新唐書』の百官志『唐六典』、宋代の『宋史・職官志』、元の『元史』などの制度志、さらに詔勅類・碑文・墓誌・文集に残る官名・署名・日付の表記に生きています。文書末尾の「中書門下」「門下省可」「尚書省行文」などの語は、どの工程を経由したかを示し、封駁の印や点は審査の痕跡を可視化します。政事堂参加者の署名や、給事中・舍人の上奏文は、具体の政策論争(税制・兵制・科挙改革・仏教政策など)の中で、三省がどのように機能したかを教えてくれます。

人事面では、三省の高官が地方の節度使や観察使を兼ねること、外任からの還任が栄達コースになること、宦官・外戚・朋党の推挙が昇進に影響することなど、政治社会の力学が反映します。科挙出身者(進士)が中書・門下で文案・審査に携わり、法曹系(明経・法科)が刑部や大理寺で司法に携わる、といった専門性とキャリアの関連も注目点です。尚書省の六部は、現代の「ライン官庁」に近い運用で、規則・式・令の遵守と出納・倉儲・土木工事の監督など、定常的行政の重荷を担いました。

さらに、三省のバランスは、財政危機・外征・内乱などのショックに弱いことも理解しておくべきです。玄宗末—粛宗期の安史の乱では、節度使の自立と軍需の窮乏が中央の合議を空洞化させ、内廷(宦官と翰林)の比重が増しました。宋代の王安石改革や新旧法党争では、中書門下と三司・枢密院の関係が政治抗争の焦点となります。こうした事例を通じて、三省が「安定期の調律装置」であり、非常時には別の権力装置に置き換えられやすい脆弱性を持つことが見えてきます。

位置づけ—前近代帝国のガバナンスデザインとしての三省

総括すると、三省は、皇帝専制のもとで「分業」と「牽制」を制度化し、広域行政を運転するためのプロセス設計でした。中書の政策形成、門下の審査・封駁、尚書の実施・管理という工程は、現代の政策サイクル(アジェンダ設定→政策立案→審査→実施→評価)にたとえると理解しやすく、巨大官僚制の意思決定に「段差」と「調律」を与える役割を果たしました。王朝交替のなかで消長はあっても、三省が提供した設計思想—機能ごとの分掌、合議、法令の形式と手続きの厳格化—は、のちの中央—地方関係の再設計や、内閣・枢密院・軍機処といった装置の構想力として生き続けます。

世界史の文脈では、三省はローマの官制やイスラームのディワーン、ヨーロッパ近世の枢密院・会計院・各省制と比較することで、前近代国家の制度的多様性の一端を照らします。理念的には、専制のもとでいかに抑制を制度化するかという普遍的テーマへの一解答であり、現代の行政学・比較制度研究においても示唆に富む対象です。用語暗記を超え、史料に触れながら運用のディテール(誰が、どこで、どの印を押し、どの語句を用い、どの順序で決裁したか)を追うことが、三省理解の最短距離といえるでしょう。