仰韶文化 – 世界史用語集

仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)は、中国の黄河中流域を中心に、今からおよそ7000年前から5000年前(概ね紀元前5000~前3000年頃)に広がった新石器時代の文化を指します。素焼きの土器に黒色などで幾何学や魚・人面などを描いた「彩文土器(彩陶)」がよく知られ、集落は半地下式の住居を中心にまとまり、粟(アワ)やキビを育て、豚や犬を飼う暮らしが営まれました。のちの中国文明の舞台となる黄土地帯で、人びとがどのように食べ、住み、ものを作り、祈ったのかを具体的に教えてくれる文化です。専門知識がなくても、描かれた模様の生き生きとした表現や、環濠をめぐらした村の姿から、当時の人びとの生活の気配を感じ取ることができます。

この文化は、一か所の遺跡だけではなく、陝西・河南・山西・甘粛など広い範囲で見つかる多くの遺跡群の総称です。1920年代にスウェーデンの考古学者アンデションが河南省の仰韶村で発見・命名したことから、この名が広まりました。時期や地域によって特徴はさまざまですが、共通しているのは、農耕と牧畜を組み合わせた生活、土器と石・骨製品の発達、そして比較的均質でまだ大きな身分差の少ない社会構造です。概要だけでも、その輪郭はつかめますが、詳しく知ると一層立体的に見えてきますので、以下では発見の経緯、暮らしと社会、工芸と技術、信仰と交流という観点から順に説明します。

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発見と時代背景

仰韶文化の名は、河南省三門峡市渑池(みんち)県の仰韶村遺跡に由来します。1921年、スウェーデン人考古学者ヨハン・グンナル・アンデションがこの地を調査し、彩文土器を特徴とする新石器時代の文化層を報告しました。これが中国新石器時代研究の出発点のひとつとされ、以後の発掘で黄河の中流から上流にかけて同種の文化相が広く確認されました。現在では、仰韶文化は単一の同質的文化ではなく、時期差・地域差を含む大きなまとまりとして理解されています。

年代の面では、概ね紀元前5000年頃に始まり、前3000年頃まで続いたと考えられます。古気候学の復元から見て、これは完新世の温暖な時期にあたり、黄土高原の斜面や台地での雑穀農耕に適した環境が広がっていました。大河の氾濫原だけでなく、谷や台地の縁に多くの集落が営まれ、土地の肥沃さと水の確保、狩猟採集の場へのアクセスを考慮した立地が選ばれたと考えられます。

仰韶文化に先行・並行する文化との関係も重要です。前段階には裴李崗(はいりこう)文化などがあり、雑穀農耕や家畜化の基盤が作られていました。同時期には黄河下流域で大汶口(だいぶんこう)文化、長江下流域で河姆渡(かぼと)文化などが展開し、地域ごとに異なる生業と技術、精神文化が育っていました。仰韶文化はその中で、黄河中流域らしい雑穀農耕と彩文土器の伝統を軸に、周辺地域とゆるやかに交流しながら発展したといえます。

研究史の面では、発見当初から土器の美術性が注目されましたが、発掘が重ねられるにつれて、集落の構造や生業、墓制など社会全体の像が明らかになってきました。近年は自然科学的手法(放射性炭素年代測定、植物珪酸体分析、同位体分析など)も取り入れられ、食生活の中身や移動の実態、環境変動との関係が具体的に語れるようになっています。

暮らしと社会

仰韶文化の人びとは、粟(アワ)やキビなどの雑穀を主要作物として栽培しました。黄土の台地は排水がよく、乾燥に強い雑穀に適していたからです。収穫には石製の鎌や磨製石器が用いられ、穀物は石臼やすり石で粉にされ、粥状の食事に加工されたと考えられます。狩猟や採集も続けられ、野生動物の骨やナッツ類の遺存体が各地の遺跡から見つかっています。家畜では豚と犬がとくに重要で、村の残飯を食べさせやすい豚は、肉・脂肪・皮など多用途に活用されました。地域によっては牛や羊・ヤギの飼育も確認され、北西部では牧畜的要素が強まる傾向がみられます。

住居は半地下式の竪穴住居が基本で、地面を掘り下げ、壁面に柱を立て、木材と草・泥で屋根を葺きました。内部には炉が据えられ、調理と暖房の中心になりました。住居の周囲には貯蔵穴や作業用の小屋があり、集落全体では中央に広場を持ち、その外側に住居群が環状に配置される例がしばしば見られます。陝西省の半坡(はんぽ)遺跡では、集落の外縁に環濠(かんごう)がめぐり、木柵と併用して防御や衛生管理、家畜管理に役立てられたと解釈されています。

生産と生活の協同は、家族と近縁集団を基本単位として営まれました。墓地の分析からは、男女・年齢による役割の違いが推測されますが、首長や王墓のような極端に豪華な埋葬は一般的ではなく、身分格差は比較的小さかったとみられます。かつては女性中心の母系社会だったとする見解も紹介されましたが、近年は、埋葬品の量や骨学的データを総合すると、単純に母系と断じることはできないとされます。むしろ、親族と近隣の協同が重視され、集落ごとに自律性を持つ比較的平等な社会が多かったと考えられます。

衣服や生活用具の面では、骨製の針や錐、紡錘車(つむの重り)などが出土し、植物繊維を糸にして織る技術が一定程度普及していたことがうかがえます。履物や外衣の形は直接残りませんが、痕跡からは実用性を重視した粗布が日常的に用いられたと想像されます。住居の床からは土器の破片、石器の剥片、動物骨がまとまって出土することが多く、調理・食事・加工・廃棄が一体の生活動線の中で行われていた様子が見えてきます。

集落間の関係にも触れておきます。中期以降、遺跡の規模や配置に多様性が増し、広域の分業や交換が生じていたと考えられます。石材や貝殻、顔料となる鉱物など、産地が限られる素材が運ばれている痕跡があり、道具や装身具を介したゆるやかなネットワークが黄河流域を結んでいました。これにより技術や意匠も広まり、地域ごとの個性も育っていきました。

土器と工芸の特色

仰韶文化を代表するのが彩文土器です。赤みを帯びた胎土を成形し、乾燥後に黒や褐色の顔料で渦巻き・三角・網目・波線などの幾何学文様、魚や人面、鳥などの具象的モチーフを描き、焼成して定着させました。文様は器形の曲線に合わせて配置され、口縁から肩部、胴部にかけてリズミカルに展開します。容器の用途は、盛り付け・貯蔵・儀礼と多岐にわたり、鉢・壺・罐・杯などさまざまな形が作られました。器壁は比較的薄く、丁寧な磨きにより滑らかな肌合いを持ちます。

成形技法としては、粘土ひもを積み上げてならす「輪積み」を基本とし、回転台(ろくろ)の助けを部分的に用いた段階も想定されていますが、金属製の高速ろくろが普及するのはもっと後の時代です。焼成は地上または半地下式の窖(あな)窯で行われ、酸化焔で赤色に発色させるのが一般的でした。窯の構造は遺跡によって差があり、燃焼室と焼成室を分けて温度管理を工夫した例もあります。顔料には炭素質や鉄・マンガンを含む鉱物が利用されたとみられます。

彩文土器の文様には、単なる装飾を超えた意味が込められていた可能性があります。魚や鳥は食料としての重要性だけでなく、豊穣や再生を象徴するモチーフとして描かれたとも考えられます。とりわけ半坡型の人面魚文の壺は有名で、目・鼻・口を簡潔な線で表し、頭部の両側に魚が配されています。これを「人面魚文彩陶壺」と呼び、祭祀や通過儀礼に関わったと推測する研究もありますが、確定的な解釈はありません。文様の意味は地域と時期によって変化し、共同体の記号や家の印として機能した可能性もあります。

土器以外の工芸では、磨製石斧・石鑿・石鏃などの石器が日常作業や狩猟に用いられました。骨角器も豊富で、針・錐・銛・釣針などが作られ、動物資源の有効利用が図られました。装身具には骨や貝、石製のビーズや管玉があり、一部地域では硬玉(ネフライト)などの硬石を加工した小型の玉器も見つかります。ただし、後の良渚文化のような大規模で精緻な玉文化はまだ見られません。技術は実用本位でありながら、素材の性質を理解し、繰り返しの作業の中で洗練を重ねていく蓄積が確認できます。

生産の場としての工房跡も注目されます。大量の土器片、失敗作、窯の残骸が集中する場所は、専門化の萌芽を示します。家ごとの自給だけでなく、村の中に腕の立つ陶工や石器製作の名人がいて、近隣に製品を供給していた可能性が考えられます。このような生産の分業と交流は、中期以降の地域的な個性の伸長と歩調を合わせています。

信仰・埋葬と広域交流

仰韶文化の精神世界を直接に知ることは難しいのですが、埋葬と祭祀の痕跡からいくつかの傾向を読み取ることができます。墓地は居住域の外側にまとめて設けられるのが一般的で、成人の墓は土坑に仰臥伸展(仰向けで手足を伸ばす)で葬る形式が多く確認されます。副葬品は土器や石器、装身具などで、数や種類は個人によって差がありますが、極端な富の集中は目立ちません。幼児や乳児は住居域内で甕棺に納められる例が広く見られ、家族の近くで守られるという観念が働いたのかもしれません。

祭祀に関わる施設としては、集落内の広場や特定の建物、柱穴列などが議論されており、季節や収穫に合わせた共同の祈りが行われたと推測されます。土器に描かれた人面・魚・鳥・幾何学のモチーフは、そのような儀礼の象徴体系の一部を担った可能性があります。火と水、動植物の循環、祖先とのつながりといったテーマが、文様や埋葬の作法に反映されたとみられます。

広域交流の観点では、顔料鉱物や貝製品などの外来素材の流通、器形・意匠の類似、石材の産地同定などのデータが蓄積しています。黄河の支流ネットワークを介して、物と情報が行き交い、周辺の文化と互いに影響を与え合いました。たとえば中期の廟底溝(びょうていこう)タイプの土器意匠は広範囲に及び、同時に地域色の強いスタイルも併存しました。西北の甘粛・青海方面では、彩陶の伝統が独自に展開し、馬家窯(まかよう)文化などへと連続していきます。

やがて紀元前3000年頃に向けて、黄河流域では社会の複雑化と地域分化が進みます。仰韶文化の後続には龍山(りゅうざん)文化が現れ、薄手で黒く磨いた黒陶や、高台のある杯など新しい様式が広がります。墓制や集落構造にも変化が現れ、階層化や権力の集中の兆しが見られるようになります。仰韶から龍山への移行は、環境変動、人口増加、技術の高度化、交換の拡大など多様な要因が絡み合った結果と理解されています。仰韶文化は、その転換点を準備した長い安定期の土台として位置づけられます。

最後に、仰韶文化のイメージをまとめて描いてみます。黄土の台地に開かれた村で、朝には竈の煙が上がり、臼のリズムが響きます。畑では粟が風にそよぎ、子どもたちは土器の破片で遊び、犬が走り回ります。夕方には広場に人が集まり、収穫や季節の巡りを祝う簡素な儀礼が行われ、色鮮やかな文様の土器が供えられます。そうした日々の積み重ねが、何千年もの後にまで残る痕跡を生み、私たちはそこから当時の人びとの選択や工夫を読み解くことができるのです。