サッチャー(マーガレット・サッチャー, 1925–2013)は、1979年から1990年までイギリス首相を務めた政治指導者で、規制緩和・民営化・組合改革・財政規律を軸にした「サッチャリズム」と呼ばれる政策群で国内外に大きな影響を与えた人物です。戦後英国の停滞と高インフレ、経常赤字、労使対立の慢性化に対し、国家の役割を絞り市場の自律を重視する路線で抜本転換を図りました。炭鉱スト、フォークランド紛争、1986年のシティの大規模自由化(通称ビッグバン)、「持ち家社会」を広げた公営住宅の払い下げ、最終盤の人頭税(ポール・タックス)をめぐる反発と退陣など、劇的な出来事に満ちています。対外的にはレーガン政権と緊密に連携し、ソ連のゴルバチョフとも「対話できる相手」と位置づけて冷戦末期の力学に関与しました。サッチャーは、繁栄の土台を作った改革者としても、格差と社会の分断を拡大させた指導者としても語られます。本稿では生涯と登場の背景、経済・社会政策の中身、外交・安全保障、評価と遺産の論点を整理します。
生涯・登場・政権の基調:停滞からの挑戦という物語
サッチャーはイングランド中部の市場町グランサムの食料品店の娘として生まれ、オックスフォード大学で化学を学びました。のちに法曹資格を得て弁護士となり、保守党から下院議員に当選します。1975年に党首となり、与党労働党の分裂と経済危機の高まりの中で、1979年総選挙に勝利して英国初の女性首相となりました。就任時の英国は、1970年代の二度のオイルショックと高インフレ、賃金と物価のスパイラル、国有企業の慢性的赤字、公共部門労働組合との衝突、統制の厚みで機敏さを失った経済が課題でした。サッチャーは「国家は過大、個人は窮屈」という診断のもと、政府の役割縮小と市場の競争導入を旗印に掲げました。
政権の初期は、インフレ抑制を最優先し、マネーサプライ管理・金利引き上げ・歳出抑制を組み合せる強硬策でした。ポンド高・製造業の競争力低下・失業率の上昇(1980年代前半には300万人規模)という痛みを伴い、ブリクストンやトクステスの暴動など社会の緊張が顕在化しました。しかし、インフレ率が沈静化し、北海油田収入や規制緩和の効果が現れ始めるにつれて、政権は「長期で見れば構造改革が成長を呼ぶ」という物語を国民の一部に浸透させていきます。1982年のフォークランド紛争の勝利は政権の威信を高め、1983年総選挙で大勝して政策を続行する基盤が固まりました。
サッチャリズムの中身:民営化・規制緩和・組合改革・財政規律
サッチャリズムの核は四点に整理できます。第一に民営化です。通信(ブリティッシュ・テレコム)、ガス(ブリティッシュ・ガス)、航空(ブリティッシュ・エアウェイズ)、鉄鋼(ブリティッシュ・スチール)、水道・電力(地域会社の株式売却)など、国有企業の大規模売却を進め、株式を広く個人に売り出しました。これは財政の軽量化と投資の効率化、資本市場の拡張を狙うもので、「大衆資本主義(popular capitalism)」の合言葉のもと、配当と値上がり益を経験する個人投資家層を生みました。一方で、地域独占の公益事業では、規制機関の力量が料金・品質・投資の均衡を左右し、後年まで公共料金やインフラ投資の妥当性が論点となりました。
第二に規制緩和です。象徴は1986年のロンドン金融市場の自由化、通称「ビッグバン」です。固定手数料の撤廃、証券会社と銀行の相互参入、電子取引の導入が進み、海外資本の参入とシティの国際金融センターとしての地位強化が加速しました。航空・陸運・小売・サービスなどでも参入・価格規制が見直され、競争が導入されました。金融自由化は資本アクセスの拡大をもたらす一方、家計と企業の債務膨張、バブルと調整の振幅増大という副作用も抱えました。
第三に労使関係の改革です。雇用法の改正を重ね、無記名投票によるスト承認、二次的ボイコットの制限、違法ストへの損害賠償などで組合の権限を縮小しました。1984–85年の炭鉱労働者組合(NUM)ストは、警察動員と法廷戦術、石炭備蓄の積み上げで政府が押し切り、重厚長大型産業の後退と地域経済の痛みを伴いながら、戦後英国政治の「組合中心」の力学を転換しました。他方、産業の空洞化と地域コミュニティの崩壊、長期失業の固定化という傷痕も深く残りました。新聞業界では1986年のワッピング移転をめぐり、印刷職の既得権打破とテクノロジー移行がストと衝突の形で進みました。
第四に財政・税制と所有の拡大です。所得税の最高税率の段階的引き下げと基礎税率の調整、付加価値税(VAT)の拡大などの税制変更を進め、インセンティブの改善を掲げました。公営住宅の住民に割安で持ち家取得を認める「Right to Buy」は、資産形成を通じた「所有する民主主義」の拡大を体験的に広げ、都市の景観と階層構造を変えました。医療では1990年のNHS・コミュニティケア法により内部市場を導入し、病院と診療所の間に擬似的な購買関係を設定しました。末期の人頭税(コミュニティ・チャージ)は「とりやすい公平な税」を標榜しましたが、逆進性と徴収の難しさから大規模な反発を招き、政権の命取りとなりました。
こうした一連の改革は、インフレの抑制と競争力の回復、サービス・金融の拡大、企業統治の近代化に寄与しました。一方で、産業構造の転換に取り残された地域の疲弊、格差拡大、公共サービスの不均質化、労働者保護の後退といった負の側面も拡大しました。サッチャー自身は「社会というものは存在しない。あるのは個人と家族だ」という挑発的な言い回しで、自助と責任を強調しましたが、この理念が社会政策に与えた影響は今日まで議論が続いています。
外交・安全保障:米英同盟、冷戦の終幕、欧州統合との距離
外交面でサッチャーは、対米関係を基軸に据えました。米国のレーガン政権とは自由市場・強い防衛・反ソ路線で一致し、核抑止と欧州における中距離核の配備で協調しました。1982年のフォークランド紛争では、国際的孤立のリスクを承知のうえで艦隊を派遣し、アルゼンチン軍を撃退して英領を維持しました。この勝利は国家的自尊心を回復させ、政権支持を押し上げました。
一方、ソ連とは強硬な姿勢を取りながらも、ゴルバチョフ書記長の登場を「話の通じる人物」と評価し、米ソ首脳の対話を後押ししました。東西対立の緩和と冷戦終結の過程で、英国は「対話の橋渡し」を担い、NATOの結束と軍縮交渉の両立を支持しました。
欧州統合に対しては選択的でした。1986年の単一欧州議定書(Single European Act)には、域内市場の自由化を通じて競争を高める観点から賛成しつつ、加盟国の財政負担では「I want my money back」のフレーズで拠出金返還交渉を強硬に進めました。1988年のブルージュ演説では、ブリュッセルの官僚主義と超国家化を批判し、欧州は国家の協力の場であるべきだと主張しました。為替の欧州為替相場メカニズム(ERM)には長らく慎重で、最終的に1990年に政権下で参加したものの、固定相場の副作用はのちにメージャー政権下の「ブラック・ウェンズデー」で露呈します。
アイルランド問題では、IRAによる暗殺未遂(1984年ブライトン爆破)を受けて強硬姿勢を崩さず、同時に1985年の英愛協定でアイルランド政府の一定の関与を認める手を打ち、のちの和平枠組みに繋がる布石を残しました。対アパルトヘイト南アフリカ制裁では消極的で、英連邦内外で批判を浴びるなど、価値と利益の折り合いに苦慮した面もあります。
退陣・評価・遺産:改革の持続と社会の亀裂
サッチャーの退陣は、政策の成否というよりも政党内力学と大衆反発の結節点で起こりました。人頭税への反発、欧州統合をめぐる対立、側近政治への不満が重なり、1990年に党内から挑戦を受けて辞任に追い込まれました。後継のジョン・メージャーはサッチャー路線を緩和しつつ継承しましたが、1997年に労働党ブレア政権へ交代します。興味深いのは、ブレアの「ニュー・レイバー」も多くのサッチャー的改革(独立したインフレ目標、金融中心の競争力、民営化の成果)を土台として受け継ぎ、第三の道として再解釈したことです。サッチャリズムは英国政治の新たな均衡点となり、反発しつつも前提として共有されました。
評価は分かれます。支持者は、インフレの抑制、個人の所有と選択の拡大、シティの国際競争力、国際舞台での英国の存在感回復を功績に挙げます。批判者は、製造業の後退と地域格差、労働者保護の後退、住宅・福祉・教育の不均衡、公共空間の劣化、社会の連帯の断裂を指摘します。短期の痛みののちに成長軌道へ乗せたという物語自体も、統計の切り取り方と反実仮想で解釈が分かれます。サッチャー自身の強い言葉と対立的スタイルは、支持と反発を鋭く二分し、街区と家庭の会話にまで政治の分断を送り込みました。
それでも、サッチャーが残した長期の影響は明確です。英国の経済・行政・福祉・外交の意思決定は、競争・選択・規律・自助をキーワードに再設計され、欧州統合との距離感、米英同盟の枠組み、国際金融センターとしての自意識が定着しました。後年の2008年世界金融危機やブレグジットをめぐる議論でも、サッチャー時代の選択が参照点となり続けます。像は賛否のどちらかではなく、痛みを伴う構造転換の「方法」と、それが生んだ長い社会的コストを併せて理解する必要があるのです。サッチャーは、英国の「何を国家が担い、何を個人に委ねるか」という問いに、明確で一貫した答えを提示した指導者でした。その答えが妥当だったかどうかは、地域・階層・時代の文脈により評価が揺れ続けるという事実もまた、彼女の遺産の一部です。

