貴族(中国) – 世界史用語集

中国における「貴族」は、血統・功績・官職・爵位などを根拠に政治的・社会的特権を持った上層身分を指します。周代の宗法と爵位に始まり、漢代の列侯・外戚、魏晋南北朝の門閥貴族、隋唐の関隴集団と勲官・郡望、宋以後の科挙官僚社会へと、時代ごとに形を変えながら続いてきました。ヨーロッパの世襲貴族と似た面もありますが、中国では「官僚と貴族」「血統と実務」「地縁と国家」の重なり方が時代によって大きく異なり、貴族が官僚機構の中核となる時代もあれば、科挙制の発達によって貴族性が薄まる時代もあります。経済基盤も、宗族の土地・荘園や俸禄・食邑から、貨幣経済下の都市収益・職能ネットワークへと変化しました。以下では、周~漢の起点、魏晋南北朝~隋唐の成熟と再編、制度・経済・文化の側面、そして宋元明清にかけての変容を、分かりやすく整理して説明します。

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起点と基盤:周~漢の爵位・宗法・封建

中国の貴族の始まりは、西周の封建(ほうけん)体制と宗法にあります。王(周王)は血縁関係に基づいて諸侯を分封し、諸侯はさらに卿・大夫・士という階層に家臣を組織しました。爵位は公・侯・伯・子・男の五等爵を基本に、祭祀・軍役・土地支配の権限が結びつきました。宗法は祖先祭祀と家産継承の秩序を定め、嫡長子相続を核に宗族が政治・経済の単位となりました。これにより、武力・土地・祭祀を掌握する世襲エリートが国家を支える枠組みが生まれました。

春秋・戦国期に入ると、分封秩序は動揺し、法家思想に基づく中央集権化が進みます。秦は郡県制を敷き、血縁的封建の解体を目指しましたが、完全に古い貴族層が消えたわけではありません。漢代は郡国制として諸侯王・列侯の封建を復活させ、皇族・功臣・外戚が貴族層を構成しました。列侯は食邑(租税収取権)を持ち、一定の自治と経済基盤を確保しましたが、中央政府による監督が強化され、王室の分権と中央集権がせめぎ合いました。漢代の貴族は、宗族と郡望(名門の出身地に基づく評価)を軸に、地方豪族としても権勢を振るいました。

この段階の貴族性は、血縁と封土・食邑、祭祀と軍役の結合に特徴があります。他方、儒家官僚の登場は、学徳を基にしたエリートの選抜という新たな要素を加えました。郷挙里選や察挙は、地方の名望家が推薦を行う仕組みで、既存の名門に有利に働き、貴族と官僚が重なり合う前史を形づくりました。

成熟と再編:魏晋南北朝の門閥貴族から隋唐の関隴へ

三国から魏晋南北朝期にかけて、貴族の姿は大きく変わりました。九品中正制は地方の「中正官」が人物を評定し、九等の品位を付して官界登用の基準とする制度で、実質的に名門士族の優位を固定化しました。ここでいう「門閥貴族」は、著名な郡望(陳郡謝氏・琅邪王氏・清河崔氏・太原王氏など)に代表され、婚姻同盟と荘園経営、在地支配を通じて広域に影響力を及ぼしました。彼らは文学・書画・哲学(清談)に通じ、礼と音楽、祭祀と学問のスポンサーでもありました。

門閥貴族の権力は、王朝交替を超えて持続する柔軟性を持ちましたが、政治の停滞と派閥抗争の要因にもなりました。西晋の八王の乱は皇族・士族間の抗争の極致で、華北の崩壊と五胡十六国の乱世へつながります。北朝では、鮮卑系の北魏が華北を再統一し、均田制・三長制などの改革を通じて戸籍と軍役・租税の基盤を再整備しました。孝文帝の漢化政策は、鮮卑貴族が漢人士族の文化資本を取り込み、胡漢融合の新しい貴族層を形成する契機となりました。

隋唐期には、北朝以来の軍事的実力者と旧来の士族が融合した「関隴集団」が中央権力の中核を担いました。隋文帝・煬帝、唐の李氏(太原李氏)は、関中・隴右の豪族・軍事貴族の連合の上に成立し、勲功に基づく爵位(勲官)と科挙を併用して支配秩序を安定させました。唐の貴族社会は、勲官・散官・実官の三層構造と、関内戸・関外戸の区別、氏族志(『新唐書・宰相世系表』『旧唐書・宰相世系表』)に見られる名族意識が特徴です。六品以上の高官を歴任するには家格と人脈が依然として重要で、科挙の合格者も名門の後押しや婚姻で上層に組み込まれる傾向が強く、制度上は開放的でも社会実態としては貴族性が濃厚でした。

もっとも、唐中期以降は節度使の台頭と藩鎮化が進み、軍事・財政の現地化が進行します。これに伴い、在地の軍事貴族や新興実力者が政治舞台に進出し、旧来の氏族中心の貴族秩序は揺らぎます。均田制の弛緩と両税法の導入、戸籍の流動化は、財政・軍役の構造を変え、宗族に基づく貴族の経済基盤を弱める方向に作用しました。

制度・経済・文化:貴族の権威を支えたもの

中国の貴族を支えた制度は、時代に応じて多層的でした。まず爵位制度。周代の五等爵に始まり、漢の列侯・関内侯、魏晋南北朝の王公・郡公・県公・侯・伯などの冊封、唐の勲官と食邑・食封、これらは政治的序列と経済的見返りを伴いました。爵位はしばしば官位と連動し、勲功や門地に応じて授与・加増され、諡号・墓制・服制などの象徴秩序を形成しました。

次に戸籍・土地制度。宗族の祠堂・家譜と祭田、荘園・邸店の経営、均田制下の口分田・永業田、唐の官荘や官人の俸禄田など、土地は貴族の収入と影響力の基礎でした。荘園からの年貢・地代、佃戸・傭工の労働、商業・手工業への投資、塩・鉄・茶など専売や輸送(漕運)との結びつきも重要です。門閥貴族は在地の郷官・里正・土地神の祭祀の保護者として、社会秩序の維持役でもありました。

法制と礼制も不可欠でした。礼記・周礼を根拠とする冠婚葬祭・服色・車馬器の規制、貴賤秩序の可視化、郷飲酒礼や鄉射礼など共同体儀礼の主宰は、貴族の象徴資本を高めました。墓葬では、石槨・墓誌銘・墓道・石像生(石刻像)などが家格の表現として発達し、家訓・家法は内部規範を整えました。婚姻政治は貴族社会を貫く基本装置で、同姓不婚・門当戸対の原則の下、政治連合と財産保全が図られました。

文化面では、貴族は学術・宗教・芸術のパトロンでした。書院・学館の運営、仏寺・道観への寄進、僧尼・道士の保護、文人の庇護は、文化資本の蓄積と名声の獲得に直結しました。魏晋の清談サロン、南朝の文学サークル、唐代の詩壇・画院において、名門は人材の媒介者でした。音楽・舞踏・香薬・服飾における流行の創出も、貴族の消費文化が牽引しました。これらは単なる趣味ではなく、政治的コミュニケーションの手段でもあり、贈答・宴会・詩会は人脈形成の場でした。

軍事面でも、貴族は将帥と親兵集団の供給源でした。北朝~隋唐の関隴集団は騎射と辺防の経験に富み、府兵制・募兵制の運用で中核を担いました。地方では、族人・客将・部曲(私兵)を動員して治安と戦争に参加し、その見返りに官職や爵位・土地を得ました。軍事経験と宗族ネットワークは、貴族の政治的影響力を強化しました。

変容と衰退:宋以後の士大夫化と近世の再編

宋代は、中国の貴族史における大きな転換点です。中央集権の強化と武断勢力の抑制、科挙の定着により、家格より学歴・試験成績を重視する士大夫(科挙官僚)層が支配の中心に据えられました。もちろん、宋代にも名門は存在し、受験教育・蔭補(親族の任用)・婚姻で優位を保ちましたが、制度的には「世襲の貴族」より「合格者の官僚」が公的権威を帯びます。宋代の士大夫は土地所有と俸給・文名を資本として、都市と農村の両方に影響力を広げ、文化的規範(詩文・書画・道学)を主導しました。

元代はモンゴル帝国の支配のもと、色目人・漢人・南人など人種・出身に基づく身分区分が導入され、世襲的な特権と官僚登用が組み合わされました。ここでの「貴族」は、遊牧帝国の功臣・王族と、財政・軍事を担う実務エリートの混合体で、漢地の伝統的貴族とは性格が異なります。王侯封号の授与は広範で、遊牧世界の親族連合が政治構造の土台でした。

明代は皇帝権力の強化と里甲制・衛所制による軍戸・民戸の管理が進み、功臣に対する勲爵の授与(国公・侯・伯など)は行われましたが、官僚の主流は科挙合格者です。勲爵は形式的・儀礼的色彩が強く、実務権限は文官に集中しました。宦官・外戚の影響は強弱を繰り返し、都市経済と手工業の発展は新興富裕層(郷紳)を生みました。郷紳は科挙と土地所有、地方自治を通じて近世中国社会の中間支配層を形成し、伝統的な「貴族」に代わる地方エリートとして機能しました。

清代には満洲貴族(八旗貴族)が出現します。八旗制度は軍事・戸籍・俸給を統合し、満洲・蒙古・漢軍の旗人が皇帝権力の核心を担いました。王公貝勒・ベイ子・固倫公主などの称号、俸禄と俸米・旗地の割当、婚姻による連帯は、古典的な貴族性を強く宿しています。他方、全国統治はやはり科挙官僚が担い、旗人貴族は軍事・宮廷・儀礼に比重を置きました。清末に至ると八旗の財政難と軍事的地位低下が進み、辛亥革命後は身分的特権の多くが解体されます。

このように、宋以後の中国では、科挙を通じた士大夫・郷紳が国家と社会の上層を担い、古典的な世襲貴族は制度の中心から後退しました。ただし、宗族・家譜・祠堂・郡望の文化は長く残り、社会的威信とネットワークの形で貴族性が形を変えて生き続けました。すなわち、中国の貴族史は「世襲から選抜へ」「封建から官僚へ」という直線ではなく、王朝ごとの制度設計と社会経済の条件に応じて、血縁・功績・学歴・軍事力という資源を組み替えながら続いた多層的な歴史だったのです。

総括すると、中国における貴族は、宗法と封建に源を持ち、漢で皇族・功臣・外戚が権勢を握り、魏晋南北朝で門閥貴族が社会の頂点を占め、隋唐で勲功と科挙の折衷を経て、宋以後は士大夫・郷紳が上層秩序を担うという、大きな波を描いてきました。政治・軍事・経済・文化のいずれにおいても、貴族は制度と人脈の結節点であり続け、王朝の興亡とともにその形を変えました。各時代の貴族像を具体的な制度と社会の文脈に即して捉えることが、中国史理解のためには不可欠です。