ジパング(Zipangu, Cipangu)は、主として中世末から近世初頭のヨーロッパ世界で日本列島を指した呼称です。もっとも有名なのはマルコ・ポーロ『東方見聞録』(『世界の記述』)に現れる表記で、そこでは中国語の「日本国(Rìběn guó)」がラテン系・イタリア系音写を経て「Cipangu(チパング)」となり、「黄金の国」というイメージと結びついて広く流布しました。ヨーロッパ側では地図や航海者の計画書、宮廷への献策の文脈で頻繁に言及され、コロンブスの西航計画や16世紀以降のアジア進出にも強い動機づけを与えます。日本側の自称は古く「倭」「日本(にほん/にっぽん)」であり、ジパングはあくまで外名ですが、外部から見た日本像の形成史を語るうえで欠かせないキーワードです。ここでは、語の由来と史料的背景、黄金伝説の由来、ヨーロッパ地図・航海計画上の役割、16世紀の実接触と呼称の変遷、相互イメージの中での位置づけ、そして誤解の整理をわかりやすく解説します。
語源と史料:『東方見聞録』の「Cipangu」とは何か
「ジパング」は、元代中国に滞在したヴェネツィア人マルコ・ポーロの口述記『東方見聞録』に記された「Cipangu」に由来します。これは漢語の「日本国(ニチホングォ)」の音を、西方の耳が聞き取り、イタリア系の綴りで写したものと考えられます。末尾の -gu は〈国〉(guó)の要素を含むと解され、前半の Ci- は〈日〉(Ri/Ji)音の転写変形です。当時、華南方言やペルシア語仲介の音形などが重なり、写しの揺れが大きかったため、写本ごとに「Cipango/Zipangu/Jipangu」などの表記差が生じました。
重要なのは、ポーロ自身が日本列島へ渡航した確証はなく、彼の叙述は元朝中国で集めた情報に基づく伝聞に依拠している点です。情報源には、広東・泉州など海港の商人、宮廷に出入りする通事、ペルシア・アラビア系の交易者が含まれ、彼らの語る「東海の島国」の富と珍品が、ポーロの物語に濃厚な印象を残しました。このように「ジパング」は、ユーラシア東端の島嶼世界に対する間接的な命名だったことをまず押さえる必要があります。
日本列島の自称は、7世紀末の遣唐使期から「日本」で定着し、対外文書でも「日本国」「日本使」と表記されました。中国側の史書や港湾の文書では「日本」音形が諸方言により「Jipen/Jihpen」風に発音され、それが西方へと伝わる過程で「Cipangu」へ変換されたのです。つまり、ジパングは「日本」の異言語圏における音写の一系譜に位置づきます。
黄金伝説の由来:何が「黄金の国」を生んだのか
『東方見聞録』におけるジパングは「黄金に富み、宮殿や寺院に金箔が多用される」と描写され、以後「黄金の国(El Dorado of the East)」という強烈なイメージが独り歩きします。この伝説の背景には、いくつかの現実が重なっています。第一に、東アジアの宮殿・仏寺・工芸では古来、金箔・金泥・漆金(蒔絵)といった表面装飾が盛んで、遠来の商人の目に「金で覆われた」ように映ったことです。実際には薄い金箔や金粉で視覚的効果を作る技法が多く、量的な金の使用が必ずしも膨大でない場合でも、印象はきわめて豪奢でした。
第二に、中世末〜近世初頭の日本には、佐渡などに代表される金山の稼働が存在しました。産金は常に一定ではなく、時代差・地域差が大きいとはいえ、東アジアの交易圏に金が供給された事実は、伝聞を補強する役を果たします。第三に、漆器・金工・絹織物などの高付加価値工芸が輸出され、価格がヨーロッパ基準で高額になりがちだったため、「金持ちの国」という連想が生まれやすかったことも挙げられます。
さらに、文化翻訳の効果も見逃せません。西欧語で「金」は富と救済の象徴であり、文人や宣教師の記述は東方の富を寓話的に増幅させがちでした。こうして「金に輝くジパング」は実像と虚像の入り混じった象徴装置となり、後の航海計画・植民構想の文言を刺激しました。
地図と航海計画におけるジパング:コロンブス以前・以後
15世紀のヨーロッパ地図(マッパ・ムンディや港湾海図)には、アジア東端に「Cipangu」「Zipangu」などの名が散見されるようになります。地理的な位置は一定せず、アジア大陸の東方海上に孤立した大島として描かれたり、群島の一つとして示されたりしました。これは、距離・方位の情報が断片的で、里程の換算や潮流・偏差の理解が不十分だったためです。にもかかわらず、ジパングは「アジア到達の目印」として、航海論文・王侯への計画書に頻出します。
コロンブスは西回り航路によるアジア到達を主張する際、東端の大島としての「Cipangu」を重要な参照点に置きました。彼は実際にカリブ海へ到達した際も、しばしば島々を日本・中国(カタイ)近傍の地理に擬して報告しています。のちのマゼラン、ポルトガルのインド航路、スペインの太平洋横断(マニラ=アカプルコ航路)など、16世紀のグローバルな航路開拓は、ジパング像を現実の海図に「当てはめ直す」過程を通じて進みました。
16世紀後半、ヨーロッパの地図製作は急速に精密化し、ポルトガル・スペイン・オランダの航海記録に基づいて日本列島の輪郭が描かれるようになります。ここで、古い「Cipangu」は、より具体的な「Iaponia/Iapon/Japan」へと表記が置き換わり、ジパングは歴史的名称としての位置を後退させます。
実接触と呼称の変遷:南蛮貿易から宣教師文献へ
1540年代にポルトガル人が東アジアに到達し、1543年には日本(種子島)に漂着して火器が伝来したとされます。やがて平戸・長崎を中心に南蛮貿易が本格化し、イエズス会宣教師も入国します。この過程で、ヨーロッパ側の日本呼称は「Iapon/Iapão(ポルトガル語)」「Japón(スペイン語)」「Japan(英語)」「Japon(仏語)」へと整い、ラテン語では「Iaponia」が定着します。これは、ポルトガル語の発音〈ジャパンに近い〉が他言語に波及した結果で、オランダ語「Japan」が17世紀の英語へ影響する回路も重要でした。
宣教師書簡・辞書(『日葡辞書』など)・地誌は、日本の社会・宗教・政治を詳細に記録し、ヨーロッパにおける日本像を更新しました。金銀の産出、漆工・金工・刀剣の技術、城郭建築、戦国大名の政治、寺社・仏教・神道の関係など、具体的な情報が流通するにつれ、抽象的な「黄金のジパング」は、多面的で生々しい「日本」へと置き換わっていきます。それでもなお、文学・演劇・旅行記では、ジパングの語が〈幻想の東洋〉を象徴する記号として時折再登場しました。
相互イメージの交差点としてのジパング
ジパングは、ヨーロッパが東アジアを想像する際の出発点としてだけでなく、日本が西洋を見る「鏡」としても意味を持ちました。南蛮文化受容のさなか、日本側の知識人は洋学・宣教師文献を通じて自国像の「外からの描写」に触れ、外名である「Japan/Iaponia」が持つ異国的響きを意識するようになります。江戸時代の鎖国下でも、長崎出島を通じた蘭学書は、西洋地理の枠組みの中で日本を相対化して描き、幕末には〈日本/ニッポン〉と〈ジャパン〉が併存する言語空間が成立しました。
近代以降、ジパングは歴史用語・文学的修辞としての生命を残し、しばしば「黄金の国ジパング」というフレーズが、観光・娯楽・フィクションで再生産されます。この再生産は、異国趣味や自己異化を伴いながら、同時に日本の工芸・自然・食文化への誇りと結びつく場合もあります。つまり、ジパングは単なる過去の名ではなく、現代のカルチャー市場で循環する象徴資本でもあるのです。
誤解の整理:呼称・地理・富の実像
第一に、「ジパング=日本人の自称」という誤解があります。ジパングは外名であり、内名は歴史的に「倭」から「日本」へ移行しました。第二に、「ジパング=黄金でできた国」という直喩は象徴的誇張です。金山の存在と金箔・蒔絵などの装飾文化が強い印象を与えたのであって、国家全体が金に満ちていたわけではありません。第三に、「ジパングの位置が古地図で一定していないのは地理無知の証明だ」とする単純化は避けるべきです。中世の知識体系では、経験的距離・方位の断片が継ぎ接ぎされ、航海知が更新されるたびに配置が変わるのは自然な現象でした。
第四に、「ジパング=コロンブスの誤認の原因」という理解も部分的です。コロンブスはアジア東端の島々を想定して西航に踏み切りましたが、彼を動かしたのはジパングだけでなく、香料諸島・カタイ(中国)・チュルキスタンに関する地理観と、君主への献策のための政治的レトリックの組み合わせでした。第五に、「ジパングからJapanへの呼称変換は単線的」ではありません。ポルトガル・スペイン・オランダ・英仏の言語間で音写・綴りの揺れが長く併存し、宣教師・商人・外交官のネットワークによって徐々に標準化されたのです。
最後に、ジパングを「虚構」と切って捨てるのも適切ではありません。外名は常に相互翻訳の産物であり、そこには他者理解の努力と誤解が重なって生まれる歴史が宿ります。ジパングという語は、ユーラシアの端から端までを結ぶ情報の流れ、商人・宣教師・宮廷・航海者の想像力の交錯を、コンパクトに封じ込めた印章のようなものです。その来歴に目を凝らすことは、世界史のなかで日本がどのように見られ、どう見返したのかを具体的に理解する手がかりになります。

