「シパーヒーの反乱」(1857–58年)は、イギリス東インド会社のベンガル軍を中心とする現地兵(シパーヒー)が蜂起し、北インド一帯を巻き込んだ大規模な戦乱を指す通称です。英語圏では「インドの反乱(Indian Rebellion)」や、インド側の文脈では「第一次独立戦争」とも呼ばれます。引き金は新型エンフィールド銃の紙薬莢に牛脂・豚脂が使われているとの噂でしたが、背景には藩王国併合(失権の原理)やアワド(アウド)併合に伴う旧支配層の失職、給与・年金の不満、宗教・慣習への干渉への不安、物価高騰と税制、海外出征や遠距離勤務の命令など、複合的な要因が積み重なっていました。反乱はメーラトでの蜂起を皮切りにデリー・カーンプル・ラクナウ・ジャンシーなどに広がり、最終的にはイギリス軍・シク連隊・グルカ部隊の反攻と包囲戦で鎮圧されます。結果として会社統治は廃止され、1858年以降は英王室の直轄(インド帝国)となり、軍制・藩王国政策・宗教文化政策が大きく改められました。本項では、発生の背景、勃発から拡大の過程、主な戦局と鎮圧、政治・軍事体制の再編、そして原因と誤解の整理を、丁寧に解説します。
背景:会社統治の拡張と社会の緊張
18世紀後半、プラッシー(1757)とブクサール(1764)の戦い以降、東インド会社は徴税権(ディワーニー)と軍事力を背景にベンガルから内陸へ勢力を伸ばしました。19世紀前半にはマイソール・マラーター・シクとの戦争に勝利し、藩王国の自立余地は縮小します。ダルフージー総督期(1848–56)には「失権の原理(Doctrine of Lapse)」を盾に、実子のない藩王国の併合を進め、さらに1856年にはアワド(アウド)を「悪政」の名目で併合しました。これらの措置は年金や土地権を失う上・中間層の反発を招き、旧来の雇用秩序に依存していた人々に広範な不安を生じさせました。
軍事面では、会社軍はベンガル・マドラス・ボンベイの三管区を持ち、なかでもベンガル軍はブラフマンやラージプートなど上座カースト出身者の比率が高く、宗教・慣習の配慮が強く求められていました。海外出征(kala pānī)や遠距離派遣はカースト破りと受け止められることがあり、手当や規則運用への不満が溜まりやすい環境でした。財政面での節減や年金制度の変更、退役手当の遅配も、兵の名誉(イッザト)と生活の双方に影を落とします。
文化・宗教面では、サティー禁止(1829)やヒンドゥー未亡人再婚法(1856)のような英領政府の改革が、上からの干渉と感じられることがありました。宣教師活動の拡大や英語教育の導入、法制度の一元化は、都市の近代化と新中間層の形成に寄与する一方で、農村社会には文化的脅威として映る場合もありました。鉄道と電信の導入は軍の機動力を高めるとともに、噂と動員の拡散も加速させ、社会の緊張は目に見えにくい形で高まっていきます。
勃発から拡大:メーラト、デリー、北インドの蜂起
1857年5月、メーラト駐屯のベンガル軍兵士の一部が、新型エンフィールド銃の紙薬莢に口で噛み付く手順が宗教禁忌に反するとして命令を拒否し、処罰に対して蜂起しました。彼らは夜間に武装して監獄を解放、デリーに進撃し、ムガル王朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世を擁して象徴的権威の回復を演出します。デリーの陥落(反乱側の占拠)は北インド全域の蜂起の合図となり、カーンプルではナーナー・サーヒブが台頭、ラクナウではアワド系の貴顕・タルクダーラー(地主)が合流し、各地で政庁・軍営が包囲されました。
反乱は単一の指揮体系ではなく、地域ごとの連合と並行蜂起の性格が強かったです。ジャンシーではラーニー・ラクシュミー・バーイーが養子相続の否認に抗して武装蜂起し、卓抜した騎兵指揮で名を挙げました。ビハールではクワル・シンが農村動員を組織し、バンドゥルカン・ローヒルカンドでも武装集団が道路や橋を押さえ、通信を遮断しました。他方、パンジャーブではシク連隊や地方の統治が比較的安定し、会社側はここを反攻の拠点としました。ネパールのグルカ部隊も契約に基づき英側に協力し、鎮圧戦力の中核を占めます。
情報戦と噂の拡散は、反乱の縦横の広がりを支えました。市場や隊商路、祭礼の場で流布した文書や口伝は、宗教的侮辱、藩王の権利、地租の過酷さなどをキーワードに蜂起の正当性を訴えます。電信の切断と橋梁の破壊は政府側の連絡を妨げ、反乱側は地の利と支持基盤を活かして初期の主導権を握りました。
主な戦局:デリー・カーンプル・ラクナウ・ジャンシー
デリー攻防では、反乱側が城塞都市を拠点に持久戦に入る一方、パンジャーブから集結したイギリス軍・シク連隊・グルカ部隊が外周の高地・橋梁を確保し、9月に突入して市街戦の末に奪回しました。バハードゥル・シャー2世は退位を強いられ、その後の追及でムガル王朝の終焉が確定します。
カーンプルでは、ナーナー・サーヒブが指導的役割を果たし、サトチャウラ・ガートやビービーガルでの虐殺事件が起きました。政府側の報復は苛烈で、処刑・略奪が相次ぎ、地域社会に深い傷跡を残します。ここでの惨劇は、イギリス国内世論を激昂させ、鎮圧強硬論を後押ししました。
ラクナウ包囲は反乱の象徴となりました。初期の籠城戦を経て、ヘイブルックやキャンベル将軍が救援軍を率いて到着し、包囲解除と市街掃討を実施します。アワド地方ではタルクダーラー層・宗教指導者・反乱兵の連携が長く抵抗し、収束は難航しました。
ジャンシーと中部インドでは、ラーニー・ラクシュミー・バーイーとターンティヤ・トーピーが連携して機動戦を展開しました。ラクシュミー・バーイーは激戦の末に戦死しますが、その勇名は現在まで伝えられています。中部・ブンデルカンド一帯の戦闘は、反乱が単なる軍営の暴動ではなく、土地と主権をめぐる政治闘争であったことを印象づけました。
鎮圧・再編:会社の終焉と帝国軍の誕生
1857年末から1858年にかけて、イギリス本国からの援軍、パンジャーブ・ネパールからの部隊、鉄道・蒸気船を活用した機動により、反乱側は各個撃破されました。鎮圧過程での報復は過酷で、縛り首・砲門での処刑、村落の焼却などが行われ、多くの一般住民が犠牲になりました。都市では略奪と接収が発生し、文化財の流出も後を絶ちませんでした。
政治制度は大きく改められます。1858年、「インド統治法(Government of India Act)」により会社統治は正式に廃止され、ロンドンの印相院(のちインド省)が直接統治を担い、ヴィクトリア女王の名による「告示」で宗教と慣習の尊重、任官の公正、藩王国の地位の承認が約束されました。藩王国は原則として存続を認められつつも、外交・防衛は英側の管理下に置かれます。
軍制は全面的に再編されました。砲兵の多くは欧人専任化され、歩兵・騎兵でもヨーロッパ人の比率が高められます(「欧印比率」の見直し)。忠誠を示した共同体(パンジャーブのシク、パシュトゥーン、グルカなど)が優遇され、ベンガル上座カースト偏重は是正されました。これは後に「武士種族(martial races)」という採用思想として理論化され、連隊の地域構成・言語・儀礼が綿密に管理されます。指揮官の層では、現地人士官の昇進は制度化されつつも上限が設けられ、要職は欧人が掌握しました。
財政・税制でも、地租の現金納付化、収税請負の管理、治安・治水への投資が進みます。アワドではタルクダーラー層との再交渉により、秩序回復のための土地再分配と年貢調整が行われました。宣教師活動や学校政策は、地方感情に配慮した節度ある運用を掲げ直し、行政文書でも宗教中立の強調が繰り返されます。
原因の層と誤解の整理:何が人々を動かしたのか
第一に、紙薬莢の「脂」の問題は確かに直接の引き金でしたが、反乱は単一原因では説明できません。藩王国の併合、アワドの官僚化による中間層の失職、退役手当の切り下げ、遠距離勤務や海外出征の命令、物価上昇と飢饉への対応の不備、宗教・慣習に対する不信など、経済・社会・文化の不満が複合していました。
第二に、反乱は「全インド一体の民族運動」でも「単なる軍隊の暴動」でもありませんでした。多くの地域で旧支配層・都市職人・農民・宗教指導者が合流した点で広範でしたが、指揮は分散的で、利害は一様ではありません。マドラス・ボンベイ軍が広く政府側に留まり、パンジャーブ・ネパール勢力が鎮圧に大きく寄与した事実は、地域差と共同体政治を理解する鍵です。
第三に、イギリス側の「文明化の使命」の語り、インド側の「独立戦争」の語りはいずれも政治的文脈に応じた枠組みで、史実の複雑さをすべて包摂しません。教育・法・鉄道・電信などの導入は近代化の面を持ちつつ、同時に収奪・干渉の装置にもなり得ました。反乱の記憶は地域・共同体・階層で異なる形に保存され、詩歌・口承・記録に多層に刻まれています。
第四に、反乱を契機に会社統治から王冠統治への転換が起こり、インド帝国体制が成立しました。以後の軍は脱政治化と職業化を徹底し、帝国防衛と海外派遣の装置へ変わります。この再編は、のちの第一次・第二次世界大戦における「インド兵の世界戦争」へ直結し、独立運動の大衆基盤にも影響を与えました。こうした長期波及を押さえると、1857年は単なる暴発ではなく、近代インド国家形成の曲がり角として理解しやすくなります。
最後に、暴力の連鎖にも目を向ける必要があります。反乱側・鎮圧側の双方に残虐行為が存在し、その記憶は互いの怨恨を増幅させました。歴史学は、犠牲者の声と加害の実相を丁寧に掘り起こしつつ、噂・恐怖・報復のダイナミクスを分析してきました。数字の多寡や英雄譚の優劣ではなく、なぜ人々がその選択に追い込まれたのかという文脈の理解が重要です。
小括:年表とキーワードの目安
【年表の目安】1856年:アワド併合/1857年5月:メーラト蜂起→デリー占拠/同年夏:カーンプル・ラクナウ包囲/1857年9月:デリー奪回/1858年:各地で鎮圧・反乱終息、会社統治廃止・王冠統治へ。
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