十字軍(第6回)(だいろっかいじゅうじぐん)とは、1228年から1229年にかけてドイツの皇帝フリードリヒ2世が主導した十字軍遠征を指す言葉です。従来の十字軍と大きく違う点は、「大規模な会戦や包囲戦をほとんど行わず、むしろ外交交渉によってイェルサレムなど聖地の一部を回復した」というところにあります。フリードリヒ2世は、ローマ教皇から破門された状態のまま聖地に向かい、アイユーブ朝のスルタンと交渉して条約を結び、その結果、イェルサレム・ベツレヘム・ナザレといったキリスト教にとって重要な都市を一定期間キリスト教側に返還させることに成功しました。
つまり第6回十字軍は、血みどろの戦争による「聖地奪回」ではなく、むしろ「外交と駆け引きによる聖地回復」として記憶されています。その過程で、教皇と皇帝の対立、十字軍国家内部の権力闘争、イスラーム世界の分裂といった事情が複雑に絡み合いました。教皇から見ると、破門された皇帝が勝手に十字軍を行い、勝手に条約を結んできたことは大きな問題であり、第6回十字軍は「教皇のコントロールが効かない十字軍」の典型ともなりました。一方で、軍事的消耗を最小限に抑えつつ聖地巡礼の道を再び開いたという点では、現実的な成果を上げた遠征とも評価されます。
第6回十字軍の結果手に入れたイェルサレム支配は長続きせず、1244年には再びイスラーム側に奪われてしまいます。それでも、この十字軍は十字軍運動の歴史のなかで特異な位置を占め、「武力の十字軍」から「交渉の十字軍」への転換点、あるいは「教皇主導から君主主導への十字軍」の象徴としてしばしば取り上げられます。以下では、第6回十字軍の基本的な位置づけと特徴、背景となる第5回十字軍とフリードリヒ2世の十字軍誓約、遠征の具体的な経過と条約の内容、そしてこの遠征がもつ歴史的意義と評価について、もう少し詳しく見ていきます。
第6回十字軍とは何か:基本イメージと他の十字軍との違い
十字軍(第6回)を一言で表すと、「ほとんど戦わずに聖地を取り戻した十字軍」です。多くの十字軍が、長期にわたる包囲戦や会戦、補給の困難、大量の死者と略奪といった要素を伴っていたのに対し、第6回十字軍では目立った大会戦はほとんど行われませんでした。かわりに、フリードリヒ2世とイスラーム側の支配者アル=カーミル(エジプト・シリアを支配するアイユーブ朝のスルタン)との間で、交渉と駆け引きが重ねられました。
この結果、1229年に「ヤッファ条約(ヤッファ協定)」と呼ばれる和平条約が結ばれ、イェルサレム旧市街の大部分、ベツレヘム、ナザレなどキリスト教徒巡礼に重要な都市が、約10年間という期限付きながらキリスト教側に返還されました。ただし、聖域ハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)一帯、特に岩のドームやアル=アクサー・モスクはイスラーム側の管理下に残されるなど、両宗教の利害をある程度調整した妥協的な内容でした。
このように、第6回十字軍は「外交による聖地回復」として成功した一方で、従来の十字軍像からは大きく外れた存在でもあります。教皇による正式な十字軍布告や、教会の管理する免罪といった枠組みよりも、皇帝個人の政治的・外交的な駆け引きが前面に出ており、「教皇の十字軍」から「皇帝の十字軍」へのシフトを示す例ととらえることもできます。
また、フリードリヒ2世自身が科学や哲学、イスラーム文化にも強い関心を持ち、アラビア語や諸学問に通じていたことも、第6回十字軍の性格を特徴づけています。単純な「異教徒への聖戦」というより、「相手の文化を知りつつ、現実的な交渉を行う君主外交」の一場面としても見ることができます。この点で、第6回十字軍は、中世末期から近世にかけてのヨーロッパ外交の先駆け的な例としても注目されています。
背景:第5回十字軍の失敗とフリードリヒ2世の十字軍誓約
第6回十字軍が生まれた背景には、すぐ前の第5回十字軍の失敗があります。第5回十字軍(1217〜21年)は、エジプトの港湾都市ダミエッタを攻略したものの、ナイル川の氾濫や戦略ミス、アイユーブ朝側の巧みな対応によってカイロ攻略に失敗し、結局ダミエッタを返還させられる形で撤退しました。この時、フリードリヒ2世は十字軍参加を約束しながら実際には参加せず、教皇の不満を買っていました。
フリードリヒ2世は、ホーエンシュタウフェン家の皇帝として、ドイツ王・シチリア王など複数の王位を兼ねる大君主でしたが、即位の際に「聖地奪回のため十字軍に参加する」という誓約を立てていました。第5回十字軍への参加を度々延期したことから、教皇ホノリウス3世やその後継のグレゴリウス9世との関係は緊張し、フリードリヒに対しては「誓約を守らない皇帝」という批判が強まっていました。
一方で、フリードリヒ2世自身も、自らの威信と王朝の正統性を示すために、いずれは聖地遠征を行わざるをえないと認識していました。さらに、彼はイェルサレム王国の王位継承権も手にしていました。フリードリヒは、イェルサレム王女イザベル2世と結婚することで、形式上イェルサレム王国の王配としての地位を得ており、「自らがイェルサレム王として聖地を回復する」という野心を抱いていたとされます。
教皇側にとっても、フリードリヒ2世の力は十字軍動員に必要不可欠でしたが、同時に「皇帝権の強大化は教皇権にとって脅威」というジレンマがありました。教皇はフリードリヒに十字軍参加を迫りつつ、その遅延や言動を厳しく批判し、最終的には期限までに出発しなかったことを理由に、彼を破門するという強硬手段に出ます。
こうして、第6回十字軍は、「教皇に破門された皇帝が、それでもなお十字軍誓約を果たすべく聖地へ向かう」という、前代未聞の形でスタートすることになります。形式的には「教皇の十字軍」でありながら、そのリーダーが教皇によって破門されているという矛盾した状況が、この遠征の複雑さとねじれを象徴しています。
遠征の経過:破門下の出発と外交によるイェルサレム回復
1228年、フリードリヒ2世はついに第6回十字軍として聖地に向けて出発しました。この時点でも彼は教皇グレゴリウス9世から破門を受けたままであり、教皇は彼の遠征を公に支持することはできませんでした。それでも、多くのドイツ・イタリア・シチリアの騎士や兵士が皇帝に従い、地中海東方へと船出します。
フリードリヒの軍勢は、前の十字軍に比べればそれほど巨大ではなく、むしろ「皇帝親衛軍」とも言える精鋭部隊が主体でした。彼は途中でキプロス島に立ち寄り、当時混乱していたキプロスの統治にも介入して自らの影響力を強めます。そのうえで、十字軍国家の中心地アッコン(アクレ)に上陸し、現地の諸侯や騎士団、都市住民との関係調整を進めました。
しかし、フリードリヒと現地のラテン諸勢力との間には、最初から摩擦がありました。とくに、テンプル騎士団やホスピタル騎士団など、一部の軍事修道会は教皇への忠誠を重視し、「破門された皇帝の指揮下に入ること」に強い抵抗感を示しました。また、イェルサレム王国の在地貴族たちも、自分たちの利害を優先し、皇帝の一方的な支配に反発する傾向がありました。
こうした内部の複雑さを抱えつつも、フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルとの交渉に乗り出しました。アル=カーミルにとっても、エジプト・シリアの支配を維持するためには、内紛や周辺勢力との対立への対応が必要であり、西方からの大規模侵攻は避けたい状況でした。そのため、「限定的な譲歩で十字軍を満足させ、長期の平和を得る」という現実的な選択肢を検討していました。
フリードリヒ2世は、アラビア語やイスラーム文化にも一定の理解を持ち、哲学や科学に関する知的対話も行っていたと伝えられています。両者の交渉は、宗教論争というよりも、「どの都市をどの条件でどの期間、どちらに属させるか」という具体的な政治交渉として進められました。その結果、1229年2月、ヤッファ条約が締結されます。
この条約の概要は、おおむね次のようなものです。まず、イェルサレム旧市街の大部分、ベツレヘム、ナザレなどがキリスト教側(イェルサレム王国)の支配下に返還されること。ただし、ユダヤ教・イスラーム双方にとっても聖なる場所である神殿の丘一帯はイスラーム側の管理下に残され、岩のドームやアル=アクサー・モスクはムスリムの礼拝の場として維持されること。加えて、この取り決めは約10年間の期限付きであり、そのあいだ両勢力はある程度の平和を維持すること――といった内容です。
軍事的勝利ではなく、交渉の結果としてイェルサレムを含む一部の聖地を回復したことは、十字軍として異例の展開でした。フリードリヒ2世はこの成果を自らの手柄として誇示し、聖墳墓教会で自分自身に王冠を戴いて「イェルサレム王」を宣言しました。しかし、これは教皇の承認なしに行われたものであり、また在地貴族や騎士団の一部からも快く受け入れられませんでした。
第6回十字軍の意義と評価
第6回十字軍の歴史的評価は、視点によって大きく分かれます。一方では、「ほとんど血を流さずにイェルサレムを取り戻した」という点で、「最も成功した十字軍」と称賛されることがあります。多くの十字軍が膨大な犠牲と費用に見合う成果を得られなかったのに対し、第6回十字軍は外交交渉により、巡礼の道を開き、聖地の支配権を一定期間回復したからです。
他方で、この十字軍は教皇の権威から独立して動いたため、「教皇権にとっての頭痛の種」でもありました。教皇グレゴリウス9世にとって、破門した皇帝が勝手に十字軍を成功させてしまうことは、自らの威信にとってきわめて厄介な事態でした。実際、フリードリヒ2世が聖地で条約を結び、イェルサレムで戴冠式のような儀式を行っていたのと同じ頃、教皇軍はシチリアや南イタリアに侵攻し、皇帝領を攻撃していました。つまり、「皇帝は聖地でイスラームと和平しながら、背後では教皇との内戦が続いている」という逆説的な状況が生まれていたのです。
ラテン側内部でも、第6回十字軍に対する評価は一様ではありませんでした。現地の騎士団や在地貴族の一部は、皇帝の専横や、軍事的支配の裏付けに乏しい和平条約に不満を抱いていました。「戦わずに取り戻したイェルサレムは、戦わずに失われるかもしれない」という警戒もありました。その懸念は、のちに1244年のイェルサレム再陥落という形で現実のものとなります。
イスラーム側から見ると、アル=カーミルが結んだヤッファ条約は、「一時的な地位保全のために聖地の一部を譲歩した」「あまりにも譲歩的な協定」であるとして批判されることもありました。しかし、彼にとっては、アイユーブ朝内部の権力争いや周辺の脅威に対処するため、十字軍との衝突を一時的に回避し、時間を稼ぐという現実的判断でもありました。第6回十字軍は、こうしたイスラーム内部の事情を反映した「現実政治的な妥協」の産物でもあります。
長期的視点から見ると、第6回十字軍は、十字軍運動そのものが変質していく過程を象徴しています。第1回十字軍のような「聖地奪回の熱狂」から、第4回十字軍のような「経済・政治利害に翻弄された逸脱」を経て、第6回十字軍では「君主外交と現実主義」が前面に出ました。この流れの中で、十字軍は次第に「教皇による宗教的運動」という性格を弱め、「各国君主が自国の利益や名誉、信仰をもとに行う武力・外交行動」の一形態へと変わっていきます。
また、第6回十字軍を通じて、フリードリヒ2世という人物像も浮かび上がります。彼はしばしば「中世に現れた近代的君主」「理性的で冷静な皇帝」と評され、イスラーム世界との交渉や文化交流にも積極的でした。その一方で、教皇との対立や強硬な支配姿勢から、「反教皇的な危険人物」と見なされることもありました。第6回十字軍は、彼のこうした二面性――現実主義者であり、同時に宗教的権威と衝突する反逆者――を象徴的に示していると言えます。
「十字軍(第6回)」という用語を手がかりにすると、十字軍運動が単純な「キリスト教対イスラームの戦争」でも、「教皇が命じて騎士たちが従うだけの運動」でもなかったことが見えてきます。そこには、皇帝と教皇、在地貴族と軍事修道会、イスラーム世界内部の権力者たちなど、多くのアクターがそれぞれの思惑で動き、ときに交渉し、ときに争う複雑な現実がありました。第6回十字軍は、その複雑さをもっとも分かりやすい形で示す出来事の一つなのです。

